第二十八話 伝えること、伝えないこと
そして、出立の朝が来た。
いささか浮き立った気持ちで布団を片付けた登与は、身支度とこの屋敷での最後の食事を済ませた。いつもよりはゆっくりと丁寧に、惜しむように。一人きりで出立の準備を仕上げていく。
支度ができたあと。奥座敷へ足を向けた登与は、奥座敷の閉じられた戸をじいっと見つめた。
昨夜野菜で作ったつまみを奥座敷へ持っていったとき。にこやかにつまみを受けとってくれた佳宗の後ろで、辰臣は不機嫌な顔をして酒を飲んでいた。素襖はあのぼろぼろの素襖ではなく、臙脂に花の丸文を散らしたもの。さすがに着替えたらしい。いいことだ。
でもあの態度はないよね……。
登与のほうをちらとも見ず、佳宗に促されてやっと顔を向けるだけで辰臣はついに一言もしゃべらないままだった。まるで出会った頃のような辰臣の振る舞いに、助けてもらったことで礼を言いはしたものの登与の腹の中では文句があふれていた。
なので正直言うと、辰臣と顔を合わせるのはあまり気が進まない。だがもう登与はここを去るのだ。今しか彼に会う時間はない。
「…………辰臣さん、いますか」
意を決して、登与は戸の向こうに呼びかけた。
期待なんてほとんどしていない。最後の機会なのだから最後の手段を、といった程度のつもりだった。
――――しかし。
「……ここにいる」
「っ! いたんですかっ?」
予想だにしなかった返答に、登与は思わず声を裏返らせた。背筋が伸びる。
床がきしむ音がして数拍。戸が開かれ、辰臣が姿を現した。
「何の用だ」
「えと……今日ここを出るんで、挨拶しておこうと思ったんですよ。これ、渡したかったですし」
じろりと見下ろしてくる辰臣にそう言って、登与は小箱を辰臣に見せた。彼の手のひらに収まる大きさで、様々な花を彫って色を塗ってある。
胡乱そうな目で小箱を受けとった辰臣は、開いて中を見た。その途端目は大きく見開かれ、唇もわずかに開かれる。
当たり前だ。手のひらに収まる箱の中に真っ白で大きな――――‘白幻花’の数枚の花びらが飾り物のように布の上に並べられ、糸で布に留められていたのだから。
「お前、どこでこれを……」
「私の枕元ですよ。押しかけ女房さん、私に簪のお礼を言いたかったみたいですね。あの日の昼間に起きたら残ってました」
どうだ褒めるがいい。そんな心情を隠しもせず、登与は笑みを浮かべた。
「すぐ辰臣さんに届けようとは思ったんですけどね。でも容れ物があったほうがいいじゃないですか。だから町で小箱を買ってきて、大急ぎで細工したんです」
というか単純に、私が形見の品みたいな花びらをそのまま渡すのが嫌だったんだよね……無地の箱を見たらなんか彫りたくなったというか。
登与の説明を聞いているのか、いないのか。辰臣は、花びらの輪郭に指先でそっと触れた。顔をゆがめ唇を強く噛むと、優しい手つきで箱の蓋を閉じる。
「……礼を言う」
「どういたしまして」
素直な感謝の言葉である。登与はにかりと笑った。しんみりした空気を振り払うように、でもまあとわざと明るい声で言う。
「辰臣さんにはなんだかんだ言って助けてもらいましたからね。『うるさい』の連呼には、腹が立ちましたけど」
「それは事実だろう」
「辰臣さんがしゃべらなさすぎなんですって。私が普通なんです」
登与はふくれてみせる。だがそれも数拍のことで、すぐ表情を和らげた。
「……辰臣さんはこれからどうするんですか?」
「どうもしない」
箱に視線を落としたまま辰臣は言った。
「今更、生まれた里へ帰る意味もない。星の神のもとへ行く理由もない。……ここで生きていくだけだ」
「佳宗さんは里へ帰ってきてほしいんじゃないでしょうか。前から誘われてるんでしょう?」
「何故あいつのために帰ってやらねばならん」
「あはは、そうですよね」
叩き切るような即答に、登与はいっそ清々しい思いで小さく笑み含みの息を吐いた。これぞ辰臣さん、と称賛に似た気持ちすら起きる。
まあどうせ佳宗のことだ。暇を見つけてはこの屋敷を訪れ、辰臣をからかっては帰っていくに違いない。だったらこれからも辰臣は一人ではないだろう。
「……じゃあ、そろそろ行きますね」
登与はもう一度、辰臣を見上げた。
「私、都の外れにある
「……」
「外で暇つぶしをしたくなったら、遊びにきてください。‘月烏’もしばらくは、棟梁の帰りが遅いことに意識が向いてるでしょうし。夜なら都の上を飛んでもばれませんよ、きっと」
無言の辰臣に登与は笑ってみせた。
「私を育ててくれた巫女さんと根宜さんは、人を襲わない妖には文句を言わない人たちなんです。ちびたちにも無害な妖はほっとくよう言ってますし。だから、あの二人の前なら人間のふりをしなくても大丈夫ですよ」
「……」
「遠くからのお客さんは大歓迎です。辰臣さんなら都の辺りまでひとっ飛びでしょう? なんなら佳宗さんと一緒でもいいですよ。待ってますからね」
