第二十話 闇から闇へ

 ひたすら駆けて、登与は屋敷に駆けこんだ。勢いよく戸を開け、荒々しい足音を響かせて縁側から中庭へと素足で飛びこむ。

 これに気づかない辰臣ではない。中庭の奥から不機嫌な顔で現れた。

 いつもならうるさいぞ、と辰臣が文句を言うところだ。だが登与はそれより早く口を開いた。

「‘白幻花’はっ本当に咲いてないんですかっ?」

 ぜえぜえと荒い息を混じらせながら、登与は辰臣に飛びつくように問いを投げた。辰臣はもちろん胡乱な顔をする。

 だが登与はそれに構っていられなかった。

「久江ちゃん……ここにたまへ来てる女の子が、いなくなったんです。それで、あの男が、‘白幻花’を明日の朝までに、屋敷の前に持ってこいって」

「……」

「でないと、久江ちゃんを殺すって」

 そこまで言って、登与は荒い呼吸を意識して深いものに切り替えた。何度も繰り返し、呼吸を落ち着けようとする。それでも喉の痛みや胸に打ちつける鼓動の激しさは、簡単には収まってくれない。

「……その娘はどこかお前が知らない場所にいるだけで、あの男は便乗しているだけじゃないのか」

「もちろん、その可能性はありますよ。家の人とごたごたしてる子みたいですから」

 冷静な指摘に苛々して、登与は辰臣を睨みつけた。

「でも、久江ちゃんは祭りをすっごく楽しみにしてたんですよ。そのためにわざわざ行商が終わった私を追いかけてまで、簪を買おうとしたくらいですし。待ちあわせをすっぽかすような子じゃないって、他の子たちも言ってましたし」

「……」

「あの子が河原で私と一緒にいるのを、あの男も見てますし。やっぱりあいつがさらったに決まってます」

 ただの久江の気まぐれなら、どんなにいいことか。この屋敷に彼女を招いたときのように、ふらっとどこかから出てきてくれたら、叱って笑って、それで終わりなのに。

 だが状況はそんな希望的観測を許さない。久江はあの男に連れ去られた。そして今もどこかで一人、怯えているに違いない。

 登与の怒りや焦りが伝わったのか。辰臣は両腕を組んで、感情的な息を小さく吐いた。

「……何度も言うが、‘白幻花’は咲いていない。あったら俺が見つけている」

「でも、あの男の人はここにあるはずだって」

「何度も言わせるな」

 食い下がろうとする登与を辰臣はぴしゃりと制した。その怒りを孕んだ低い声に、登与はびくりと肩を震わせる。

 歯を強く噛みしめ、拳を握り締めた。

 じゃあ、どうすればいいの。私は探索の術なんて使えないし。

 どうすれば――――――――。

 ――――――――が。

「…………その娘を探せないわけではない」

「っ!」

 思いがけない一言に、うつむいていた登与は目を見開いて顔を上げた。

「できるんですかっ?」

「これ以上お前や町の人間たちにこの屋敷で騒がれては困る。さっさと着替えて、奥座敷へ来い」

 辰臣は身をひるがえして言った。

 それからほどなくして、屋敷に町娘と久江の母親がやってきた。登与は久江がいなかったことを説明し、くずおれる母親を町娘たちが支えて連れて帰るのに罪悪感を覚えながら見送る。

 急いで身支度を整えたあと。まだ青さを残す空の下で山の影が濃くなり、夜闇に変わろうとする中、登与は巾着を手に渡り廊下の奥――奥座敷へ向かった。

 異界の気配が濃い。嫌悪と不安を煽りたてるあの気配だ。渡り廊下を過ぎた瞬間からずっと、登与の心をざわめかせている。

 不安を押し殺して歩く登与の脳裏に、今朝見た夢が唐突によみがえった。

『もう死にます』

 床に伏した女はそうはっきりと言って、辰臣を見上げていた。その顔には血の気が通っていて、死にそうには見えないのに。

 その辰臣がどんな表情だったのかは、陰になっていたからわからない。女を見つめていたのは確かだけれど。

 最奥の部屋の前に着いて、戸を開けた途端。登与は肌が粟立った。

 一見すると普通の部屋だ。青白い光がいくつも灯る庭を望み、往時は屋敷の主が住んでいたのだろう。母屋の座敷と違って調度や置物は放置されたままだ。濃厚な異界の空気が庭のほうから漂ってきている。

