第136話 歌
オルカは世界選手権で400mと800mと1500mで世界記録で優勝した。今までの記録を大幅に上回る記録を出したため、事業団での練習場に何度も抜き打ちのドーピング検査員が来たたらしい。
記憶を大きく伸ばした理由はオルカが着ていた水着にある。実業団の親会社がオルカモデルとして発売した水着を着用して臨んだ選手達も軒並み記録を上げ、それを証明していた。
「なんかドーピング検査の人がドーピングで無い事を証明するために水着素材に関するデータを出せって言って来たらしいよ?」
「それって産業スパイじゃん」
「うん、ジェーンちゃんのお父さんの会社から提供された素材だからこちらには無いって返事したらしいけど、取り寄せろって言って来たんだって」
「そんなのその会社に問い合わせるべき事だろ」
「だよねぇ」
オルカモデルの水着は特殊素材であるため高額だった。そのため、ただの優勝記念のプレミア商品だと思われていて、世界選手権で着用している選手は実業団の人ばかりだった。
「実は世界選手権の時、チームメイトの水着が盗まれたんだよね」
「オルカは大丈夫だったのか?」
「SPが荷物も見張ってくれてたから大丈夫」
「国際大会の場で下着泥棒みたいな事をする奴がいるんだな」
「国内の大会よりそういう事は多いよ」
「そうなんだ・・・」
実業団の親会社は、世界選手権後に水の抵抗を減らす効果がある水着素材と、それがオルカモデルに使用されていると発表した事で問い合わせが殺到し始めていた。
「フリーダイバーの人がうちの会社で作ったウェアを着て世界記録を塗り替えたんだってさ」
「恩恵があるのは競泳だけじゃないのか」
「そうみたい、会社は水泳以外の部門でこの素材を使ったウェアの開発を始めているんだって。ほら、アメリカの女子の陸上の選手がレオタードみたいな服着てたでしょ?スピードがあがると空気もすごい抵抗があるんだって」
「迎え風の時に走るの大変だもんな」
「自転車のロードレースやスピードスケートやスキーの人のウェアにも使えるんじゃないかって話になってて、特に信濃県で開催が決まって注目度が高い冬季五輪の競技の日本代表選手のウェアの受注を、ライバル会社から奪えって社長が激を飛ばしてるんだって」
「なるほどなぁ・・・」
現在オルカモデルで使用された水着素材は競技での着用を禁止にすべきとの話が出ているらしい。
そんな事を言ったら、陸上競技やウィンタースポーツ競技の道具は技術力の結集したようなものだし、他の競技のスポーツウェア全体も水や風の抵抗を抑えたり、逆に風を受けて遠くまで飛んだりするようになっている。
オルカモデルの水着自体に運動をサポートする機能がある訳では無いので禁止する意味が無い気がする。こういう実用的な効果がある製品を開発する事が技術革新につながる事なので、むしろ奨励すべきな気がしている。
特に俺や欧米の選手の様に体が大きく水の抵抗が大きな選手ほど効果が大きいらしい。欧米選手に有利なルール改訂が行われる事が多い五輪組織では、これを着用させたいという意見が多いのではないだろうか。
ちなみにスミスの会社は、各スポーツウェアメーカーに販売出来るほどの生地が生産が出来ると発表していて、既にいくつかのメーカーと取引に関する契約をしているそうだ。こういう水着開発を商機だと思っている企業が多いという事ではないかと思っている。
『軍務省とアメリカの国防総省からも問い合わせが来ています』
(えっ?何で?)
『水の抵抗を下げて、潜水艇の航行速度を上げたり、魚雷の射程を伸ばせるのではと考えているようです』
(マジか・・・)
俺の大学の合格通知に入っていた封筒に入学手続きに関する書類があった。そこには、期限内に書類を郵送し入学金を銀行に振込むだけで完了すると書いてあった。けれど生活拠点の確認の為に京都に行こうと思っていたので、俺は直接大学に手続きに行った。
大学の入学手続きを済ませたあと、学生センターで不動産の紹介をしていたのでチラッと覗いた。親分から住処は田宮家の兄弟が紹介してくれると聞いてはいたけれど、相場というものが気になったからだ。
置かれた不動産一覧が書かれた冊子を見たけど、通常の学生向けが殆どで、オルカが出入りするにはセキュリティ的に問題がありそうな物件ばかりだった。それにしても首都という事もあって学生向きなのに家賃が想定より結構高いようだった。物価も高いみたいだし仕送りとバイトだけで生活が賄えるか少し不安になってしまった。
田宮家に挨拶しようとアポイントを取るため電話をしたらすぐに来てくれと言われた。大学の正門から徒歩で約20分。自転車や原付きなら大した時間もかからない近距離だった。
チャイムを鳴らすとお手伝いさんらしい女性が出て来たので用件を伝えると、奥の客間に通された。そこで待っているとすぐにカオリと、その養父である田宮ソウジ氏がやって来た。
