第113話 予選

「そろそろ水辺さんの予選始まるわよ〜」

「了解〜、みんな勉強の手を止めてオルカの応援に行こう」

「「「は〜い」」」


 合宿での夜、下級生達の夏休みの宿題の穴埋めを手伝っていた所で、テレビの実況を見ていたマダムから声がかかった。

 宿直室にある未だにガチャガチャとダイヤルを回すタイプの小さいテレビでは全員で応援するには難しいので、職員室にあった比較的大きなテレビが学食の食堂に移設されていた。

 食堂に入ると何故かサッカー部がいてテレビを見ていた。サッカーの日本代表の試合は無い日なのでオルカの応援に来てくれたのだろう。


「水泳部員達に席を開けて」

「婚約者様は最前列に〜」


 サッカー部キャプテンの佐野とマネージャーの綾瀬がサッカー部員にテレビの前の席を開けさせ水泳部員に譲った。特に佐野はテレビの真ん前の特等席を俺の席だとポンポンと叩いていた。


 佐野はプロリーグの誘いを受けるらしく、受験も無いため引退していなかった。他にも推薦での進学先が決まっている部員も残っていた。

 サッカーもバスケのように冬に大きな大会があるらしく、バスケ部員の何名かと同じように何人かの部員が引退していなかった。

 綾瀬もマネージャーのまとめ役の座は後輩に譲ったそうだけど、その冬にある大会まではマネージャーを続けるらしい。

 綾瀬は俺の理科1類より偏差値の高い、理科3類を志望しているのに、それでも合格は出来る状態なのだろう。

 やり方によってはそんな綾瀬を上回ってしまう、ゲームの主人公である武田という存在がいかにおかしな存在だと良く分かる。

 そういえば武田は元気だろうか。


『マグロ船で活躍しています』


 武田のポテンシャルはマグロ船でも発揮されるという事だろうか。


「最終手前の組のセンターコースだね・・・」

「水辺先輩は今季世界2位の記録持ってるからだよ・・・」

「センターコースって何だ?」

「中央に近いコースで泳ぐ事だよ」

「国際規格のプールは10コースで、センターコースは5コースとされてるんだよ」

「ん?4コースもセンターじゃ無いか?」

「確かにそうだけど5コースがセンターコースって言われてるんだよ」

「早い順に5,4,6,3,7,2,8,1,10って割り当てられるね、予選だと組数も含めて選手の配置が決められるから少し複雑だけどね」

「へぇ・・・」


 水泳では実力に合わせて泳ぐコースが割り当てられる。予選は後ろの組ほど早い傾向にあるけど、中央のコースほど波の影響が少なく泳ぎやすいため、予選で最終手前のセンターコースを泳ぐと言うことは、現在世界で2位だと評価されている事を表す。


「緊張の様子は見られ無いわね」

「オルカは試合では緊張した事無いって言ってたな」

「大きな舞台でも慣れっこって事なの?」

「元々の性格みたいだぞ」

「それはすごい才能ね」

「あぁ・・・」


 綾瀬がオルカの事を感心したように見えた。綾瀬はどちらかというと緊張をうまくコントロールするタイプっぽいから、緊張しないというのは凄く見えるのかもしれない。

 オルカは少しだけ緊張したほうが調子が良くなると言っていた。2年生になるかならないかぐらいの時に緊張して心拍数を上げる方法を編み出して、前半が遅れるスロースターターな部分を克服したと言っていた事があった。


 テレビを見ながら水泳部の後輩たちが「頑張って!」「日本の水辺っ!」と声援を送っている。聞こえなくても気持ちは届くと信じて懸命だ。

 オルカはいつもの試合前と同じ様に体を伸ばしたり飛び跳ねたり調子を見ていた。決勝など選手紹介がある試合の時に行う一連の動作だ。口角がいつもより上がっているので調子が良いのだろう。


