第121話 バタフライエフェクト
坂城が試合から戻って来る前に、男子100m自由形予選の呼び出しがあったので控室を出て待機場所に向かった。
100mの競技は1レースの時間が短いので呼び出しの所に集められる人数が多い。
女子100m自由形予選1組がプールサイドに移動していったので男子400m自由形が終わった事が分かった。
俺は10組の4コースで、相良は4組7コースでの出場となる。
名前が呼ばれて席に座ったけれど、風が吹き抜ける位置で結構寒さを感じてしまった。せっかく柔軟で柔らかくなった筋肉が固くなってしまうし、席に座っていると心拍数が下がって血行が悪くなるので、席から立って体を捻ったり筋を伸ばしたり、軽くキャンプをして体の状態を維持していく。
「もっと先輩みたいな厚手のダウンパーカー持ってくれば良かったっす」
「総体は暑かったから薄手のパーカーで充分だったもんなぁ」
相良が着ていたのはフード付きだけど薄手のパーカーだった。
「ウィンドブレーカーの下を取りに行ったらどうだ?」
「体を温めがてら行ってくるっす」
相楽のレースまでは15分ぐらいだが、それでも充分身体は冷えてしまう。
「坂城先輩部屋にいたっすね」
「400mの試合が終わったから戻ったのか・・・」
ウィンドブレーカーの下を履いて戻ってきた相良は体を動かして温めていた。
「入賞の可能性あるのは梶原先輩と水辺先輩だけっすよ」
「オルカのは可能性じゃなく優勝の確実性ってレベルだけどな」
「まぁそうっすね」
相楽の出場する番が来たらしく、スタート位置に行くよう促されていた。
「行ってくるっす」
「敗北を楽しめ!」
「うぃっす」
俺は相良の背中をバシンと平手で叩いて気合を注入した。言葉はバスケのウィンターカップで監督が飛ばした檄を使わせて貰った。
相良は自己ベストタイム的に決勝進出はかなり厳しい。あの時圧倒的格上に挑む俺達にはあの監督の言葉は良く響いた。相楽にこの言葉を送る事で、良いことがあるに違いないと思った。
『あります』
スミスの憑依体が保証してくれたので、相楽に良い事が起きるのだろうと確信した。
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俺は自己ベストと全く同じタイムでゴールし2位で予選を通過した。そして相良だがインターハイ決勝で出したベストタイムを0.21秒も更新し4位で予選を通過した。
実は俺の後の組とその次の最終組でフライングが発生し、リスタートが行われて上位陣のタイムが著しくわるかったのだ。
(良いことってリスタートになった事?)
『違います、あの背中の張り手で相良様の心拍数が増大し、血行が上昇した事で記録が向上した事です』
(俺の何かによってフライングが起きたわけではないんだね?)
『はい、偶然です、ただあの張り手が行われるまで、相良様は予選を突破する可能性がありませんでした』
(どういう事?)
『フライングが起きたのは、スタートの直前海から強い風が吹いて選手が僅かに押された結果です、張り手の音に驚いた人がいたためほんの数瞬プログラムに遅れが出た、その結果最初のスタートの時と強い風の瞬間が重なった、それだけです』
(俺の異能的なものでそうなったのでは無いんだね?)