 何より、この景色。

 夢の中と同じ――――。

 理解し、登与は確信した。

 ここであの押しかけ女房さんは死んだんだ。それから辰臣さんは自分の手で、中庭の奥に遺体を埋めた……。

 幼かった登与が大人たちにしてもらったことを、彼は一人でやったのだ。

 そんな場合ではないとわかっていても感情がこみ上げてきて、登与はたまらなくなった。同時に、辰臣の姿が見当たらないことに一層不安を煽られる。

「辰臣さん……?」

「……庭だ」

 登与が小さな声をあげると、辰臣の声が奥――――庭から聞こえてきた。異界の気配はそちらから漂ってきているが登与はほっとして、小走りで向かう。

 縁側から庭へ下り首をめぐらせると、荒れた庭の奥に辰臣はいた。

 光を拒むかのような夜闇の中、辰臣の姿は明瞭だった。彼の周囲には青白い光が浮いているだけでなく、波紋を揺らす水鏡がいくつも彼の足元にある。その一枚一枚に映っているのは、山中の景色だ。

 しかし登与はそれよりも、辰臣の姿に目を奪われていた。

 一対の翼を背に生やした、天狗らしい姿だというだけではない。

 その両翼の色――――白ではなく、ひとしずくだけ金を溶かしこんだようなきらめきが宿った白金。

 綺麗――――。

「……もしかしなくても辰臣さんって、力以外でも特別な天狗……?」

「死んだ父が昔、星の神に仕えていただけだ」

「って、それ滅茶苦茶特別じゃないですか!」

 淡々と言う辰臣に、登与は思わず声を裏返らせた。

 星の神ってあれだよね? 天子様のご先祖が天から下ってくる前に討伐しようとして、結局は屈服させられなかった孤高の神! そーいや白天狗の先祖って、天からやってきたんだっけ!

 つまり辰臣は巷の白天狗よりも先祖の血が濃いのだ。特別もいいところである。

『誰よりも遠く、高いところへ飛べる天狗のくせに』

 佳宗はそう辰臣のことを言っていたのも頷ける。辰臣ならその気になれば、星の神の住まいまで飛んでいけるに違いないのだ。何故思うままにはばたかせないのか、と言いたくなるだろう。

 辰臣は小さく息を吐いた。

「くだらないことを言ってないで、小娘を捜したらどうだ。水鏡にこの辺り一帯の様子を映している。ぼうっとしていると映る場が変わって見逃すぞ」

「あ、はい。すみません」

 冷ややかに言われ、登与は慌てて水鏡に目を向けた。

 そう、私は久江ちゃんを捜しにきたんだ。辰臣さんの素性に驚いてる場合じゃない。

 登与は辰臣のことも忘れ、いくつもの水鏡に映る山々の夜景に見入った。幸運にも今夜は雲一つなく晴れ、月の光がよく地上を照らしてくれている。月の神様ありがとう、と登与は天の恵みに心から感謝した。

 そうして登与が目を皿のようにして久江の姿を捜し始めてから、どのくらい経ったのか。

「――見つけたぞ」

「! どこですかっ?」

 地面にばかり目を向けていた登与は、かかった声にばっと顔を上げた。青白い光を浴びて一層人ならざるものめいた装いの辰臣を見る。

 登与が走り寄ると、辰臣は自分の足元から少し離れたところにある水鏡を指さした。

 ……前訪れた河原よりもっと奥の河原……? 転がってる石は大きいし、岩も少なくないし……対岸も崖になってるし。

 そんな河原を凝視した登与は、やがて鎮座する岩の一つの上を見て目を見開いた。

「……!」

 久江はその岩の一つの上に横たわっていた。岩には何やら黒く光る紐が巻きつけられており、さながら生贄を捧げる儀式の祭壇のようだ。

 登与はぞっとした。

「河原って……」

「危険だな。ああいう岩が転がる河原は、この時間帯ならどこも異界と重なっている。――――賽の河原になるぞ」

「――――っ!」

 辰臣の説明に、登与は目を大きく見開いた。

「辰臣さん、ここへ行くにはどうすればいいですか?」

「異界を通り抜けるが一番早い。だが危険だぞ」

「っ行きます!」

 問う視線を向けられ、登与は即答した。

 答えてからすぐさま、川辺や屋敷を覆う影に重なった異界を通り抜けたときのこと――――その恐怖を登与は思いだした。しかしすぐに無視する。

 言葉を交わしたのは数えるばかり。濃厚な話をしたのはたった一度、この屋敷の囲炉裏を囲んだときだけだ。山道が復旧すればすぐ町を発つつもりでもいる。入れこむには時間が足りなさすぎるかもしれない。

 だが言葉を交わしたのだ。その孤独に触れたのだ。大人たちに守られていないことに、怒りを感じもした。

 放っておけるわけがないでしょ……!

