第十七話 きっとそれが理由・二
『妻にしてもらいに来ました』
くたびれてはいたが品のいい身なりをした女はそうのたまわって、言葉に違わずこの屋敷に居ついた。
とはいえ、長年にわたって‘月烏’に囚われていた身である。家事ができるはずもなく、それどころかしようとするたび何かをやらかすので、実際は辰臣が仕事の合間に彼女の世話をしていたと言っていい。こんな役立たずな女を寄こしてきた佳宗に、何度賽の河原の闇を差し向けようと思ったことか。
さすがにそれでは申し訳ないと思ったらしく、女は代わりに生活や辰臣の仕事に必要な物を石雪の町へ買いだしに行くようになった。そうして女の存在は町人たちに知られるようになり、偏屈な刀鍛冶と押しかけ女房の関係は人々の知るところになってしまった。
そんな辰臣と女の奇妙な同居生活がいくらか続いたある日。都から彼女の追手――――あの黒天狗がやってきた。
長い戦いの末、辰臣はこの屋敷の前で黒天狗に術をかけ撃退することができた。だが深い傷を負い、生死の境をさまようことになる。
「――――それで、あいつは‘白幻花’で俺の傷を癒したあとに死んだ」
昔語りの果てに、吐き捨てるように辰臣は言った。
「あの日以来、‘白幻花’の匂いは時折思いだしたようにこの屋敷に漂っては消えていく。‘白幻花’はどこにもないにもかかわらず。あいつがどこかに隠していたのかと探してみても、見つけられなかった」
「……」
「……あいつと共に‘白幻花’は散ったはずなんだ」
強く両の拳を握り締め、墓石に顔を向け。辰臣は押し殺した声で言った。
声に、瞳ににじむ感情の色。
淡く、もろく。触れれば色を失くして砕けてしまいそうな――――――――。
これ、無理ですよ佳宗さん。どうしろっていうんですか。
登与は心の中でうめいた。
近しい者との死別の悲しみを登与は知っている。病という不可視の凶器が両親を連れ去っていく恐怖と悲しみに、幼い登与は震えて叫ぶしかなかった。
けれど辰臣が押しかけ女房を失ったのは、瀕死の自分を救うためなのだ。しかも自分を救い、彼女の命を奪った花は香り続けている。他の場所へ行かなければならない理由もない。辰臣がこの屋敷で墓守をし続けるのは当然だろう。
彼女を愛していたのなら、なおさら。
でも、馬鹿だ。
いつまで墓守をしているつもりなのだ。佳宗と辰臣が語り、登与が夢で見た押しかけ女房はそんなことを望むような女には思えない。想ってくれていると嬉しがっても、前を向いて生きてくれと望みもするのではないだろうか。
けれど、そんなことを部外者の登与が言えるはずもない。
なんで佳宗さんは私に期待すんのよ。十七のよそ者の小娘に、どうやってこの偏屈で不愛想な純愛引きこもり天狗を屋敷から引きずり出せっていうのよ。
登与は唇を噛み、両の拳を握った。商品の下に敷いていた風呂敷を抜きとり、白木の鞘と柄を包む。
「……この屋敷を出るまでに完成させます。意匠は私が考えますけど、文句は言わないでくださいね。屋敷にいさせてもらってますから、お代は要りません」
「……ああ」
念押しすると辰臣は感情が見えない顔で頷く。空気が緩み、登与はどこか救われた気持ちで包みを自分のそばに置いた。
――――しかし。
「…………この山を離れろ」
静かな声で唐突に辰臣は言いだした。
当然ながら登与は胡乱な目をした。
「なんですか、いきなり」
「町に来てから今日までの稼ぎで、旅費はそれなりに貯まっているだろう。この山を離れれば、あの男に迫られることもないはずだ」
「いやー、そうしようにもまだ道が塞がってますから無理ですよ。私が帰りたいのはそっち――――都のほうですし。回り道しようにも私、この辺りの地理知らないですし」
「案内してやる」
「……へ? 辰臣さんが、ですか?」
予想だにしなかった申し出に、登与の目は一瞬きょとんとなった。
「町へは必要なとき以外行かなかっただけで、人間のふりをしていたときもこの屋敷から一歩も出なかったわけじゃない。落ちたばかりの星を探しに行ったりもしていた。都へ向かう山道のどこが塞がっているのか知らんが、あちらの方面へ案内するくらいはまだできる」
淡々と辰臣は言う。どうやら本気で案内してくれるつもりのようだ。
登与は、それがかえって不安に思えた。
「……辰臣さんはこの屋敷を離れても大丈夫なんですか? それにこの依頼は今からやってもすぐにはできませんし」
「屋敷の周りに賽の河原の闇を顕現させて、お前を山から連れだす時間くらいは稼げる。……その鞘と柄は後日、佳宗にお前の故郷へ引き取りに行かせる」
「……」
「お前には帰る場所があるのだろう。だから帰れと言っている。あの黒天狗には人を傷つけないよう術をかけたが、だからといってお前に何もできないわけではないんだぞ」
登与がまだ頷かないからか、辰臣は苛立ちを目ににじませた。
だが仕方ないだろう。顔を合わせた最初の頃は、あんなにも登与に対して冷たく、どうでもいいと言わんばかりだったのに、なんだこれは。
これ佳宗さんが見たらものすごく喜びそうなんだけど。あの黒天狗がうろついてるからって、なんでいきなり態度変わってんの?
