辛卯 一
夏は夕日が綺麗な季節とは言えない。が、稀に真っ赤な血のような光を、夜に投げかけることがある。
ガラガラと教室のドアを開けて、眼に飛び込んできたのは、そんな赤だった。眩しさと鮮やかさに、思わず立ちすくんで眼を瞬かせた。
少し眼が慣れてくると、窓から差し込む赤い光線の下、四十台ほどずらりと並んでいる机の、ちょうど真ん中あたりに突っ伏している、黒い影が見えた。生き物だ。モゾモゾと動いて、呼吸に合わせて背中が上下している。
面倒なことになったな――と、結野萌黄は顔をしかめた。忘れ物なんて気にせず、さっさと帰れば良かったと後悔した。
このまま何も見なかったことにして帰ることも考えた。が、さすがに気が引ける。職員室に行けば誰かは残っているだろうから、その先生に押し付けることもできようが、そんな大事? になるのも、やはり気が引けた。
自分が動けば、どうにかなるのだ。
こういう時に、自分の生真面目さが泣けてくる。がっくりと肩を落として、相変わらずモゾモゾ動いている塊の傍まで言って、背中をドン! とどやした。
ビクッとした、ように見えた。返事はなかった。ムッとして、肩に手を掛けて揺さぶる。
「おい! 翔! いつまで寝てんの! もうみんな帰っちゃったよ」
うにゃうにゃと、ぐうたらな猫が喉を鳴らすような音。枕側に組んでいた腕から、頭部が重い音を立ててごとりと落ちた。ようやっと横顔が除くが、その眼は固く閉じられている。
なおも執拗に肩を揺らす萌黄。あまりの勢いにガタガタ鳴り出す机と椅子。ここまでやって、漸く眼が薄っすらと開く。膜が張ったようにぼんやりとした、何も見ていない瞳……。
翔と呼ばれた黒い塊が、身体を机から持ち上げ、うんと伸びをした。大口を開け、何もかも吸い込んでしまいそうなほど深い深い欠伸。目尻に涙が溜まり、瞑った眼に沿ってそれがじわじわと染み込んでいく。
ぱっと眼を開いた。十秒くらい、間抜けな沈黙があって、おお――と間抜けな声が出た。
「萌黄――あれ? 部活は?」
マジか――とガックリ肩を落とす萌黄。黄昏は頂刻を過ぎて、次第に暗くなる。翔はそれを窓から見て、
「えっ? もうこんな時間? 俺――何してた?」
あのねえ! と声を荒げる萌黄。翔は動じず、ぼんやりした顔を向けるばかりである。
「何してたって、そりゃこっちのセリフでしょ! 大体、今の今まで一回も起きずに寝続けるなんて、最近、本当にどうかしてるよ?」
「寝てた――俺が?」
信じられない、という様子で首を横に振る翔。その様子を見て、さすがに心配になったのだろう。萌黄は翔の肩を軽く揺すって、
「ねえ、やっぱり変だって。最近。前からぼんやりしてたけど、こんなに寝ることなかったじゃん。いつから、寝てたか、覚えてる?」
「いつからったって――今日は終業式だから授業はないだろ? 体育館では起きてたと思うから、掃除の後のLHRくらいからじゃないの?」
「LHR、十一時には終わったんだけど」
「……」
「そっからだと、五時間ぐらい寝てたことにならない?」
「……」
「……」
気まずい沈黙。これはさすがにヤバい――そんな思いが、翔の中にも現れてきているらしい。絶句してしまった萌黄を前に、コホンと軽く咳払い。とにかくさ、と声の調子を変え、
「起こしてくれてよかったよ。萌黄が来てくれなかったら、明日の朝までここで寝てたかも知れないし」
「いさ、さすがにそれはないよ。用務員さんとかが気づくって」
「そう? でも、この時間になるまで誰も起こしに来なかったじゃないか。――まあ、それは良いや。とにかく帰ろう。暗くなったし、今日も塾あるんだろ?」
