IF70話 ネック
1月の末にカオリとオルカは天津に飛びアジア大会に出場した。そして、そこでカオリもオルカも決勝まで進出し、優勝こそしなかったけれど、国内選手でトップの成績を出して帰国してきた。
残念ながら水泳は世界選手権以上の大会じゃないとテレビ中継されないため。スポーツ番組でもアジア記録を出して優勝した男子背泳ぎの選手ぐらいしか取り上げれなかった。だから、カオリやオルカがどんな泳ぎをしたのかは、本人たちの口から語られる以上は分からなかった。
「空がずっと黄色だったわね、黄砂って発生地が近いとこんなにすごいんだって思ったわ」
「それよりご飯が美味しくなかったよね。主食が米じゃないみたいで、ホテルで唯一出て来たお米がかぼちゃが入ったお粥ぐらいだったよ。お昼にガイドの人におすすめだと行って案内された店でも、名物の肉の入ったスープだと説明されてそれを注文したら、香草臭い羊肉の料理だったしさ」
「私は壁に張られた料理の写真を見てチャーハンだと思って注文したら細かく刻んだ肉の入った炒り卵だったわ。塩気も薄いし調味料はテーブルに無いし、すごく食べにくかったわ」
「水もぬるくて臭かったよね、昼間なのにみんなビール飲んでたしさ」
「あれは、水道の水はそのままだと飲めないから湯冷しだったらしいわ。ビールを飲んでたのも水がそのまま飲めないからのようね」
「でも車の運転手もビールを飲んでたのは怖かったよ」
「運転も荒かったわよね。大丈夫なのか聞いたら、警察署長の息子だから大丈夫だって言われたわ。どうして大丈夫なのか全然理解出来なかったわよ」
水泳の話を聞いたつもりだったのに、2人から語られるのは全然別の事だった。どうやら天津はあまり肌に合わなかったらしくもう一度行きたいとは思わなかったらしい。
黄砂が強くて空もどんよりしていたらしく、名所と言われる場所もあちらの支配階級の人に招かれないと出入り出来ないそうで、見れなかったそうだ。
お土産という概念が無いのか、箱に入ったお菓子が空港で売ってた「麻花」という名の揚げ菓子っぽいものだけだったらしく選べなかったらしい。
「他に外には出られなかったのか?」
「スリが多いらしいし、子供が誘拐される事もあるって聞いていたから出なかったわ。ホテルの部屋に入って施錠してないと安心出来なかったのよ」
「そうそう、カオリはなんかいっぱい男の人から声かけられてたもんね。声が大きいし早口だしちょっと怖かったよ」
「えっ?ナンパされたの?」
「違うわ、少しだけあっちの言葉分かるから、自己紹介したら気に入られちゃったのよ。あと声が大きいのは、密告という制度があるので、怪しまれないように、わざと周囲に聞こえるよう話しているらしいわ」
「そういう事だったんだ・・・」
カオリは、少しだけあっちの言葉が分かると言っているけれど、随分と詳しく意思疎通が出来ていたようだ。大陸の言葉を習得していたなんて聞いた事は無かったけれど、カオリの事だし、いつの間にか独学で覚えてしまっていても不思議はなかった。
カオリとオルカがアジア大会で、国内選手で同種目1位だったからか、親父の会社にはカオリとオルカに取材をする依頼が舞い込んで来たらしい。3月にロサンゼルスで開催予定の世界選手権は深夜にテレビで実況される予定なので、注目の選手として取材しておきたいという打診だったそうだ。
「カオリとオルカが注目の選手っておかしくない?2人はまだ、メダル獲得からは程遠い記録しか出していないでしょ?」
「あぁ、その辺について現在社内で確認している所だ。取材と称して良からぬ事をされる可能性があるからな」
「やっぱそういう事はあるんだね」
「あぁ、その辺は元芸能人だった社員から聞いている。下手な記者の取材を受けると、趣旨と関係ない質問をされたり、言ってもいない記事を書かれたり、隠しカメラが仕込まれていてそれをネタに脅迫されたり、別室に連れ込まれて際どい衣装での撮影を強要されたりする事があるそうだ」
「そんな取材を2人にさせないでよ?」
「当たり前だ」
カオリはボイスレコーダーを持ち歩いているので、ただのゲスな取材ならある程度カウンター的な対処が可能だ。けれど暴力的な事への耐性が無いので、相手が強硬的な手段を講じて来た時に体が固まってしまわないか不安になる。
「カオリちゃんやオルカさんの取材には、必ずマネージャーが随行する事になっているから大丈夫だ」
「その人は腕に覚えがあるの?」
「おいおい、さすがにそんな暴力的な事にはならないぞ?記者の身分ぐらい確認するものだしな」
「・・・カオリは暴力的な事があると体が固まってしまうから不安なんだ」
「そうか・・・腕に覚えのある社員を同行させた方が良いかもな・・・」
「取材の時に、俺が同行しちゃダメ?一応腕に覚えはあるよ?」
「ミノルがか?」
「うん」