表情や声音から辰臣が何を感じ、考えているのか読みとることは登与には難しい。彼の登与に対する態度は大分柔らかくなってはいるが、考えや感情にすぐ見当がつくような間柄ではないのだ。
ただ、彼が無慈悲な男ではないことはもう理解している。佳宗が言っていたように。
戸惑いが失せ、代わりに感情が登与の胸ににじんだ。いくつもの色をしたそれはたちまち胸いっぱいに広がり、手足に伝う。さらに喉へとせり上がっていく。
胸が、喉が熱い。
だから深く考えるより先に、登与の身体は動いていた。
「……いいえ、ここに残ります」
登与はきっぱりと宣言した。
さすがにこの距離である。辰臣の顔がたちまち不機嫌になるのが、登与の目にもうっすらと見えた。
「何を考えている」
「しっかり色々と考えてますよ?」
首を傾け、登与はへらりと笑ってみせた。
「辰臣さんには言ってなかったですけど私、小さい頃に親が死んでまして。自分も野垂れ死にする手前で巫女さんと禰宜さんに拾われて育ったんです。行商はまあ、小物作りが趣味だからっていうのもありますけど、皆の食い扶持と神社の運営資金を稼ぐためって感じです」
「……」
「で、あの黒天狗が頭領をやってる‘月烏’……術者集団が拠点にしてる都の郊外の神社に住んでるんです。偶然あいつらの仕事場を目撃しちゃったこともありますし……あいつらがその気になれば権力と術を使って、私がどこに住んでるのか調べることも難しくないですよ。もしかしたら、商品経由でもう調べられてるかもですし」
何しろ登与は自作の商品に印を入れている。彼らが登与の商品を手に入れていれば、どこの誰が作ったものか調べるのは術を使わなくても簡単だろう。登与が術者たちに帰り道で襲われた頃に命令を持たせた式を都へ送っていたなら、すでに報告があの黒天狗のもとに届いているかもしれない。
「だから、私が今逃げたところで意味ないんです。辰臣さんが中途半端にあの人をけちょんけちょんにしたら、余計私に八つ当たりしてくるかもしれないですし。どのみち、私と辰臣さんは一蓮托生みたいなものなんですよ」
辰臣さんはものすっごく不本意でしょうけど!
登与は口の端を上げてみせた。
「それにさっき、辰臣さんから依頼を請けたばかりですしね。天狗からの依頼なんて一生に一度あるほうが不思議なんですから、やっておきたいですよ。渾身の一品に仕立ててみせますから、辰臣さんはあの黒天狗が来たらけちょんけちょんにしてください」
お願いしますね。
登与は晴れやかに、辰臣に丸投げを宣言した。
そう、登与はもう逃げられない。あの男は登与に利用価値を見出しているのだ。黒天狗だから、登与の行く手を先回りすることも難しくはない。だったらここで腹をくくるしかない。
何より、守るべき墓のそばを離れようとしてくれた優しさに報いたいのだ。
登与の長口上を聞いていた辰臣は目を瞬かせた。やがて長い息を吐く。
「…………うるさいうえに愚かだな、お前は」
「愚かは余計ですよ」
そう言い返すが登与の声音も表情も軽やかだ。辰臣が言葉の冷たさとは裏腹だったから。
辰臣は身をひるがえすと、墓前に座って動かなくなった。登与はそれを見届けてから、片付けかけていた作業の用意をやり直した。小川で木桶に水を汲み、墨を摺り、専用の箱へしまったばかりの筆を取りだす。
きっと。ううん絶対そうだ。
登与は思った。
あの不器用な優しさに押しかけ女房は心動かされたのだろう。彼にたくさん迷惑をかけて世話をしてもらう日々の中で、不愛想の奥に息づく誠実で深い情に触れる機会はいくらでもあっただろうから。
だから、己の命をかけても救いたいと願ったに違いない。
絶対伴侶向きじゃないと辰臣を評価していたが、前言撤回だ。
これは惚れても仕方ない。
登与はくすりと笑い、筆に墨をつけた。
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