第120話 ヌルってたっす

 国体水泳1日目、朝のアップを終えたあと、マダムが荷物を見張っている観客席に戻ろうとしていたところ、オルカもアップを終えたあと何処かに戻ろうとしてたようで、途中でファンに捕まったらしく周囲をぐるっと囲まれていた。

 オルカは学校が準備した宿ではなく、マネジメント会社が用意した宿に泊まったので、携帯電話で連絡はしていたけれど、国体の会場がある街で接近するのは始めてだった。


「ファンですっ! サインお願いしますっ!」

「はいここにサインね〜」


 マネジメント会社の社員らしい女性と、SPらしい屈強そうな男性2名がいるけれど、オルカはファンだと言って近づいてくる様々な人に快く応じているようで、握手をしたりサインをしたりツーショット写真を撮ったりと大忙しのようだ。

 なんとなく、握手券付きでCDを売るアイドルってこんな感じなのかなと思っいてしまった。

 そういえば好きなヒーローの曲やアニメソン歌って販売したら結構な売上稼げそうだよな。カラオケの得点で98点出すぐらいだし。


「あっ! タカシっ! ちょっと待っててね」

「ゆっくりファンサービスしなよ」

「うん分かった〜」


 オルカが俺の方を見て声をかけたので「何だあのデカいあいつは」という感じの視線が俺に向けられたけど、俺の指についたオルカと同じ指輪を見つけた人がいたようで「梶原さんだ!」「婚約者だ!」「立派な日本になれと言った人か!」といった反応があり、俺にも「握手して下さい」という人が現れてしまった。

 俺の2mを少し超えて止まった身長か、握手した時のデカい手のひらを感じてか「でけぇ」と言われたりしたけれど、オルカほど囲まれはしなかった。


 オルカがファンサービスを終えたあと、オルカは関係者以外立ち入り禁止の縄張がされている区域に向かった。俺もSPの人たちに言われてそこについて行くことになった。


「あそこに控室が用意されているんだけどみんな呼んだら?」

「良いのか?」

「着替えるときに視線を外してくれるならいいよ」

「じゃあお願いしよう、観客席や通路で着替えるよりずっと良いもんな」

「うん来なよ」


 俺はオルカに与えられていた控室の位置を確認したあと、観客席で日傘を差して俺達の荷物を見張っていたマダムに話をして、全員がアップを終えたあと、オルカの控室に向かった。


「はーい入って」


 水辺選手控室と書かれた紙が貼られた扉をノックして声をかけると、室内からオルカの声が聞こえてきた

 中は監視員か何かの休憩室なのか、6畳の畳間になってる部屋だった。


「みんな連れて来たよ」

「お邪魔するっす」

「水辺さんありがとうね」

「失礼します」

「うんゆっくりして、ここにいれば、みんなも呼び出しあったら教えてくれるから」

「それは助かるな」


 普通はこんな控室が選手に与えられる事は無いと思う。けれど今のオルカが会場をウロウロすると人が沢山寄ってきてしまい、通路の往来が邪魔されたり、呼び出しの声が届かなくなったりして迷惑なのだろう。


「横になれるのは良いね」

「柔軟とか出来そうだな」

「荷物寄せましょう」

「何か飲み物買って来るっす」

「僕も行くからみんなの分を多めに買おう」

「坂城は400mの試合が近いだろ、俺が行くよ」

「はいお金、先生は緑茶でお願い」

「了解っす」


 坂城は400mの一番最初の組の9コース、ギリギリで出場枠に飛び込んだ感じだからだ。坂城は予選を泳ぐ事よりも、日本代表クラスの選手の泳ぎを見られる事が楽しみだと言っていた。丁度伸び盛りで高校の水泳部引退となるので競技者としての未練があるのだろう。


 そのあと、俺と相楽の100m自由形があるけれど、時間は昼近くなので余裕があった。こうやって空き時間が結構あるので、ゆったり楽な姿勢で休めるのはとても有難かった。


「水辺さん、呼び出しがありました」

「はーい」


 女子400m自由形の呼び出しがあったようだけど、最終組のオルカは結構待つことになるはずだ。1試合競技5分と選手の入れ替えが2分だとしても8組もあれば1時間近くかかってしまうからだ。


