第117話 大丈夫(ユイ視点)

 親分さんのした話は私には難しくて良くわからなかった。けれどお兄ちゃんが大人の偉い人が凄いと言うような何かを成し遂げていたたことは分かった。


 その後に親分さんとお父さんがしている話は、お兄ちゃんを立派な家の人にするという話だった。それは、お兄ちゃんが梶原というすごい家に入るという説明だった。梶原はお兄ちゃんが私のお兄ちゃんになる前の名字と同じだ。つまりお兄ちゃんは私のお兄ちゃんじゃなくなっちゃうって事なのだと思った。背筋がゾワゾワしてうなじが逆立つのが分かった。阻止しないとお兄ちゃんがお母さんみたいに私の前からいなくなっちゃうと思った。


「お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃ無くなっちゃうっ!」

「ユイ?」

「お兄ちゃん、梶原に戻っちゃうんでしょ!?」

「姓だけそうなるだけよ、梶原家っていうのは名前だけ残ってる華族らしいんだ」

「そんなの良くわからないっ! でもお兄ちゃんがお兄ちゃんじゃ無くなっちゃうっ!」

「俺はずっとユイの兄だぞっ!」


 お兄ちゃんに強く抱きしめられた。頭がすごく混乱していた。お父さんと親分さんが進めようとしている事が、お兄ちゃんのために必要なのだと言う事もなんとなく分かっていた。お兄ちゃんのためにはちゃんと受け止めなければと思っているのに、止めたいと思ってしまって。


 私をお兄ちゃんが抱きしめてくれている間に、お父さんが焦ったように親分さんに何か説明をしていた。そしてお兄ちゃんが私を抱きしめながら私の名前を呼んでいた。ユイカさんの「大丈夫よっ!」という声がお母さんの声と重なって聞こえたあと、何の音も聞こえなくなり、視界が黒くなっていった。


---


 気が付くと私は見慣れないベッドで寝ていた。周囲を見回すと何となく見覚えがあった。ここは以前お兄ちゃんが喧嘩をしたあとに運び込まれた病院だ。

 ベッドに隣でお兄ちゃんが私の枕元にある椅子に座りながら、私の手を握り、そのまま目を瞑っていた。

 窓にはカーテンが引かれているけど、薄手のカーテンであるため、外が真っ暗である事が分かり、夜になっている事が分かった。

 既に病室の照明が落とされるような時間らしく、蛍光灯が消されていて、オレンジがかった優しい色の小さな電球だけが天井で光っていた。


 首や手は動かせたけれど、上体を起こそうとしても何故か体に力が入らなかった。


「おにいたん?」


 口がうまく回らないみたいで、言葉尻を噛んでしまった。

 私がベッドの横にいるお兄ちゃんの手を握り返して呼びかけたら、お兄ちゃんはビクっと体を震わせて気が付いてくれた。

 座っていたパイプ椅子がギシッっと軋み音をあげてお兄ちゃんは目を見開いたあと、少しだけ深呼吸をして冷静な声で話しかけて来た。


「ユイ、起きたか」

「あたちどうにゃってうにょ?」


 舌がうまく回らないからすごく言葉が変になっていた。


「ユイは気絶して病院に運ばれたあと、検査を受けている最中に気がついてパニックを起こしたんだ。覚えているか?」

「ううん」


 首は普通に横にふる事ができるようだ。

 

「ユイはホテルに親分さんが来た事は覚えているか?」

「にゃんとなく・・・」


 あのときの私は話を聞いて混乱していたと思う、けれど今はスッキリとしていて頭がすごく冷静だった。


「ユイには興奮を抑える薬や体の硬直を解く薬なんかが処方されている。今眠ってから1時間ぐらいだ、まだその薬の効果は続いているんじゃないか?」

「それれうごきゃにゃいにょ・・・」


 薬って凄いなぁ、でも危険そう。

 あれ?お兄ちゃん言葉が分からなかった?「それで動かないの・・・・」って言ったんだよ?


「ユイ」

「にゃあに?」

「俺と婚約しないか?」

「にゃんで?」

「ユイと結婚したいから」


 お兄ちゃんが私に変な事を言っていた。結婚は1人としか出来ないし、私と兄妹でもなくなっちゃう。


「おにいたんにはオルカたんがいるんらよ?」

「それはこれから大丈夫になるんだ」


 どこが大丈夫なんだろう。


「オルカたんとわかれうの?」

「違うよ、オルカとは別れない」


 お兄ちゃんがさらに変な事を言っていた。


「けっこんはひといとしかれきないお?」

「あぁ、でも例外がある」

「れいあい?」


 どこかで聞いたことがあったような気がするけど、頭がスッキリしてるのに何故か思い出せない。


「皇族や公家や華族は側室を持つことが出来る」

「うん・・・れもあたちらちはへいみんらよ?」


 平民は男女1人づつで結婚するものだ。


「いや、これから俺は梶原っていう華族になるんだよ」

「あっ・・・」


 私はお兄ちゃんがお兄ちゃんでは無くなる事を思い出し目に涙が溢れてしまった。


「おにいたんがおにいたんらなくなったうよぅ・・・」

「いいやユイは妹のままだ」

「だってきょうらいでけっこんすうなんてへんらおぅ・・・」


 いくらそういう人達でも兄妹で結婚はしないでしょ。


「いいや、皇族や公家や華族は濃い血を残すために近しい親族で結婚する事がある」

「・・・そうにゃの?」


 えっ?兄妹で結婚するの?それって大丈夫なの?


