『罪』
その日も僕は先に橋の下で兄ちゃんを待っていた。ここで落ち合ってから僕らはねぐらに向かうことになっていた。頑張って金を貯めて、僕らはこんなところから抜け出たかった。思えば母さんにもそれほど世話をしてもらった記憶はない。僕の記憶の中にいるのはいつも兄ちゃんで、兄ちゃん以外の誰かはいなかった。
誰かがやってくる足音で、僕は顔を上げる。兄ちゃんが帰ってきた、と思った次の瞬間僕の身体は固まった。
「おいガキ、ここで何してる」
僕は何も言えなかった。知らないおじさんが僕を睨んでいる。いや、笑っている。僕は咄嗟に稼ぎを持ってる手を後ろに回した。
「何持ってるんだよ」
「やめろ、放せ!」
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
兄ちゃん、助けて!
「やめろ!」
兄ちゃんだ! 兄ちゃんは靴磨きの道具箱をおじさんに投げつけた。
「ニコ! 逃げるぞ!」
おじさんが怯んだ間に、僕は兄ちゃんに引っ張られた。
「でも稼ぎが」
「今は逃げるのが先だ!」
靴磨きの道具の中に、兄ちゃんは全財産を入れていた。もう取りには戻れない。僕は走りながら、どうして僕はこんなに役立たずなのかと泣いた。兄ちゃんは「ニコが無事ならそれでいい」って言ってくれた。嘘だ、だってほぼ全財産だったのに。兄ちゃんの嘘つき。バカ。僕なんか置いていけばよかったのに。僕なんか、僕なんか。
***
ほとんど文無しになった僕らは途方に暮れた。おまけに靴磨きの道具まで無くして、当面の稼ぎの当てもなくなった。元から何もないねぐらに戻る気にもなれず、僕らは暗い路地の隅に座り込んだ。
「僕のせいだ」
「そんなことない、俺はニコがいればそれでいいんだ」
僕は兄ちゃんにくっついて泣いた。僕があんな奴に絡まれなければ、兄ちゃんは靴磨きの道具を捨てなくてよかったのに。こんなにひどく惨めなのに、兄ちゃんは笑ってる。僕は兄ちゃんが何を考えているのかさっぱりわからなかった。
「俺はニコのためなら何でもやるさ。いつか2人でおいしいものをたらふく食おう。ふかふかのベッドで一日中寝よう。いい服だって新調してやるさ。そう考えるだけで、俺は満足なんだ」
兄ちゃんの声は明るかった。その声と反対に日はすっかり暮れて暗闇が僕らを包む。
「俺はニコのために生きてるんだから、ニコが泣いてると俺まで悲しくなる。だから泣くな」
僕はしばらく兄ちゃんの胸に顔を埋めていた。すると、どこかから調子っぱずれの歌声が聞こえてきた。
「酔っ払いかな」
「待てよ、この声は」
兄ちゃんは一生懸命声に耳を澄ませる。
「そうだ」
突然兄ちゃんは立ち上がる。
「お前はここにいろ」
兄ちゃんは低い声で言う。僕は訳がわからなくて、言われた通りにする。兄ちゃんは歌声のほうに歩いて行く。歌声はどんどん近くなっていって、そして急に途切れる。
そして短い悲鳴。
兄ちゃんに何かあったの!?
僕はいても立ってもいられず、兄ちゃんが消えていった方に走り出した。
「兄ちゃん!」
「バカ、来るなって言っただろ!」
そこに広がっていた光景は悪夢のようだった。月明かりに照らされた血まみれの兄ちゃんと、血まみれになって倒れている人。そして兄ちゃんの手にはキラキラ光る宝石のついたショール。
「兄ちゃん……」
「見ろよ、宝石ババアのだぜ。こいつが死んでも困る奴なんかいないだろ?」
兄ちゃんは宝石のついたショールを僕に投げる。そしてまた僕の手を掴む。
「誰か来る前に逃げるぞ」
兄ちゃんの声は弾んでいた。
「でも、兄ちゃん服が」
僕は血まみれの兄ちゃんが心配で仕方なかった。このまま誰かに見つかったら、僕らどうなるんだろう。
「そんなの、その辺で着替えるさ!」
兄ちゃんは僕の手を引いて走って行く。
「この辺は劇場が多いんだ。俺はこの辺でも靴磨きをやってたから、大体のことはわかるんだ」
兄ちゃんは僕を連れて建物の裏口に入る。誰かいたらどうしようと思ったけど、そこには誰もいなかった。
「着れる服なら何でもいいや」
兄ちゃんは衣装をひとつ引っ掴んで、すぐに外に出た。それから僕らは走って走って川の側まで逃げた。誰もいないことを確認して、僕らはようやく息をつけた。
「とりあえず、着替えないと……あ」
兄ちゃんは手にしていた服を見て驚いた顔をする。僕も覗き込んで、思わず兄ちゃんの顔を見る。
「せ、背に腹は代えられないからな……!」
血まみれの服を川に投げ捨てながら、兄ちゃんは盗んできた服を着る。
「兄ちゃん……」
僕は盗んできたショールを握りしめた。
兄ちゃんが盗んできたのは女物の服、しかも下品な踊りを踊るためのすごく小さな服だ。
「ないよりマシだろ?」
兄ちゃんは黒くて長い靴下を履いて、レオタードの上に薄い上着を羽織る。照れたような顔をする兄ちゃんを見て、僕は心臓が縮み上がる。
「きれい……」
「なんだ?」
兄ちゃんは僕が握ってるショールを引っ張る。それから兄ちゃんは宝石をぶちぶち引っこ抜いて、ただのショールにすると頭から被る。そして宝石を僕のポケットに押し込む。
「とにかく朝になるまでどこかに隠れるぞ。俺の服は……その後考えよう」
兄ちゃんは困っていた。血だらけの服も困るけど、この格好では大っぴらに表も歩けない。僕はちょっとエッチな格好をしている兄ちゃんをますます直視できなくなった。しばらくうろうろ歩いて、僕らはローズウィンド通りに辿り着いた。
「ここなら、この格好でも目立たないな」
兄ちゃんよりも過激な格好をしている売春婦があちこちに立っていたので、兄ちゃんもそれほど目立たなかった。
「キミ、いくらだい?」
不意に兄ちゃんの肩に手がかかる。酒臭いおじさんが僕らを見ている。
「……じゃあ、新しい服代を」
兄ちゃんは笑っている。そんな、兄ちゃんは男なのに。
「でも兄ちゃん」
「いいんだ」
兄ちゃんは表情を変えない。
おじさんは兄ちゃんの腕をがっしり掴んでいる。
その腕に兄ちゃんがそっとしがみつく。
何だか慣れた手つきだ。
まさか、嘘だろ。嘘に決まってる。
「お前はここにいろ」
ああ、どっちも了解しているんだ。
わかってなかったのは僕だけなんだ。
「嫌だ、一緒に行く」
「……勝手にしろ」
一瞬だけ、兄ちゃんの顔から笑顔が消えた。
おじさんの方を見て、また兄ちゃんは笑った。
それを見て、僕は泣きそうになった。
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