「初めまして、梶原タカシと言います」
「よう来たね、わいは田宮ソウジ。カオリの叔父で今は養父やね。権田リュウゾウの兄弟分言うた方がええかいな?」
「はい、権田様には大変可愛がって頂きました。田宮様におかれましても宜しくお願いします」
「梶原家当主であるタカシ君を迎えるには、本来当主である父ゲンサイ応対すべきなんやけど、あいにく安芸の方に出払うとってな」
「いえ、突然の訪問で御無礼を働いたのは私の方ですから」
「あはは、そないな堅苦しゅうせんでもええで。あんさんは、ジュンの義兄でもあるし、わいの事もリュウゾウと同じく親と思うて接してくれてええんや」
「ありがとうございます」
ソウジ氏は一見細身の男性だけど、佇まいから体が引き締まっているからだと分かった。親分が分厚い肉体を持つ炎の様な威圧感がある男性に対し、ソウジ氏は口調が軽く顔は柔和な感じなのに、雰囲気は研ぎ澄まされた氷の様に冷たい威圧感があった。そのため緊張を解く事は出来ず、背中にもジトっと汗をかいてしまった。
「ご苦労様」
「すごい雰囲気がある人だね」
「権田リュウゾウさんとは違う感じだけど、そうね」
「背中がびっしょりだよ」
「分かるわ・・・」
ソウジ氏と挨拶をしたあとカオリに屋敷を案内された。道場の他、複数池や庭があって、敷地的にかなりの広さだった。離れらしい家や土蔵などもあってとんでもない屋敷だということが分かった。
「はい鍵よ」
「鍵って?」
「あそこの離れを好きに使っていいわよ。オルカさんやユイさんと同居しても構わないわ」
「えっ?俺があそこに住んで良いって事か?立派過ぎるだろ」
「私もそう思うけど、ここより小さな離れは無いのよ。私も掃除を手伝うから使って。使わないほうが痛むからその方が良いの」
「そうなのか?」
「えぇ」
離れの前の庭の一角にバスケットゴールのポストが置かれていて、スリーポイントシュートラインぐらいまでの広さしかないけれど1on1をするには充分なコートになっていた。
「良いでしょあれ」
「作ったのか?」
「えぇ」
「ここって枯れ山水があった庭じゃ無いのか?」
「あったけどあそこに寄せて貰ったわ、タカシが出ていったあとで戻せるようにね」
「それで良いのかよ・・・」
「良いのよ」
日本家屋にハーフコートがある庭と、なかなかシュールな組み合わせだけど、ここまで用意されたら使うしか無い。
そんなやり取りがあり自分で家を探しに行かなくて良くなったため、そのままカオリに案内された店で、新居用の家具や家電や寝具などの足りないものを買った。
「カオリも城址公園の花見に来るのか?」
「えぇ」
「俺はオルカが買った車に乗って帰るけど一緒に来るか?」
「私は少し用事があるから別で帰るわ」
「分かった」
カオリも引っ越しの荷解きを手伝ってくれていたけれど、途中で何度も厳しい顔つきの人に呼び出されていた。既に田宮家の人として色んな用事をこなしているようだ。
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「お兄ちゃんの大きい家に行くのが楽しみ」
「俺の家じゃなくカオリの家から借りてるだけだぞ」
「中の道場に通うんでしょ?」
「そうだな」
3人とも小刀を親分に返しているけど、俺は道場に通うつもりだ。梶原景時は文武に明るい人だったそうだし、これから俺は梶原家を文門にするつもりではあるけれど、解決のためには戦う姿勢を持った武門の顔も持つ家にしようと考えていた。
親分に紹介された所で親分に返上した小刀を仕込み杖に加工して貰っていた。俺と共に高校を歩んだ小刀の魂は、また俺達の下に帰って来る事になっていた。
仕込み杖の定期的な整備も和泉県と摂津県と河内県に跨る堺と言われる地域の職人たちによって、して貰える事になっていた。ユイが春休みの間京都に来るので、みんなでその工房に訪ねる予定でいた。
「結構荷物は入るんだな」
「シート倒せば結構収納があるからね」
「お兄ちゃんはあまりモノを持たないからだよ」
「それもそうだな」
俺の引っ越し用の荷物はオルカの運転で京都から持って来たSUVに全て乗せた。俺の荷物はそこまで多くないので、3列あるシートのうち2列目まで置けば、後部の窓を塞がなくても問題ない収納スペースがあった。
オルカはスペースに余裕があると知ると、駄菓子屋の奥の自分の部屋に行って、そこから持ってきたシロクマのぬいぐるみを後部座席に置いた。どうやら京都まで連れていくらしい。
ついでに初詣の時に買った交通安全のお守りをフロント窓の右上にペタンと吸盤状のゴムで貼り付けた。お守りに付けられた鈴がチリンとなって存在をアピールしていた。
「じゃあ終業式に行ってくるよ」
「いってらっしゃーい」
「気をつけてな」
