瑞木由花 18歳 秋11

 走る。走る。走り続ける。


 こんなにも体に力が満ちているのはいつ振りだろう。二年の頃、おねーちゃんの声援を受けて戦った全日本女子ジュニアボクシング選手権の決勝戦以来かもしれない。


 歩道のない首都高を走る。真横を通り過ぎる車が体を掠める。唐突にクラクションを鳴らされる。全部、怖くない。


 だって、頭の中におねーちゃんの歌声が響いてる。


 だから、わたしは無敵。


 神様にだって負けやしない。


 空港西ICを降りると、永遠に続いてそうな直線道路に、市街地の風景が混じり始める。天空橋駅に繋がるモノレールの線路と並行して進み、片側三車線の横断歩道のない道路をダッシュで横断。車がクラクションを鳴らしてブレーキし、危うくガードレールにぶつかりかける。ドラレコに映ってたらまたネットに上げられるかもしれない。今更だ。そんなこと、もう恐れない。


 気づけば呼吸が一定のペースを刻んでる。体が熱くて、エネルギーが小指の先まで行きわたってて、今ならどんな無茶だってできる気がする。


 カーブを曲がる。Zepp Hanedaがある羽田イノベーションシティが見えてくる。正午開催のライブまで後数分。おねーちゃんの名前入りグッズを身に着けた人がちらほらいるけど、ほとんどの参加者はもう会場に入っているはずだ。


 左折し、階段を上り、イノベーションシティを駆け抜けると、入り口が見えてくる。柵で入場用と物販用の通路が作られていて、物販の方にはチケットを取れなかったのだろう現地参加者が列を作っている。


 突然、建物の中からメロディーが漏れ聞こえてきた。同時、ぶわりと膨れ上がった熱気が肌を舐める。ライブが始まろうとしている。急がなきゃ、再び走りだす。


 直後、強く右腕を後ろに引かれた。肩がもげそう。苦悶の声が漏れる。


「やっぱり来ると思ってたぞ、この暴力主義者が!!」

「っ、アンタは、」


 昨日ぶん殴ったゴリラ男が、わたしの右腕を掴んでいた。顎と頬にガーゼを当て、パツパツのライブTシャツを着ている。腕を振り払おうとしたけど、筋力だけなら向こうの方が上だ。


「昨日殴ったのは謝るよ。だから放して!!」 

「おいいたぞ!! エリカの妹だ!! エリカの妹なのに暴力に訴え、俺たちのエリカの経歴に傷をつけた裏切り者だ!!」


 意味がわからない。


 病院送りにしたからか、他の三人の姿はないけど、虹色バンダナを付けた似た雰囲気のやつらがぞろぞろと現れた。ニコニコしている癖に、こっちの言葉には欠片も耳を貸す気がない、真実を知ったつもりの、正しいつもりのやつら。そいつらはわたしを見るなり取り囲むと、それが正義みたいな顔して罵詈雑言を浴びせてくる。ゴミ箱にでもなった気分。スタッフの人たちが戸惑った様子でこちらを窺っている。


 ゴリラ男はニヤついた顔でわたしを見下ろす。


「おい、許して欲しいなら土下座して俺の靴にキスしろ。本気で反省してるならそれくらいできるだろ?」


 ……テメエ、結局自尊心を満たすのにおねーちゃんを口実に使ってるだけじゃねえか。


 湧き上がった怒りで危うく脳が焦げるところだった。でも、拳は握らない。もうコーチを悲しませたくないから。それに、わたしが殴りたいのは世間や社会で、コイツじゃない。


 いいよ、一秒でも早くおねーちゃんの所に行くためなら、靴でもケツでも舐めてやる。


 わたしが地面に片膝をつくと、周りにいる奴らが歓声を上げた。スマホで写真や動画を撮り始める。奇妙な冷静がわたしの中を満たして、不思議と怒りがわかない。きっとどうでもいいやつらだからだ。地面に両手をついて、


 ……いや、違うな? 


 わたしがぶっ飛ばしたいのは、おねーちゃんを苦しめるこの社会で、こいつらじゃない。でも、こいつらだってこの社会を構成する一部だ。おねーちゃんに理想を押し付けるクズだ。なら、目を背けず、戦わなきゃ。立ち上がり、真正面から睨みつける。


「やっぱやめた」

「……なんだと? お前は俺や俺の仲間をどれだけ傷つけたのか忘れたのか?」


 再び始まる罵詈雑言。なんて薄っぺらい。


「忘れてない。覚えてる。暴力を振るったことに関しては謝罪する。けど、アンタらの自尊心を満たすためだけのパフォーマンスは絶対にやらない!!」


 睨みつける。おねーちゃんの歌声が、今もわたしの内側で響いてる。


「わたしは、お前たちみたいな、助けを求める人たちの声に便乗して、利益を得たりプライドを満たそうとしたりするやつらを許さない。モノだとかオレタチノだとか、都合のいい道具としか思ってない証拠だよ。アンタらみたいなやつらが、おねーちゃんたちを苦しめるんだ!! だから、絶対に謝らない!!」