「あぁ、ただあまりに近い血筋同士が続かないようにはするらしいけどな、それに血が近過ぎると畜生腹とか言われる事はあるらしいが・・・俺とユイは元々血の繋がりは無いし、そういう話にはならないそうだ」

「・・・いもうとにょままけっこんできうの?」

「できる」

「しょうらんら・・・」


 私の胸のつかえがストンと落ちたような気がした。


「というか俺とユイの結婚には最初から障害は無かったんだぞ?」

「しょれはいもうとじゃにゃくにゃるときれしょ?」

「そう思っているのはユイだけだよ」

「しょうにゃの?」

「そうだよ」


 その言葉を何度も聞いていた気がするけど、そうだと思えたのは今が始めてだ。胸のつかえが落ちたおかげだろうか。


「おにいたん・・・」

「あぁ」


 私がお兄ちゃんの手を握っていない方の手を上げると、お兄ちゃんは私の手を離してベッドに座っている私を優しく上体を起き上がらせ抱きしめてくれた。


「俺と婚約してくれないか?」

「すゆ・・・おにいたんのいもうとのままけっこんしゅゆ・・・」


 私がお兄ちゃんそう答えると、お兄ちゃんは私の頭を撫でたあと、ベッドの横にあるサイドテーブルの引き出しの中から私の婚約指輪が入っている小箱を取り出した。


「らんでこんなとこよにあゆの?」

「ユイが検査を受けている間にお袋達が取りに行ってくれたんだよ」

「おとうしゃんは?」

「お袋とユイの着替えとかを取りに行ったあと、俺に関する手続きを詰める必要があるみたいで、親分と部屋を出て行ったよ。電話すればすぐに駆け付けてくれるよ、かけるかい?」

「らいじょうぶ・・・」

「後でメールだけ入れておくよ」

「うん・・・」


 別に体が悪い訳じゃないし呼ぶ必要は無い。


「ユイカしゃんは?」

「お袋は少し前までいたけど、あまり無理が出来る体じゃないからね、今は別室を借りて、そのベッドで眠っているよ」

「しょうにゃんりゃ・・・」


 なんか色々迷惑をかけてしまったな・・・あとでちゃんと謝らないと。


 お兄ちゃんは小箱から、お兄ちゃんの部屋でしか身に着けてはいけなかった指輪を取り出すと、先程まで握っていた私の手の薬指にそれを通した。


「もうずっとつけていて良いからね」

「うん・・・・」


 目から凄い勢いで涙が出てきて視界が滲んで来てしまった。鼻水も出てきて垂れて来ているのが分かった。


 お兄ちゃんはベッドから伸びるコードの先のリモコンを操作して、背もたれを起き上がらせた。そのおかげでお兄ちゃんが手を離しても上体を起こしている状態になった。

 お兄ちゃんも以前この病院に入院していた事があるため、このベッドの操作は良く知っているようだった。


「ほら、鼻をチンして」

「うん」


 お兄ちゃんがポケットからハンカチを取り出したので、受け取った私は涙を拭き取ったあと、鼻水を思いっきりハンカチにチンをした。

 チンしたあとハンカチを開けて見ると、出て来たものは涙が混ざっていて、粘りを感じないサラッとしたものだった。


「そんなものをマジマジと見るものじゃないっていつも言ってるだろ?」

「いいにょ、たいとうかんりにゃの」

「そんなので体調の何が分かるんだよ・・・」


 こんな事を恥ずかしく感じず出来るのは兄妹だからだ。鼻がツンとしてまた涙が溢れて来たので、私はハンカチの濡れていない部分で目を拭った。


「そんな事をしたら、目にバイキンが入るぞっ! ティッシュかなんか貰って来るから少し待ってろ!」

「えっ!?あっ・・・」


 お兄ちゃんは急に立ち上がって病室の外に駆け出していった。さっきまで冷静にしていた人とは思えない慌てっぷりだった。

 病院だし夜みたいだし静かにしたほうが良いんじゃないかな。


 照明である電球の方に左手を掲げると私の指輪は新品のようだった。お兄ちゃんやオルカちゃんの指輪はずっとつけけいるので小さな傷がいっぱいで曇っているけれど、夜お兄ちゃんの部屋にいる時しかつけない私の指輪はそれが殆ど無い。同じ日に貰ったものなのに私は違うものみたいで悲しい気持ちになる事があった。けれどこれからずっとつけていられるので、私の指輪も曇って同じになってくれるだろう。


「おかあしゃん・・・らいじょうぶらった・・・」


 病室にいるのに、何故かプリンのカラメルの部分を食べた時に鼻に抜ける時の匂いを微かに感じてお腹がグーッとなった。

 私は同時に胸に込み上げて来る幸せを感じながら、ティッシュを持ったお兄ちゃんが病室に駆けこんで来るのを待った。

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