第114話 決勝(オルカ視点)

 今日は私にとっての大舞台。女子800m自由形の決勝だ。昨日の予選では体の調子が良く、思った以上にいいタイムで泳ぐ事が出来た。

 そして今日も朝からかなりコンディションが良い状態だという感触がある。オリンピックの日本選手団のをサポートしている人達に感謝という感じだ。


 センターコースである5コースの前に行き、監視員の人にペコッと頭を下げる。ニヤッと微笑み返されるのは外国の試合だといつもだ。ペコッと頭を下げるのは日本の選手ぐらいらしいから、北欧の人らしい監視員には滑稽に見えるのだろう。


 手首や足首を回し調子が良いか確認していく。筋がしっかりと弛緩していて体が固くない事が分かった。脹脛を軽く揉んでみると一番良い張りの状態をしている。弛緩し過ぎるとスタートダッシュが遅めになり、張り過ぎると入水時に冷たいと感じた場合に体が少し硬直した際につってしまう事がある。今日の調子は昨日よりさらに良さそうだと思った。


 軽くジャンプをして踏みしめる感触を確かめる。バネは良いようで軽い感じがする。スタートで思いっきり行っても問題なさそうだ。


 腕を上げて体を伸ばしても違和感を感じない。うん、スタートやターンでも体はきっちりと伸びそうだ。


 私の名前が呼ばれたので手を上げてお辞儀をする。客席、プール、監視員。礼から始まり礼で終わるは武道の精神だけど、私達日本人の水泳選手は試合の前にここまで来れた感謝の気持ちとしてそうする人は多い。

 観客席にいる日本の応援団達が拍手してくれている。多くの人が日本からも来ていて凄く嬉しい。タカシやユイもテレビの前で応援してくれているかな。


 胸がジワッと暖かくなり心拍数があがる。いい調子だ。顔が熱くなり、体に血が巡っているのがわかる。中学校時代まで私は競技で緊張をした事が無かったけれど、そのせいで体への血の巡りが悪かったようで序盤のペースが抑えられていた。けれどある時観客席にいたタカシを見た時胸が暖かくなり心拍数が上がり最初のラップタイムから上がるようになった。恥ずかしくて誰にも言えないけれど、こうやってレース直前にタカシの事を考え心拍数を上げるようにするようにする事で私はスロースターターでは無くなった。


 上に羽織っていたパーカーを脱いで、そのポケットに婚約指輪を仕舞う。一瞬ズキッと胸が痛むけれどすぐに戻ると心で思うとスゥッと落ち着いて来る。そうなると体は火照っているのに頭がクリアになって程よい緊張になる。


 プールに飛び込み体を水に慣らすと同時に伸びの確認。うんいい感じだ。

 すぐに戻ってプールサイドにあがる。


 スイムキャップとゴーグルの装着具合を最終確認する。うん締め付け具合が丁度いい。髪のまとめ方を失敗していない。


 位置につくよう促されたので飛び込み台に上がる。あとはもうやるだけだ。


「テイクユアマーク・・・ピッ」


 いいスタートを切った、周囲より少し抜けてくれた。うん今日は良く伸びる。

 でもやっぱ追いついてくる。200mの入りまではライバル達の方が早いはず。焦らず自分のペースで泳げば良い。


 50のターン。うん綺麗に蹴れた。本当に今日はよく伸びる。先行されてたけど並んだ。でもやっぱ相手の方が早い。でもいつもの調子だ。


 100のターン。うん綺麗に蹴れた。伸びも良い。今度は少し先行。でも追いつかれる。こんなものこんなもの。


 150のターン。少し手のかきが合わなかったけど微調整に成功。今日は伸びすぎて手のかきが半分少なくかった。伸び過ぎる時もターンで合わせる事を失敗すると失速する、要注意だ。


 200のターン。先頭の人とほぼ同時。そして私が伸びて先行する。うんいいペースいいペース。


 250のターン。ライバルの2人が遅れてる。私は良く蹴れて良く伸びる。かきの微調整は成功。


 300のターン。確実に私が先頭。今日は本当に調子がいい。ちょっとだけペースを上げてみよう。


 350のターン。ペースをあげたのに手のかき数が一緒。すごい伸びてるという事だ。ラストスパートまでこのペースが一番体力のロスが少ないだろう。もう相手は腕1本は遅れてる。


 400mのターン。良く蹴れた。この感じだと550mあたりからラストスパートかな。


 450mのターン。良く蹴れた。いい調子。だけど浮かんだあとの最初の呼吸で波を被って空気の取り込みに少し失敗、一瞬だけ呼吸が乱れたけれど水を飲んではいないのでペースが落ちる程じゃない。6かきの間で調子は戻る。


 500mのターン。良く蹴れた。相手選手の腕はもう見えない。独走状態だ。これからは自分との戦いだ。


 550mのターン。良く蹴れた。さぁラストスパート。力み過ぎないようにだけど全力に。


 600mのターン。うん1かき増えた。予定通り。蹴ったあとの伸びが本当に気持ちいい。


 650mのターン。同じく1かき多い。ターンの時に相手選手が見えなくなった。完全に独走。ベストは更新しそうだな。


 700mのターン。ガラガラ鐘の音が聞こえる。あとは振り絞るだけ。全力の中の全力だ。ゴールした時に力の元が一滴でも残ってたら後悔する。ゴール後に倒れたって良い。


 750mのターン良く蹴れた。良く伸びる。今日はとても失敗が少ない。こんなに気持の良い泳ぎは初めてかもしれない。呼吸が苦しくて視界が少し暗く感じ始めるけれど、この痛みや暗さすらずっと味わっていたいぐらい。25mの線を超えた。手のタイミングはバッチリだ。最高に伸びたタイミングでタッチするぞ。5mの線のタイミングが完璧だ。あとはふたかきだけ。1,2,タッチ!