頷く萌黄。翔は立ち上がり、カバンを担ぐと、行こうぜ、と先に立って教室を出る。仕方がないと肩を竦め、その後に続く萌黄。忘れ物を取りに来たはずだったが、結局、自分の机にさえ近づかぬままだった。
人気のない廊下を、並んで歩く。空はとうに闇に塗りつぶされ、虫の声もすっかり夜らしくなっていた。
下足から正門に向かって歩く途中、翔は鞄を持ったまま、再度伸びをした。夏でも日が暮れれば涼しいもんだな、と笑う。五時間近くも眠り続けて、さっぱりしたのだろう。教室で白河夜船だった時とは比較にならないほど活き活きしていた。
「ねえ――そんなことより、本当に大丈夫なの? 身体、どこかおかしいんじゃない?」
憑物が落ちたようにスッキリな翔に対して、萌黄は浮かぬ顔を崩さない。おかしいと言ったってなあ、と翔は頭を掻きながらぼやく。二人が並んで歩くと、翔のほうが少しだけ背が高い。萌黄は横から翔を見上げるようにして、
「だって去年はこんなことなかったじゃない? いつまでも寝続けるなんて――」
「だって、眠いんだからしょうがないじゃん」
「いつから?」
「いや、だからお前の言う通り今年……ってか、四月になってからだな。急に、昼間眠くなって、夜眼が冴えるようになった」
「昼夜逆転してんじゃん。夜はいつまで起きてんの?」
医者みたいだなお前、と苦笑する翔。
「別に、夜眠れないわけじゃないんだよ。寝ようと思ったら、寝れる。四月頭は、俺も生活リズム戻さなきゃって、頑張って寝ようとしたんだ。そしたら――頑張らないでも寝れた」
「え? じゃあ、ほとんど一日中、寝てた日もあったってこと?」
頷く翔。呆れたように頭を振る萌黄。
「それって――起立性なんとかとかじゃないよね? 病院行った?」
「いや――親には知られてないし、行ったところでどうなるもんでもないと思って」
「……本当に、大丈夫なの?」
そんなのわかんないよ、と夜空を見上げながら翔は言った。後は沈黙。
暫く歩くと、道が枝分かれしている。萌黄は左に曲がり、翔はそのまま真っ直ぐ。
それじゃ――と翔が手を挙げようとすると、萌黄が振り返って言った。
「あのさ、わたし、この後九時くらいまで塾あんの」
「ああ――」
翔は頷いた。萌黄はほんの僅か、躊躇う様子を見せたが、すぐに、
「最近物騒だからさ、送ってよ」
「送るって――それまで、待ってろっての?」
だからさ、と髪を掻き分けながら、
「翔もいったん家に帰ってさ、晩御飯とか色々あるでしょ? で、九時になったら迎えに来てよ。わたしが行ってる塾の場所、知ってるでしょう?」
頷く翔。じゃあ、よろしく――と萌黄はさっさと行こうとする。その背中に、
「おいおい。何で俺がそんなこと――」
良いじゃん別に――と、続きを言わせない萌黄。
「最近物騒だしさ。良いの? わたしが夜道で襲われても――」
「良いことはないけど、だったら親に迎えに――」
今度は、翔自ら途中で言葉を封じた。萌黄の家が今少々複雑なことになっていると、聞いた記憶があったのだ。気まずい沈黙に陥る前に、翔は頭を掻き掻き、
「分かったよ――。でも、俺なんかで良いのか? 役に立たないよ」
大丈夫だよ、と萌黄は笑った。翔が失言しかけたことを、気にした様子はない。
「夜の方が、目が冴えるんでしょう? 頼りにしてるよ」
それじゃあね、と萌黄は背を向け、歩いて行った。
その後ろ姿が角の奥に消えるまで見送った後で、翔は歩き出す。途中から足を踏み出す間隔が速くなって、すぐに駆け足になって――。
自分でも分からない衝動に背中を突かれて、翔は風邪を纏い、夜道を駆けた。
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