「っこのクソガキ」


 ゴリラ男が空いた手を振り上げる。歯を食いしばる。殴るなら殴れ。けど、わたしは殴らない。


 その腕を、誰かが掴んだ。


「……あー、まあなんだ、大の大人が子供を殴るもんじゃない。それにほら、動画を撮ってる人たちもいるし」


 確かに、ゴリラ男の仲間がさっきから撮影に励んでいるけれど。

 ていうか。


「……コーチ」

「んで、コイツはオレの教え子なんで、コイツが無礼を働いたっていうならオレの責任です。謝罪します。でも取り合えず、手を放してもらえませんか?」


 コーチはわたしと目が合うと、ゴリラ男の腕を掴んだまま、気まずそうにへらりと笑った。見に来てくれたんだ。教え子って言ってくれるんだ。嬉しいな。こんな状況だってのに、口元が緩んじゃう。


「断る。俺はコイツに謝罪を求めてるんだ」

「でも子供の責任は親の責任って言いますし」

「うるさい!! 俺たちの心は傷ついたんだ、この気持ちは俺たちの言うとおりにしないと癒されない!! そうだろうが!!」


 湧き上がる、本日三度目の罵詈雑言。あまりに響かなすぎて笑えてしまう。きっとこいつらは、手軽に同情と共感ができるカワイソウな人たちがいるコンテンツに酔っていたいだけなんだろうなあ。そう考えると、何だかすごくショボいやつらに思えてきて、怒りよりも憐れみがわいてくる。


「あー……」


 コーチも話が通じないと悟ったらしい。咳払いするとゴリラ男の後ろを指さし、


「……あ、エリカだ!!」

「「「えっ!?」」」


 全員が振り向いた瞬間、コーチがゴリラ男の手からわたしの右腕を引き剥がした。右手に何かを握らされる。お礼を言う間もなく背中を突き飛ばされ、やつらの輪から弾き出される。


「走れ由花!! あとは、まあなんとかする!!」


 ゴリラ男を羽交い絞めしつつ、コーチが叫ぶ。反射的に走りだしたわたしの背中を、コーチの言葉が後押しする。


「なあ、由花!! オレは、ボクシング以外じゃお前に何も教えてやれないつまんねえやつだが、お前をいいやつだと思ってるよ!! お前は強い!! いろいろ応援してるからな!! 頑張れ!!」


 その言葉が、泣きたいくらい嬉しい。見捨てられたと思っていた。突き放されたと思っていた。勘違いだった。だって、コーチはこんなにもわたしに親身になってくれてる。


 だからこそ、申し訳ない。わたしがやろうとしていることは、信じてくれたコーチへの、二度目の裏切りだから。


 それでもわたしは、振り返らない。


 右手を開く。くしゃくしゃになったそれは、コーチにあげたはずの関係者席のチケットだった。胸が熱い。ありがと、コーチ。これで堂々と会場には入れるよ。


「通ります!!」


 叫びつつ、人の隙間をすり抜ける。怒号、悲鳴、わたしを呼び止める声。知ったことか。彼らの邪魔なんて、わたしのステップとディフェンススキルの前では無いも同然。赤ん坊をあやすように腕をパリングし、すり抜ける。


 目指すはおねーちゃんのいる場所。ライブが始まっているならステージだ。チケットを切ってもらい、中へ。


 会場は、ステージ側以外の三方を通路で囲われている。通路にある最寄りの入り口から会場に入る。途端に膨れ上がる音楽。歓喜に沸く観客の叫び声。昨日のセトリからするに、おねーちゃんが現れるまでまだ時間がある。それなら関係者通路だ。再度会場を囲む通路へ。


 関係者以外立ち入り禁止の扉を抜けた先に、スーツの男が立っていた。足を止める。


「……キヨにい」

「エリカから、由花ちゃんが逃げ出したらしいって聞いたよ。やっぱりここに来たんだね」


 お父さんたちが伝えたんだ。キヨにいのすまし顔が癇に障る。

「キヨにいだってわかってるでしょ? おねーちゃんは、ファンの身勝手な偶像を演じさせられ続けて、もう限界。体も心も壊れかけてる。止めないと」


「ダメだよ。エリカは自分でやると決めたことをやってるんだ。やりたいことではないかもしれないけど、僕は彼女の覚悟を知ってる。エリカの意思を尊重してあげようよ」

「キヨにい、それじゃおねーちゃんを愛でてるだけだよ。おねーちゃんとの思い出に対してしてることと同じ。キヨにいはおねーちゃんの本当の幸せすら諦めて、折り合いをつけただけなんだ。大切にするっていうのは、そうじゃないでしょ?」