そう最後に言って登与は踵を返した。辰臣の表情からは興味も拒否も見えなかったが、そこは触れないことにする。
――――が。
「おい」
呼び止められ、登与は目を瞬かせて足を止めた。振り返ると辰臣は視線をさまよわせ、続ける言葉に迷う表情をしている。
「……あの意匠、悪くはなかった」
表情の割にはあっさりと、辰臣は評価を口にした。視線を登与と合わさず、何のとも言わず。複雑な心情が一目瞭然だ。
小刀のことだと理解し、登与は満面の笑みになった。いや、にやけていたのかもしれない。
「でしょう? また依頼があれば承りますよ。次はお代をもらいますけどね」
そう宣言して、登与は今度こそ足どりも軽く表座敷へ戻った。
歩いても歩いても、辺りは静かだ。蝉時雨は遠く風も緩やかで、鳥の鳴き声も聞こえてこない。祭りの名残も失せ、物見遊山の客も帰ってすっかり日常に戻った町からの賑わいもそう大きくはない。
本当に、最初に来たときと何も変わらない。静かな夏の山中だ。
茶の間の真ん中で、登与はふと奥座敷のほうを見た。奥座敷の戸はすでに閉められ、先ほどの会話の名残は何もない。
だが登与は辰臣の表情の変化が目に焼きついていた。よくよく観察すると、あの天狗は感情が豊かなのだ。鉄面皮だからわからないだけで。
それに、もう一つ。辰臣に話さなかった‘白幻花’の精の一人語りも登与の胸に刻まれている。
『ありがとう。頑なになってしまった辰臣さんの心を解いてくれて』
あの日。疲れきって眠る登与の夢に現れた‘白幻花’の精は、そう登与に礼を言った。
『私はもう一度、あの人に会いたかった。そばにいてほしかった。だから待っていてくださいと言ったの。でもこの屋敷に閉じこもってほしいわけじゃなかったのよ』
『天地の霊気を蓄えて外の世界のことがわかるようになってから、辰臣さんに何度も話しかけようとしたわ。でも力が足りなくてできなかったの。後悔したわ。あの人なら自分の翼を地上に縫いつけかもしれないってわかっていたのに、待っていてほしいなんて。……でも、会いたかったのよ』
‘白幻花’の精がどんな表情で言っていたのか、登与は思いだせない。あるいは声しか登与の夢の中に届けられなかったのかもしれない。ただ声音からにじみ出る喜びと悲しみが、種の中で彼女が抱えていた苦悩を強く感じさせた。
『百年かけて、やっと咲くことができるところだった。でもあの黒天狗が星を石雪の町に招いたから、それを防ぐために辰臣さんと一緒に力を使って……残っていた力でかろうじて咲くことはできたけど、これ以上は無理。……私はもう辰臣さんのそばにいられないわ』
‘白幻花’の精は、少しだけ泣きそうな色を声ににじませた。
『佳宗さんでもどうにもできなかった辰臣さんの心を、貴女が揺らしていくのを見ていたわ。貴女が私の墓に簪を供えてくれるのも、そのおかげであの人が小刀を供えてくれたのも。私、嫁入り道具を持ってなかったから打ってほしいってあの人にお願いしていたのよ。あの人は呆れていたけど』
『百年かかってやっと私にくれたわ。貴女のおかげよ。この花と羽根の彫刻も嬉しかったわ』
声に宿る喜びが、少しだけ悲しみより増した。
『時間はまたかかるかもしれないけど、辰臣さんはきっともうこの大空を神々の世界までだって飛んでいけるわ。だって天来の天狗の息子で、私の旦那様だもの』
‘白幻花’の精の声に喜びの色が増していった。けれどその代わり、声は登与から少しずつ遠くなっていく。
『ありがとう、遠いところから来た行商人さん。辰臣さんがもう一度外の世界を見るきっかけを作ってくれて、ありがとう――――』
そうして優しい声と気配とほのかな涼しく甘い匂いは失せ、登与は目覚めて。枕元に散らばる花びらを見つけたのだ。
‘白幻花’の精の一人語りを登与が辰臣に語らなかったのは、語る必要のないことだと思ったからだ。彼女が登与の夢に現れ語ったのは、感謝の気持ちを伝えるためと、登与に自分たちのことを説明したかったからだろう。そんなものを、わざわざ伝える必要はない。
それに辰臣さんだってきっと、あの人が自分に自由でいてほしいって願ってたことはわかるはずだし。
だから代わりに登与は辰臣を故郷へ誘った。‘白幻花’の精や佳宗が願っていたように、この屋敷の外の世界へと。
「……待ってますからね、ほんとに」
とは言っても、辰臣に登与の言うことを聞く義理なんてないのだ。不愛想で頑固で孤独が好きときている。もしかすると登与が死ぬまで来ないかもしれない。
けれど登与は待つつもりだった。そして、案外願いは叶うかもしれないとも思っている。
だって辰臣はもう花の墓守ではないのだ。彼の本性は佳宗と同じ、自由に空を駆ける天狗。大地にいつまでも留まっていられるはずがない。
だからきっと、気が向けば遊びにくるだろう。
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