『全くの偶然です』
バタフライエフェクトみたいな事が起きただけのようだけど、結果として身内にいい事があったのは嬉しい誤算だ。
「やったじゃないか」
「背中をパシっとやられて気合が入ったっす」
「まだ赤くなってるな」
「痛かったけど背中がピンと伸びたっす」
「総体の時みたいな直接対決だな」
「先輩が4コースで俺が3コースっすから追いかけるっすよ」
「華を持たせて追い抜かないでくれよ」
「勝ち逃げさせないっす」
俺と相良がグータッチをしたあと控室に戻るとオルカだけが部屋にいた。
「おかえり〜どうだった?」
「俺が2位で相良が4位だったよ」
「後ろの組がフライング出て上位陣が記録を落としただけっす」
「運も実力のうちだよ、ちりあえず2人とも入賞確定おめでと〜」
「ありがとう」
「っす」
短距離はスタートの一瞬の遅れが命取りになる。2度目のフライングはわざとでなくても失格になる。だからどうしても一瞬だけスタートが遅れてしまう。0.01秒単位でしのぎを削る100m自由形ではまさにリスタートというのは命取りになった。
去年国体で優勝した人が9位、2位の人が7位という結果になり、その組を泳いだ人で決勝進出出来たのがその2人だけというのが、その厳しい現実を物語っていた。
「顧問と坂城さんはどこに行ってるんすか」
「お弁当を買いに行ったよ」
「あぁもう昼過ぎだもんな」
「少しだけ入れておきたいっすもんね」
「私は用意してたのをもう食べたよ」
「オルカはあと1時間半後ぐらいか・・・」
「少し横になった方が良くないっすか?」
「うん、少し横になる」
食事を取らないと力が出ないけど、取ると胃や腸の蠕動運動が活発になり、疲労物質である乳酸が少しだけ増えてしまう。消化に良いものを食べたあと2時間ぐらい安静にすればそれが収まるため試合前に食べたら温かくして横になるのが一番だったりする。
「俺達の決勝も予定だと2時間半後だからそろそろ食べときたいな」
「そうっすねぇ」
そんな事を話していると、外からノックがして、マダムと坂城が戻って来た。
「お昼買ってきたわよ」
「あっ、予選どうだった?」
「俺が2位で相良が4位で通過したよ」
「運が良かったっす」
「すごいじゃない」
「それは入賞おめでとう」
「それよりお腹すいたよ」
「お腹に入れて横になっておきたいっす」
「2種類買ってきたから選んで頂戴」
「助六弁当と幕の内弁当だよ」
「助六弁当にするよ」
「俺は幕の内にするっす」
買ってきたのは駿河県とその近隣で見られる学問の神様の名前を冠した和風弁当のチェーン店のものだった。
駿河に住んでいた時にたまに買っていたので味は良く知っていた。
「それで運が良かったってなに?」
「最終組とその前の組でフライングによるリスタートが発生したんすよ」
「上位陣が軒並みタイム落としたんだよ」
「それで運なのね〜」
久しぶりのこの店の助六弁当はとても懐かしい味だった。けれどアパートで一人で食べていたあの時に比べて、とても美味しく感じていた。
「また遠い目をしてるわね」
「駿河に住んでた時に、この弁当屋のチェーン店を良く利用してたんです」
「これも梶原君の思い出の味なのね」
「そういう事です」
お袋が再婚する直前ぐらいから、仕事からあがる時間が早くなって、夕飯をお弁当屋で買って食べる事が無くなっていた。だからこのお弁当屋のチェーン店のお弁当は6年ぶりぐらいに食べる事になる。
「そういえばおでんも売ってたから買ってきたわよ」
「あっ、黒はんぺん入ってますね」
「出汁がすごく濁ってて驚いたわよ」
「静岡のおでんの出汁は継ぎ足しなんですよ」
「出汁が、腐らないの?」
「ずーっと火をかけてるんですよ、だから1年中売ってますよ」
「そういう事なのね」
出汁の色に染まったネタに鰹節と青のりをミックスしたものをかけて食べる駿河風のおでんも懐かしい気持ちで食べた。コンビニのおでんとは違い濃厚な出汁の味がした。
親父がまだ健在だった頃、冬場にはおでんが常にコンロにあった。特に大量に近海で採れる青魚で作られた安価な黒はんぺんは常に補充されていた。お弁当屋のおでんはさらに煮込まれた出汁のようでかなり濃厚な味だったけれど、久しぶりに食べたこの地域特有のおでんは懐かしかった。
「この黒いはんぺん美味しいわね」
「駿河県や遠州県では普通の食べ物ですけど、それ以外だと殆ど出回ってないみたいですね」
「なんでこのネタだけ安かったのかしら?」
「いくらだったんです?」
「これだけ1個30円だったのよ」
「あぁ・・・それは10枚入りで100円ぐらいで売っているからですよ」
「なんですって!」
黒はんぺんと呼んでいるけれど、駿河県ではこれをはんぺんと呼んでいた。そして今の街ではんぺんと呼んでいるフワフワしたものを白はんぺんと呼んでいた。
白はんぺんは1枚入りで100円ぐらいだけど、黒はんぺんは10枚入りで100円と他の食品に比べても恐ろしく安価だった。しかも青魚を骨や頭まで丸ごとミンチにして整形したものなので栄養価が高い。お財布に優しい食品だからか親父が死ぬ前のお袋は毎日のように黒はんぺんを食卓に並べていた。そのまま、焼いたもの、天ぷら、煮物、磯部あげ、炊き込みご飯。
俺は小さい頃は黒はんぺんばかりの食事に、戦時中の英国人にとっての調理済豚肉の缶詰のようにうんざりしていた。けれど今の街に移り住んだら黒はんぺんは売っておらず食卓に並ばなくなった。食べられなくても何とも思っていなかったけれど、久しぶりに食べると黒はんぺんは美味しいものだった。
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