「・・・束縛し過ぎるのは良くないぞ?」
「束縛はしないよ、ただ不安なんだ」
「社内で提案するか・・・ミノルは婚約者だし護身術は習っているし言い訳は立つからな」
「お願い」
俺は自身の不安の払しょくのために親父にお願いをした。
△△△
「これは非常に効果が高い痴漢撃退スプレーだよ。相手が変な事をしてきたら、こいつを相手に向かって吹きかければ無力化出来るからね」
「用意が良いわね」
「えっ?何?」
俺はカオリとオルカの取材の日のために、科学部の涼宮に頼んで作ってもらった、文化祭の日に校庭で立てていた煙の成分が噴き出すという制汗剤用の小さな霧吹きに入ったスプレーをカオリとオルカにそれぞれ手渡した。
女性が何かあった時の為に持ち歩くものとして思い浮かんだものは、スタンガンと痴漢撃退スプレーと防犯ブザーだった。カオリは中学校時代から持っていたので不要ではあったけれど、何となく文化祭での出来事が思い浮かんで科学部に顔を出して涼宮サイコに話してみたら、「驕ってるメディアの馬鹿どもに使うなんてナイスじゃない!」と言って手渡して来たのだ。人体に無害だという説明を聞いたので、自身に使ってみたのだけど、効果抜群過ぎて自身で試した事を非常に後悔する事になった。
床に叩きつければ部屋中にまき散らせるタイプと言われて渡されたスーパーボール並みの大きさの玉もあるのでそちらは俺が持っている。目を閉じて吸い込まなければ悶絶しないらしいので、相手が複数でかかって来たらそれを使って二人の手を引いて逃げるつもりだ。
取材に同行するのは俺と、カオリとオルカのマネージャーだという広岡さんと小堺さんという女性2人と、ボディーガード役の九条さんという男性だ。俺の肩書もボディーガードで九条さんの部下という事になっている。
九条さんは田宮銃剣術の門下生らしいけど、この街の道場ではないため面識は無かった。かなり厳つい見た目をしているので、カオリやオルカに悪さをしようとする人はかなり勇気がある人になるだろう。
「こんにちわ、共和通信社月刊スイミング担当の金丸です、そちらにいるのはカメラマンの新井、アシスタントの玉川です、宜しくお願いします」
「「よろしくお願いします」」
取材の場として用意された撮影スタジオで待っていたのは、狐のように細い目をしているスーツ姿の男性と、室内なのに赤いキャップを被りカメラを首からかけている長髪の男性と、撮影用の機材が入っている箱の前で作業をしているメガネをかけた男性の3名だった。
「まずは私がインタビューをさせてもらい、その間の情景を新井が撮影します。それが終わった後、お2人のツーショット写真と1人づつの写真を撮らせて頂ければと思っています」
「「わかりました」」
「インタビューはあちらにある席です。小物のセッティングや、適した撮影角度の確認と照明の調整があるので、それまでは少し談笑をしていましょう」
「「わかりました」」」
スタジオの中にはソファーの他、観葉植物やティーセットの乗った盆など、こういったスタジオではなくもっと違った場所で取材を受けたかのように見せるためのものと思われる小物が多く置いてあった。
カオリとオルカが誘導されるようにソファーに座ると、その対面の席に記者の男が座った。
カメラマンの男が両手の親指と人差し指で四角を作り、アシスタントの男に小物の配置や照明や反射板の位置を変える様に指示していった。
「取材の邪魔になるのであの方たちには出ていって貰いたいにですけれど」
「お断りします」
記者の男がマネージャーの広岡さんに、俺と九条さんに部屋から出ていくよう要求した。ボディガードに出ていけという言うとはかなり怪しい奴だ。俺は相手に対する警戒度を一気にあげる事にした。
「我々が信用出来ないのですか?」
「どんな相手だろうが2人を離れさせるなと言われていますから」
「そうですか・・・困りましたね・・・」
「何が困るのですか?」
「硬い表情の方が近くにおられるとお2人が緊張すると思いまして」
「綾瀬選手も水辺選手も、あの2人と笑顔で談笑するほど仲が良いです。だから気遣いは不要です」
「そうですか・・・」
その時に、カメラマンが急に怒鳴った。アシスタントが何か間違いを犯したらしい。
「新井さんの態度のほうが2人を緊張させるように思うのですが、いいのですか?」
「えっと・・・今から別のカメラマンを探す事は出来ませんので・・・」
「写真掲載無しの取材でもこちらは構いませんよ?写真なら我々が撮ったスナップショットを提供しても良いですし」
「いえ、ちゃんと取材状況での写真を掲載したいですから」
「それなら私が撮影しますよ、どうせ雑誌に掲載される時は画像は荒くなりますよね?一応小型カメラを持ってきていますから」
「いやプロが撮った写真じゃないと・・・」
「私、これでも社内報の写真係をするほど嗜んでいるんですよ?」