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ユイ達の終業式の翌日に行われたリュウタ主催の花見は、まだ桜は8分咲きといった感じで花見客も少な目だった。それでも枝の先に色付く桜の花は充分綺麗で俺達の目を楽しませてくれた。
俺達はユイとオルカだけでなく、双子を含めた立花家全員で参加した。
リュウタの所はシオリはもちろんリュウタの仲間の他に親分とキヨミさんも参加していた。
ジュンのところはカオリとそれぞれの両親も参加していた。
今までにない両親の参加という状況。特にこの地の支配者と言っても良い親分が参加している事でリュウタの仲間たちは緊張しまくっていた。
それでも酒が入れば無礼講になっていき、例年以上の盛り上がりを見せていった。
ユイとオルカによるゴマ太郎のアニメソングのデュエットや、リュウタとシオリによる異能混じりの迫力のある演武、リュウタの仲間たちによる手品やジャグリングや漫才やただの一発芸、ジュンによる銀玉鉄砲による曲芸の様な的あてがあった。
「カオリちゃん、あれ歌って?」
「ここで? 少し恥ずかしいわ」
「そんな事無いよ」
ユイやオルカもカオリと武田の妹の4人で一緒にカラオケに行った事があったのでその時にカオリが歌った曲でもリクエストしたのだろう。
ユイがラジカセにセットしたシングルCDの表面のIZUMIという文字を見て、俺はカオリが何を歌うのかが分かった。
カオリがとても綺麗な歌声で歌い出した。それはの世界のゲームのオープニング。カオリの声優が歌っていた主題歌だ。
「君と♪ すれ違うとき♪ 自分らしくいられな・く・な・る♪ それは~♪ 何故なの♪」
カオリの歌声にリュウタの取り巻きたちが合いの手を入れている。彼らもカオリがこの曲を聞くのが初めてでは無いのだろう。結構カオリは彼らと仲良くしているようだ。
「あなただけを~♪ 見つめていたい~♪」
サビが終わり、曲は2番に入っていった。ゲームのオープニングムービーでは1番しか流れなかったけれど、CDで売り出されたものは3番まで歌詞があった。カオリは歌詞カードなど見ずに手振りまでつけながら歌っていた。カオリはアイドルよりアイドルっぽい顔立ちをしているし歌も上手い。合いの手を入れながら体を左右に揺らしているリュウタの子分たちが、何故かアイドルにハマったファンに見えていた。
カオリの歌が3番目に入った時に俺は瞼を閉じた。3番もメロディラインは1番と同じだ。そのため瞼の裏には前世で何度も見たゲームのオープニングムービーが流れ始めた。
桜舞い散る通学路を歩くカオリから始まり、校庭で走り込み中のオルカ、花屋から出てくる桃井、放送室に居る真田の姉、校舎の中庭で絵を描く美術部のヒロイン、図書室で恍惚な表情を浮かべて本を読む文芸部のヒロイン、試験管で薬品を混ぜ合わせながら不敵な笑みを浮かべる科学部のヒロイン、俺らしい人影に手を振っている中学校時代のユイ、そんなオープニングムービーだ。
「懐かしいな・・・」
「3年前の曲だけど今でも結構流れるよ?」
「そうなんだけどな・・・」
この世界では、この曲は3年前に発表された現在トップアイドルである鮎川イズミのデビュー曲でかなりヒットしていた。そのため、この曲自体はよく歌番組や商店街の有線放送で流れていたので多くの人が知っていた。けれど俺にとっては50年以上ぶりにカオリの声によるこの歌を聞いたので、とても懐かしく感じていた。
「また遠い目をしてるよ」
「少しだけ懐かしく感じてね」
オルカが俺の頭に落ちたらしい花びらを取りながらそんな事を言って来た。
「これから何か良いことが始まる気がしないか?」
「勿論っ!」
「タカシの誕生日の翌日に入籍するんだからね」
「そうだな・・・とても楽しみだ」
この花見が終わったら、立花の家でオルカのお婆さんも誘ってささやかな食事会を行う。その翌日に俺とユイとオルカは、オルカの車に乗って京都に向かう。そして3月31日に俺の誕生日を祝い、その翌日である4月1日に転居手続きで役所に行くついでに婚姻届を提出する予定でいた。
ざぁっと風が吹いても8分咲きの桜は花びらを舞い散らせる事は無かった。街灯に近い、少しだけ気が早い桜の近くだけは花びらが少しだけ落ちているだけだった。
俺の頭についていたという花びらも、そういう気の早い桜の花びらだろう。
「ちゃんと私の歌を聞いてたのかしら?」
「あまりに上手くて聞き惚れていたよ」
「そうかしら?浮かれているように見えたのだけど」
「結婚前だからな、妬くなよ?」
「妬かないわよ・・・」
カオリは少し顔を赤くしてジュンの隣に戻っていった。
「お兄ちゃん・・・」
「タカシ・・・」
「何だ?」
ユイとオルカが何か言いたそうな顔をしていた。鈍い俺でも今の反応を見れば意味は分かる。でもそれは追及してはいけない事だ。
俺はユイとオルカの頭をポンと軽く叩いて笑った。
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