 あぁ・・・振り絞った。胸が張り裂けそうなぐらい鼓動を感じる。俯いて大きく2呼吸、これで暗くなっていた視界が明るくなる。

 ゴーグルを取って電光掲示板を見る。うん自己ベストだ。WR?あぁワールドレコードか・・・。みんな見てくれたかな?私立派な日本になったよ。


 6コースを泳いでいたクルス選手が声をかけてきた。アメリカの選手だし英語だよね?・・・早口で分からない。


「センキュー」


 握手をする。


 反対の4コースを泳いでいた、今までずっと目標にしていたヒリング選手も声をかけてきた。最後のファイトだけはわかった。ナイスファイトって言ったのかな。あれ?ヒリング選手ってロシアの選手だよね?


「センキュー」


 握手をする。

 わわっ、抱きしめられた。胸でっか。ボヨンって感触あったよ。この胸の抵抗がなかったらヒリング選手の方が私より早かったんじゃないかな。

 耳元でめちゃくちゃ早口で何か言われてるけど分からないや。


「センキュー」


 とりあえずそう言ったら頭をポンポンと叩かれて開放された。


 早く指輪をつけたいけれど、全員が泳ぎ終わるまでコースを跨ぐ事は出来ないので、日本の応援団のいる観客席の方に手を振った。観客席側は暗くなっていて、1人1人の表情までは見えないけれど、大小の国旗やプラカードを命一杯振って喜んでいる事は分かった。


 全員が泳ぎ終わった事を確認したあと、10コース側の梯子の方からプールサイドに上がった。試合後は体が重くて、直接コース飛び込み台の方から登る事ができるけど、振り絞り過ぎた時に足の踏ん張りが効かずに失敗する事があるんだよね、失敗するとテレビに映って恥ずかしい、試合後は私はいつもこっちからあがっている。

 私が梯子を上る時クルス選手が先に上っていて、私に手を差し伸べて上がるのを引き上げてくれた。私が上がり終わるとクルス選手はさっきのヒリング選手のように私を抱きしめて来た。ヒリング選手には及ばないけれどポヨンと柔らかい感触がした。うん、胸の大きさが同じだったらクルス選手も私より早かったと思う。


「サンキュー」


 うんやっぱ早口で聞き取れない。通訳が欲しいなぁ。


 クルス選手は、私が言葉が分からない事に気が付いたのか、私の背中の方をトントンしたあと解放した。私は手を振って5コースの席に行って、すぐにパーカーのポケットから指輪を取り出して左手の薬指につけた。パーカーにポタポタと水がかかるけど気にしなかった。 

 指輪をつけると、そこから何か暖かいものが心臓の方に伸びたあと全身に広がっていくような感覚がした。そしてプールサイドに上がった時に感じた体への重量感が軽減して、疲労感が心地よく感じるようになった。なんかもう一試合ぐらいすぐに泳げそうな気がした。

 プールと監視員と客席に最後の礼をしていると、コースの監視員ではない係員から声がかかった。

 あれ?まだ次の選手入場の時間じゃ無いよね。あぁ、はいはいインタビューね。バスタオルで体を拭くぐらいさせてよね。そんなに催促しなくても行きますよ。


「女子800m自由形で優勝しました水辺オルカ選手です! おめでとうございます!」

「ありがとうございます」

「素晴らしい記録でした、とても興奮しました」

「はい皆さんの応援のおかげで優勝できました」

「世界新記録ですが達成感はありますか?」

「はい、今日は体の調子がとても良いと感じていたので行けるかもと思っていました」

「300mあたりからヒリング選手を引き離し始めましたが予定のペースだったのでしょうか」

「50mの入りで今日の体調が予想以上に良いことがわかりました。そのため300mでペースをあげてみましたがまだ余裕を感じました、そのあたりでヒリング選手やクルス選手より私のペースの方が早い事が分かったので、あとは自分との戦いだなと思っていました」

「わかりやすい解説ありがとうございます、明日から400mの試合がありますが意気込みはありますでしょうか」

「優勝を目指します」

「最後に日本で応援されてる皆さんに一言いただけませんでしょうか」

「みんなっ! 私は立派な日本になったよっ!」

「あ・・・ありがとうございます」

「はい」


 インタビューはおしまいのようだ。婚約指輪ちゃんと映ったかな。世界選手権の時は上げた手で水着のメーカーのロゴを隠しちゃったみたいで怒られたんだよね。


「あの・・・」

「はい」


 まだインタビューがあるようだ。


「水辺選手、立派な日本になったというのはどういう意味でしょうか?」

「私は日本の水辺だから、立派な日本を見せてくれって部員に言われてるんです」

「それは総体男子100m優勝の立花選手ですか?」

「最初に言い出したのは確かにそうですけど、今では部員のみんなが言うようになっています」

「なるほどわかりました、今日は本当におめでとうございます!」

「はい! ありがとうございます!」


 あーはいはい、ドーピング検査ね、行きますよ。疑うのが仕事なのは分かるけど睨んで来ないでよね。ほんとトイレまでついてきて、取る時に覗きこんできてさ。こんな水着にパーカーとバスタオルだけしかないのにすり替えするようなもの隠している訳ないじゃん。同性だからって音を聞かれたり見られたりするのはすごく恥ずかしいんだからね。

 あっ・・・血液検査もするんだ。指先にチクっとするだけだけど嫌なんだよね。はぁ・・・。

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