第44話 1/f

 ホテルの食事は朝夕バイキング形式で、昼は仕出しお弁当が用意されるらしい。 樺太県といえば樺太鱒というぐらい名産なだけあって、夜のバイキングは、焼き、フライ、フレーク、シチュー、アラ汁、ルイベという凍った刺し身など、樺太鱒が多く使われていた。

 他にもイクラやカニやホタテなど、樺太県ならではという感じの食材が多く使われていた。


 日が落ちたあとはさらに気温が落ちているらしく、ホテルの室内の温度計は16度だった。 俺は暖房を効かせると共に、プールサイドで着るウィンドブレーカーを着て暖を取った。


「油断すると風邪引くな」

「フロントに加湿器を借りて来ます」

「それが良いな」


 喉を痛めたら大変だ。 お湯を張った洗面器や濡れタオルを枕元に置く方法もあるだろうけど、確実性を取って加湿器を借りて来た。


「あれ? お土産でも見に来たの?」


 ホテルのお土産品コーナーで樺太鱒の缶詰を手にとって見ていたオルカが、フロントの方に居た俺を見つけて缶詰を置いて近づいて来た。


「部屋が寒くて暖房つけたんだけど、喉が乾燥するといけないから加湿器借りに来たんだよ」

「そういう時はマスク付けて寝ると良いらしいよ」

「マスク?」

「海外だと加湿器とか無いホテルが多いからそうやって身を守る事があるって聞いたよ」

「へぇ・・・でもマスクは持ってないな」

「私持ってるし、コンビニ行けば買えるでしょ」

「ホテルまでの道すがらで見かけなかったけど、ここってコンビニあるのか?」

「あっ・・・」

「まぁ薬局とか探せば良いのか・・・それまで無いって事はないだろ」

「そうだね・・・」


 不織布の50枚ぐらい入った使い捨てマスクはこの世界に来てからまだ見たことが無い。 マスクと言えばガーゼ製ばかりで、花粉症の人は冬場にそれを付けている。


 前世でもこの時代はまだ不織布マスクは一般的では作られて居なかっただろうか。 死ぬときまで花粉症にはならなかったので、いつ頃から登場したのか覚えていない。


『既に作られていますが、あなた様が考えている箱入りのものは医療機関への業務用のものぐらいで、一般的な薬局では2枚から12枚入のものしか売られていません』


 俺の疑問に対して、スミスの憑依体が優しく教えてくれた。

 どうやら不織布マスクは、存在するけど俺が見たことが無いだけらしい。


『歯科検診の歯医者と薬局の店員がしていましたけど、あなた様が気に留めなかっただけです』


 どうやら俺が覚えて見たこともあるらしい。人の記憶というものは、こういう曖昧なもので出来ているんだなと改めて思う。


 そういえば前世で新型の感染症が流行した時に、働いていたスーパーでもマスクの欠品が起きて苦情対応してたっけ。 仕入れ180円、売値298円の50枚入りマスクが発注しても納品される事が無くなり、本部から仕入れ220円となっているマスクが大量に納品され、売値2680円で売れと指示が来て大量に積み上げて売ったっけ。

 仕入れ値が段々と跳ね上がり1700円まで上がったあと、新型の感染症が終息して売値498円まで下げないと動かなくなった。

 本部は1000円ぐらいの時に仕入れた大量の在庫を抱えて居たみたいで、特売打つからすぐに売れと言ってきたけど、仕入れ1000円のまま398円で売れという店舗に赤字補てんさせる指示だったし、粗悪品なのか、布とゴムの融着が弱くて、耳にゴムをかけたらすぐに切れたとクレーム入れられて、返品対応が多かった。

 3年ぐらいで落ち着いて仕入れ200円で売値498円の、前のものよりしっかりしたマスクが発注出来るようになったけど、あのせいで雑貨類の利益率下がったのに、店長会議で本部に行くとバイヤーの奴から店舗の責任だとボーナスカットを言い出して、あまりの理不尽さに店長達の大量退職がおきて問題になったっけ。


 でも製造コストや流通コストが大きく変わることは無いだろうに仕入れ200円前後が1700円にまで跳ね上がるって、あの時どんだけ製造元にボラれていたのか恐ろしく思ったものだ。

 俺は、ネットで調べて手縫いした黒い布マスクを洗いながら使っていたので、2680円のマスクは買わなかったけれど、多くの人がその値段で買っていて、世の中どうなってるのか不安になったものだ。


「部屋に戻るの?」

「同室の先輩待たせてるからね」

「朝食は一緒に食べようよ」

「朝食の前に軽くランニングするけど、その後で良い?」

「いつランニングするの?」

「6時から10分ぐらいストレッチして、30分ぐらい軽く走って、部屋に戻ってシャワー浴びてから朝食かな」

「それなら付き合いたいな、本番前のアップだけじゃ足りないしね」

「じゃあ6時にロビーでね」

「はーい」


 バスケと違い、水泳は開会前にアップはあるけれど、長い時間泳げるわけではない。 呼び出しから競技が起きるまで、控室やプールサイドという狭い空間で体を伸ばしたりジャンプしたりして体を温め、心拍数をあげて準備しなければならない。

 長水路での競技の場合に調整用の25mプールが使える場合があるけれど、無い場合もある。今回は屋内だし、調整用の25mプールもあるという好条件だけど、屋外だと風が吹き通って体が冷えたりする。 室内だとしても、設定温度によっては控えの場所は寒かったりする。 そして競技が始まってしまえば1分以内で結果が出てしまう。

 スタートが遅れた、飛び込みの時にゴーグルがズレた、足がつった、隣の選手が立てたの波を被った、ターンの距離を間違った、壁を蹴るとき滑った、タッチのタイミングが悪い。

 ベストコンディションで迎えても、そういったアクシデントでタイムロスが起きてベストタイムからは遠ざかる。

 がむしゃらに体を動かしているのに、水の流れに体が冷やされて、火照りなど感じる前にゴールし結果を見て一喜一憂する。

 短距離の水泳競技はそんな感じだ。


「ただいま戻りました」

「加湿器あったか?」

「えぇありました」

「じゃあコンディションを考えてさっさと寝ようぜ」

「はい」


 部屋の照明を落とすと先輩の息遣いが聞こえて来る。 夏合宿や修学旅行で大部屋で寝るというのはなし何度か経験があるけど、2人というのはお袋が再婚した時以来かもしれない。

 お袋はローンの残った家を処分し、小さな部屋を借りて俺を養う為に働き出した。 生命保険と遺族年金では一生食ってはいけないと判断したからだろう。

 だからお袋が再婚するまでは寝る時はお袋の寝息と一緒だった。

 俺はいつの間にか一人部屋に慣れて、他人の寝息がある状態に違和感を感じるようになっていたらしい。


『寝息立てないようにしましょうか?』

(そんなのは要らないよ)

『気になるようなら、聞こえないようにも出来ますよ』

(そのままでいいよ)

 スミスはザーンザーンと1/f波長の波の音を俺の耳に届けてくれた。

(ありがとう)

『いえ、おやすみなさい』


 俺は心地いい音に導かれるように静かに眠りについた。

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