「ならば」

 登与の眼差しから、強い決意を感じとったのか。辰臣は水鏡に再び視線を向けた。

「あの水鏡に触れて中へ飛びこめ。向かう先を忘れず中の異界を通り抜ければ、向こう側に着く。あの岩があるのはそこを流れる小川の上流だから、川沿いに歩けばこの屋敷へ戻ってこれるはずだ。――――それと」

 そこで辰臣は言葉を一度切ると、手のひらを上に向けた。するとそこに淡い白金の輝きを帯びた玉が生まれる。

「念じれば不可視の壁がお前を守る。長くはもたんが、ないよりはましだろう」

「……! ありがとうございます!」

 玉を受けとった登与は、目を見開いて輝かせた。それは心強い。

「その娘のことでお前についていく義理はないからな。だが、お前に死なれるのも目覚めが悪い」

「充分過ぎですよ。案外優しいですよね、辰臣さん」

 視線を合わせない辰臣の言い訳に、登与はからりと笑う。焦らないといけない状況だとわかっているが、それでも言わずにいられなかった。

 そこで登与はあ、と気づき、慌てて持っていた巾着を辰臣に押しつけた。

「依頼されてた品です。意匠についての文句は聞きませんよ。辰臣さんが私に一任したんですからね」

 と、登与はにっと笑ってみせた。

 あとで見て驚くがいい。私だってちょっとは頭を使うんだからね!

 そして瞬き一つで気持ちを切り替えると貝を袂に入れ、小太刀の柄に手を置いて存在を確かめた。

「それじゃ、行ってきます」

 そう辰臣に宣言して、登与は意を決して水鏡に触れた。

 そのとき、言葉が聞こえた。

 思いがけない音に、登与が目を見開いた直後。

「…………っ!」

 登与の手が何かに掴まれた。そう認識するか否かのあいだに強い力で引っ張られ、登与の身体は傾く。

 何かにぶつかったり、吸い込まれるような感覚はわずかもなかった。ただ普通に引っ張られた感覚だけ。

 辺りをほのかに灯していた青白い光が失せ、冷たく乾いた風が頬を撫でていったのを感じて登与は目を瞬かせた。下に落ちていた目線を上げる。

「……っ」

 登与が顔を上げたそこには、何もなかった。

 辰臣がいないどころではない。屋敷の枯れた庭や月光に照らされた木々の黒々とした影もなく、葉が一つもない枯れきった木々が柵か網のように影を落とす荒涼とした大地が広がるばかりだ。

 漆黒の空では大きな月が金色の姿をさらし、色とりどりの光が申し訳程度にちらほらと瞬いている。

 これは濁世と同じかと一瞬登与はほっとしたが、しかしすぐその認識を改めた。

 よくよく見ると、その漆黒がうごめいているのだ。時折光を消したりして、遊んでいるかのようでもある。

 この黒いの空じゃない……! 触手なんだ……!

 理解した途端、登与は背筋がぞっとした。空から目を逸らす。

 しかしそうして再び見た地上も、枯れた木々の合間に影がいつのまにか現れていた。人の姿をしているものもあれば、そうでないものもある。

 賽の河原で見た死者の魂とは違う……ってことは異界の住人だよね、多分。

 濁世の人間とはまったく違う存在だ。どういう生態かよくわからないが、触れられることさえ危険であるのは間違いない。

 異界の住人は枯れた木々の周囲から生まれると、酔っぱらいのように身体をふらつかせながら動きだした。のそりのそりと登与に向かって歩きだす。

 やっぱりこうなるのか。登与は心の中で舌打ちすると、木々の合間へ突入した。

 不思議……裸足で走っているのに足裏が全然痛くない。

 石や砂を踏んでいる感触は確かにあるのだ。なのに痛みを感じないのだから、異界はやはり濁世とは違う理で動いている。

 ひたすら走っていた登与に、木々の合間から現れた人影が近づいてきた。鈍重な動きで登与に触れようとしてくる。

「っおさわりしていい仕事してないよ、私は!」

 走りながら腰の小太刀を抜き、登与は体をひねって異界の住人を斬り捨てた。眼前に倒れた身体を飛び越え、走る。

 そして祈った。

 強く、強く。先ほど見たばかりの、横たわった久江を登与は思い浮かべた。今まで見てきた久江の姿も心に描く。

 屋敷へ帰ろうとする登与を追いかけてきたときの必死な顔。

 家族の不和から逃げてきたときの、呆れと諦めがないまぜになった横顔、背中。

 復旧作業に勤しむ者たちに差し入れを持ってきたときの、若い男たちに向けた好奇の眼差し。

 ――――そして。

「久江ちゃん……!」

 登与の簪を選ぶ真剣な眼差し。

 ――――もう一度、あの笑顔を見たい。

「――――!」

 その祈り、あるいは結んだ像が導いたのか。突然登与の足元から真っ白な光が突き上がり、登与は思わず目を閉じた。光は一瞬で止み、それを感じて登与は目を開ける。

 すると枯れた木々の大地と不気味な夜空に二分された世界に、白金の炎の明かりが灯っていた。登与の目の前に浮かんだそれはふわふわと左右に揺れると、すいと登与から遠ざかる。

 ――――いや、導こうとしているのか。

 登与の胸に希望が灯った。術を唱えて身体能力を一時的に向上させ、走る速度を上げる。

 待ってて、久江ちゃん。絶対に助けるから。

 そう心に誓い、登与は白い光の導きを追いかけた。

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