 キヨにいの笑顔が歪み、苦しそうに視線を伏せる。


「キヨにい、アンタはそうやって、ずっと人生を妥協してきたんだろ。だからたくさんのものを持ってるくせに、本当に大切なものの守り方も知らないんだ」

「……君はまだ知らないだけだ。僕たちには人を愛する権利すら、人権すらないことを。バレないように息を殺して生活しなければならず、バレれば躊躇なく偏見の目を向けられることを。そして、僕らは攻撃されて当然だという事実が、どれだけ前向きに生きる気力を奪うかを」


 苦悶の表情。震える声。ようやく見えた、キヨにいの生きづらさ。


 唐突に、キヨにいが幼いわたしたちに何もしなかったという話を、信じてもいい気がしてきた。


 きっとこの人の苦しみは、父親に隠し持っていたロリコンの漫画を焼かれた時に始まったものだから。


 自分の愛が叶わないことを受け入れ、想いを隠し、おねーちゃんにとってただのいいお兄ちゃんでいようとしていたのに、それすら否定され、引き離され、誰もがそれを当然だと受け入れたあの時から。


 わたしは知っている。あの時燃やされた本は、全年齢対象の漫画ばかりで、法に触れるものは一つもなかったんだ。


「それどころか、君は自分が何をしようとしているのかも理解していない。どれほどの人に迷惑をかけ、キャリアに泥を塗り、損失を発生させるか想像もしていない。まるで子供のままだ。その証拠に、人生を棒に振ろうとしているのに、恐怖すら感じていないじゃないか。僕からすれば、それは蛮勇だよ。無知で視野が狭いから、自分の思い通りになると思い込んでしまってるんだ」


 耳が痛い。でも、今なら親切心だって素直に受け入れられた。


「……キヨにい、それは一つだけ間違ってる。わたしは、怖くて仕方がないよ」


 考えただけで、腕が震える。


 キヨにいの言う通り。これを終えた時、きっとわたしには想像もできないくらいたくさんの誹謗中傷にさらされるのだろう。数えきれないくらいの関係者に迷惑をかけるのだろう。そしてライブが中止になったなら、わたしが一生費やしても払いきれないくらいの賠償をしなければいけなくなるのだろう。


 途方もなくて、途轍もなく、怖い。


「でも」


 キヨにいを見据え、心の底から訴える。


「おねーちゃんが死んでしまうことの方が、その何百倍も、何万倍も嫌だから」


 想像するだけで、ほら、わたしの胸はこんなにも張り裂けそう。


 わたしだって、止まれるのなら止まりたい。そうできるもっといい未来は、たくさんあったはずなんだ。


 例えば、ネイルの忠告を素直に聞いて、もっと早くおねーちゃんに相談していたら。キヨにいに十年ぶりに会った時、拒絶せずにちゃんと話し合い、和解はできなくても、協力しておねーちゃんを助け合う約束くらいならできただろう。早桜さんとも、嫌われていそうだからって距離を置かず、ちゃんと話し合って信頼関係を築いていたら、おねーちゃんの病気の話を聞いてくれたかもしれない。それに、あの時病院にやってきたやつらをぶん殴ったりせず、受付の人に助けを求めていたら。家族や友人以外は面会禁止なら、わたしが何もしなくたって病室には来れなかったはずなんだ。


 そうやって、わたしがおねーちゃんを守るだなんて意地を張らず、周りの人の言葉を素直に受け入れ、きちんと助けを求めることができていれば。


 でも、ああ、わたしが馬鹿で愚かで考えなしだったから、現実は、こうなってる。


 何度ぶん殴っても足りないくらい、自分の未熟さが憎らしい。やり直す機会はいくらでもあったのに。今さら気付いたところで、どんなに悔いても、もう後戻りはできないんだ。


「だからせめて、間違った選択だと理解したうえで、全部を背負う覚悟で、前に進み続けるんだ」


 おねーちゃんを、救うために。


 キヨにいの顔がくしゃりと歪む。


「……由花ちゃん、それは、ダメだよ。何も知らない子供が、自分の責任で自分の人生を棒に振ろうとするなんて、あんまりだ」


 なんて苦しそうに話すんだ。これは、わたしのことなのに。


 そっか。おねーちゃんの言う通り、この人は優しいんだ。


 ふと思う。もしもこの人がロリコンじゃなかったら、本当に大切なものを諦めない生き方をしてこれたなら、きっとびっくりするくらい素敵な人になったんだろう。


 そうだったなら、もしかしたらわたしは、心の中で泣きながら、二人の幸せを祝福していたのかもしれない。


 でも、現実はそうじゃないから。


「ありがと、キヨにい。でもね、今のおねーちゃんを救うことは、わたしにしかできないことなんだ。それがわたしは、とんでもなく誇らしくて、嬉しい。だから、同情や憐れみなんていらない」


 キヨにいが立ちふさがる、廊下の奥へと歩き出す。


「その代わり、見ていて。わたしの覚悟と、想いを。祝福しなくていいから、ただ受け入れて」


 キヨにいの体がびくりとはねる。


 キヨにいの左わきをすり抜け、前へと進む。キヨにいは、止めようとしなかった。


 振り向かない。

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