 相良と飲み物を買い終わったあと観客席に行ってみたけど、まだ3組目の試合をしていてオルカの出番はまだだった。けれどオルカの試合を見たい人が多いのか、観客席には多くの人が集まっていた。


「来たのね」

「婚約者ですから」


 観客席には顧問がいた。どうやら記録取りをしてくれているらしい。

 組が進みオルカが現れると「来たぞ!」という声が上がり、観客席から拍手が起こった。まだ他の選手が試合しているのに良くない気がするのだが、オルカはそれに答えるように笑顔で小さく手を振り応えていた。これはマネジメント会社の指示だろうか。


 選手紹介でもオルカの時だけ他の選手より拍手と声援が多かった。やはり多くがオルカの勇姿を見に来ているようだ。


「一時的なブームでは収まらないかもしれないわね」

「なんかマネジメント会社からアイドルより売れるって言われてるみたいです」

「アイドルもピンからキリまであるわよ?」

「そのマネジメント会社が売り出しているアイドルって鮎川イズミだけなんです」

「・・・ピンの中のピンだわね」


 鮎川イズミはこの世界で、乙女ゲームの綾瀬の中の人が歌うオープニングムービーをデビュー曲で歌ったアイドルで、現在日本で一番人気がある芸能人と言っても過言では無い。


「鮎川イズミより売れるってすごいわね」

「芸能人になるより水泳を頑張って欲しいです」


 オルカの組の試合は、最終組で早い人が多く並べられていたのにも関わらず、体3つ分ぐらい2着の選手との間を離してゴールした。

 オリンピックの時の記録は超えられては居なかったけど、去年更新していたよりは早かったので、大会新記録というアナウンスが流れ会場中から拍手がおこっていた。


 そのあとすぐに出て来た坂城の応援をしたあと顧問と部屋に戻ると部屋に残っていた相良が話しかけて来た。


「先輩達はどうだったです?」

「オルカは自己ベストは更新しなかったけど大会新記録で1位通過だよ」

「さすがですね」

「坂城はビリでは無かったけど予選通過は厳しいかな」

「有終の美は飾れなかったっすか」


 俺は顧問から渡されたタイムウォッチでラップタイムの記録を相良に見せた。


「オルカは250から300の間に珍しくタイムが落ちていたからターンに失敗したんだろうな」

「ヌルってたっすからね」

「それでその記録が出るんだから凄いものよ」


 そんな事を話していると、部屋の扉が開いてオルカが入ってきた。


「ターン失敗したぁ!」

「250のとこだろ」

「うん、蹴る時ズルっと滑ったよ〜」

「屋外だし塩素が弱めだしこの陽気だし、壁に何か繁殖してるのかね」

「少し回りすぎで蹴ったんだよねぇ」

「何かあったのか?」

「200の出の呼吸のタイミングで隣のコースの波が被って少し呼吸の回数修正かけてたから、ターンの回転の捻りが逆だったんだよねぇ」

「それがあったのに0.37に収めたのか?」

「あっ・・・ラップタイム見せて〜」


 オルカは部屋の真ん中に置かれた座卓の上に置いてあったラップタイムのメモを見ると「やっぱかぁ」と言って悔しがっていた。

 あのメモだけでオルカには色々わかる事があるようだ。


「あなた達の記録も取るわね」

「お願いします」


 坂城は400mのトップ選手の泳ぎを見たいと言っていたのでしばらく戻ってこないだろう

 もうすぐで100m自由形予選が始まるので、俺と相良は観客席に行くわけにはいかない。オルカも人が集まって迷惑をかけるため控室から出られない。


「柔軟して体温めとこう」

「そうっすね」


 オルカが控室の天井を見上げてブツブツつぶやきだしてしまったので、俺と相良は座卓を部屋の角に寄せてから柔軟をした。

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