 「テイクユアマーク」という声のあと「プッ」という電子音が鳴り選手が一斉にスタートをした。後輩たちが「「「せぃっ!」」」と試合会場の時の応援の時の掛け声を出す。

 フライングの選手も出ず綺麗な滑り出しをした。テレビからは「日本の水辺っ!綺麗なスタートを決めましたっ!」と言っている。


「頭1つ先に出たわね」

「オルカは水の抵抗が少ない姿勢を取るのが上手いんだよ。だからスタートとターンでは他の選手より伸びがあるんだ」

「それで他の選手より手のかきが遅く見えるのに早いのね」

「あぁ・・・それにオルカはラップタイムが殆が落ちないんだ、時には上がって行くことにすらある。50mのターンで1位って事はこの組ではトップが決まりだよ」

「すごいのね」

「あぁ・・・体力の化け物だ」


 オルカは日本記録を上回るペースではあった。100mのラップタイムは俺の中学校最後の県予選の100m自由形のタイムより早い。けれどオリンピック記録から僅かに遅く、世界記録からは3秒遅いペースで泳いでいた。けれどラップタイムの度にオリンピック記録に迫っていき、700mでは並ぶようになっていた。


「行けー!」

「ラストぉ!」


 オルカは残り400mの時の感触からラストスパートのタイミングを決めると言っていた。今日は残り200mからスピードが上がっていたので調子が良い日のようだ。

 女性はどうしても周期的に調子の悪い時がある。男である俺は察するぐらいしか出来ない。練習でオルカがタイムを落とすな日など、何となく気がついた時に、荷物を持ったり、歩くペースを落とす事ぐらいしかしてあげられない。


 オルカは世界記録には1秒届かなかったけれど、オリンピック記録を上回るタイムで予選を通過した。勿論今季最高記録で最終組の今季1位の選手に強いプレッシャーを与えていた。


「すごいわね」

「あぁ・・・見事だよ」


 テレビの解説者がまるで既に優勝を決めたかにように興奮して話をしていた。俺もかなり興奮してしまっている。本番は明日だというのに気が早い事だ。

 

「インタビューでは少し緊張するのね」

「緊張しているのか?」

「えぇ、してるわね」

「そうなんだ」


 預けていた婚約指輪を付けたのか、胸の前に手を置いてそれを見せびらかせるようにしている。


「健気ね・・・」

「・・・」


 一緒に見ている連中から囃し立てられ肩をバシバシと叩かれる。こんな風に揶揄われるなら合宿に参加せず家でテレビを見るべきだったかと少し思った。


 オルカのインタビューの間に次の組の選手入場と選手紹介が終わったようで番組はレースの方に変わっていった。


「今度の5コースの人が最大のライバルなの?」

「あぁ・・・あとオルカの前の組を泳いだセンターコースの人も同じぐらいの記録保持者だった」

「8秒水辺さんが勝ってたわね」

「そしてこの人の記録が800m女子の今季最高記録だよ」

「水辺さんの方が4秒早いわね・・・」

「100mあたり0.5秒相手が遅いペースだったって事かな」

「それってすごいことなの?」

「俺は100m自由形で自己ベストを出して総体優勝したけど、去年の総体で3位だった時よりたより0.46秒上回るぐらいの差でしか無かったんだ」

「なるほど・・・何となく800mで4秒差の意味が分かったわ」


 最終組のライバルは、200mまで世界記録を超える速さで泳いでいたけどそのあと失速してオルカより6秒遅い記録でゴールした。本人の自己ベストより遅い記録で顔が歪んでいるの様子が見えた。

 その選手の前半のハイペースに影響されたのか、他の選手も記録を落としたようだった。

 オルカもこの組で泳いでいたらペースを乱された可能性があったので、予選が前の組であったのは幸運だったようだ。


「さぁ水泳部は勉強に戻るぞ〜」

「立花先輩ドライ〜」

「そんな事言うと課題手伝ってやらないぞ〜」

「行きます行きますっ!」


 課題を手伝う事は良い復習になるので積極的にやるけどね。

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