「それでもプロでは無いでしょう?」
「でも、雑誌程度に荒い画像でならプロと遜色無い程度の撮影は出来ますよ?」
「さすがにそれはプロを舐めてますよ・・・」
「取材対象の前で怒鳴って空気を悪くするプロなら舐めますよ。私だって社員旅行の撮影する時でも皆を笑顔にするよう努力するのにそれすら出来ないなんて呆れます」
カメラマンを見ると広岡さんの言葉が頭にきたようでかなり真っ赤な顔をしていた。
「さっきから黙って聞いてればゴチャゴチャと! こっちが出ていけと言うんだから出ていけば良いんだよ!」
「では我々は2人を連れて帰りますね、あぁ、違約金は会社宛てに請求させて貰いますから」
「何であんた達が請求するんだ! お前らが謝罪と賠償すべきだろ!」
「不当な要求があった場合は契約を解除する事と、その際は不当な要求をした方が請求を受ける事になっていますよ」
「不当な要求をしたのはそっちだろ!」
「ボディーガードに出ていけという要求の時点で不当な要求とこちらは思っていますよ、だから断ったのにこんな風に怒鳴られる事になるんですからね」
「貴様・・・」
「あとあそこの飲み物は持ち帰らせてもらいますね、何かを混入されているようですから。トイレに隠しカメラが設置されてたから利尿剤ですかね」
「なっ!」
「これでも私は芸能界で12年飯を食ってたんですよ?あんたらのような怪しい記者やカメラマンが仕掛けて来ることは熟知してんだ。あまりウチらを舐めんなよ?」
「このアマぁ!」
俺はカオリとオルカの前に立ちはだかり、襲いかかって来たアシスタントの奴を制圧した。九条さんはカメラマンを制圧し、小堺さんが記者の男を制圧していた。
小堺さんは柔道の有段者で、マネージャーというよりボディーガードでもあったからだ。
広岡さんはすぐに携帯電話を取り出し警察に通報した。
「離せ!傷害で訴えてやるぞ!」
「お好きにどうぞ、こちらも傷害と強姦未遂で訴えさせてもらいますから」
「どこにそんな証拠がある」
「ポットから薬物が検出されれば充分じゃないですか」
「見つからなかったらどうする!」
「別にいいですよ、襲いかられたのは事実ですし」
「へっ!俺がそんな事はしていないと言えば証拠なんかないぞ!」
「そこら辺は警察の捜査に任せますよ、どうせあんたらの自宅とかから、他の被害者の証拠とか出てくるんだろ?」
「それは・・・」
「観念するんだね」
「クソっ!離せっ!」
実は広岡さんと小堺さんが持っているカバンにはピンホールカメラとボイスカメラが入っていたし、俺と九条さんの服のボタンにもピンホールカメラが仕掛けられていた。また、カオリと広岡さんと小堺さんはボイスレコーダーを持っていたのでここでの会話は全て録音されていた。だから相手が襲いかかって来たという証拠は充分に立証可能だった。今の広岡さんと記者の男のやり取りも当然のように録音されているため、捜査関係者の心証をこちらの有利にしてくれる事だろう。
すぐに外からパトカーのサイレンが聞こえ、そのあと警察がスタジオにスタッフと共に部屋に入って来た。
記者とカメラマンとアシスタントとスタジオの関係者が連行されていき、俺達とスタジオの関係者も事情聴取の同行を求められ警察に向かった。
スタジオの入り口には沢山の警察車両が止まっており、既に規制線が張られ何事かと集まりつつあった野次馬を遠ざけていた。
今回の取材を受けたのは相手を罠にハメるためのものだった。事前の調査で怪しいと分かっていたからだ。こういう取材がもう入りこまないように牽制するのが今回の目的だった。
俺は権田家に行き親分に事情を話したあと、警察に行って襟のバッジを見せて署長と面会し事情を説明してあった。広岡さんが電話をかけたあと、すぐに大量の警察官がやって来たのはその根回しがあったからだ。
「カオリ、大丈夫だったか?」
「えぇ、最初から心構えが出来ていたもの」
「えっ?どういう事?」
「カオリには、あいつらが怪しいって事を伝えていたんだよ」
「だから過度に怯えずに済んだわ」
「えっ?私には?」
「オルカは顔に出そうだと思って秘密にしていたんだよ」
「不安が顔に出たら不審に思われちゃうでしょ?」
「えっ?私信用されて無かったの?」
「オルカはポンコツさんだからなぁ」
「いい子だし信用はしてるけど・・・ねぇ・・・」
「うっ・・・うわーん!」
オルカは俺達の話を横で聞いていた広岡さんに抱きついた。広岡さんはシレッとした顔でオルカの頭を撫でて慰めているけど、オルカに黙っておこうと言い出したのは実は広岡さんだ。
オルカのコロコロ変わる表情は広岡さんも既に熟知していたようで、この作戦ではネックになりますと、作戦会議の場で伝えて来たのだ。
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