第四章 これが、わたしの真実

瑞木由花 18歳 秋10

 心は決まった。なら、やるべきことも見えてくる。


 おねーちゃんを助けに行く。おねーちゃんに自分勝手な理想と希望を押し付けたやつらを、倒しに行く。


 きっとおねーちゃんは止めてって言うと思う。けど、それはおねーちゃん自身も勘違いしているだけで、本心じゃない。歌うのが好きで、歌いながら死にたいのは本当かもしれない。けどそれは、こんな寄生虫みたいなやつらにおねーちゃんのすべてが吸いつくされた末じゃなくて、おねーちゃんが自分らしく歌って、歌って、歌い続けて、そして歌い切った、その先にある願いのはずだから。


 だって、あんな儚くて悲しい笑顔が、一番綺麗な笑顔なわけがない。


 あの笑顔のまま終わるだなんて、わたしが許さない。


 さあ、行こう。


 机の引き出しからお小遣いを全額取り出し、昨日も使っていたバッグに突っ込む。電車じゃ多分間に合わない。タクシーを借りるつもりだけど、足りるかな。でもとにかく行くしかない。家にはお父さんたちがいる。玄関から外には出られない。なら窓だ。


 ジムで使うシューズを履き、そっと窓を開ける。ここは三階。落ちたら骨折くらいはするだろう。けど、おねーちゃんのためだと思えばどうってことない。ベランダに手をかけぶらさがると、一思いに手を離し、下の階のベランダにぶら下がり、もう一跳びして地面に着地。そのまま駅に向かって駆け出した。背後からクラクション。


「うわあっ!?」


 思わず大声を出してしまう。なんだテメエと振り返ると、見慣れた教頭先生の車が停まっていた。運転席には、ネイルの姿。


「ボクシングを辞めても曲芸師として食べていけそうね」

「ネイル!? なんで、っていうか運転できるの!?」

「叔父さんに無理を言って、夏休み中に自動車学校に通ったの。不測の事態で叔父さんたちが亡くなった時に備えて、早めに身分証明書を手に入れたくて」

「……アンタは実際に事故で両親が亡くなってるから、理由に関してはとやかく言わないけど、それをそのまま教頭先生に言ってないよね?」

「悪いことをしたわ」

「言ったのかよ」


 あと悪びれろよ。


「乗りなさい。どうせ交通手段がなくて困っているのでしょう? あなたを煽った分の責任は取ってあげるわ。ライブ会場でいいのよね?」

「助かる!! 時間がないの、急いで!!」


 助手席に飛び乗る。ネイルはすぐにエンジンをかけたけど、なかなか出発しようとしない。


「……ねえ、私は左折が苦手なの。どうにか右折だけで辿り着けないかしら」

「早く行け!!」






 常磐自動車道に入ったあたりで、スマホが震えた。お父さんからの着信だ。拒否し、バッグにねじ込む。お父さんお母さん、ごめんなさい。わたしは世界で一番親不孝な娘になると思う。それでも、行くことに決めたから。


 時刻は十一時前。ライブにはギリギリ間に合いそうだ。横を見ると、ネイルがやや硬い動きで車を運転している。


「ねえ、ネイルはどうしてわたしを助けてくれるの? アンタはわたしの気持ちも、わたしが何をしようとしているのかも、それが許されないことだってことも、わかってるでしょ? わたしに手を貸したら、アンタまで怒られるかもしれない。進路にだって影響するかも。それなのに、どうして?」

「そう言われると、引き返したくなるわね。……冗談よ。それはね、私がまだ高校生だから」


 意味がわからない。


「私は将来、社会学の研究者になるつもりよ」

「へえ、研究者」

「以前山口大学の心理学の教授に、研究職に向いていると言われたの。確かに、どこかで働くよりはずっと性に合ってるわ。でも私が知りたいのは、人の心よりも人間が構成する社会という生態だと思うから。専攻までは決めてないけど、とにかくその道を目指すことにしたの」


 唐突に話が飛ぶ。逸る気持ちを抑えるように、何度も手を揉み合わせる。



「いいんじゃない? 確かにネイルには向いてそう」

「それはどうも。でもそのためには、大学の講義を真面目に受けるのはもちろん、内部推薦に受かるよう、人並み以上に優秀で問題のない学生でいなくてはならないの。だから、私が子供でいられるのは、今年で最後」


 ネイルの横顔を見つめる。変わらない無表情が、なんだか大人っぽく見えてきた。将来。高校三年生の二学期だっていうのに、わたしはまだ何も決められていない。学びたいものもないし、なりたかった夢は自分の手で壊してしまった。なるほど、どうやらわたしは、自分の未来を探しに行かないといけないらしい。


 まあ、それはまた後で。


「だったら、子供という立場を免罪符として使えるうちに、何かをしておきたいじゃない。例えば、社会的倫理や道徳に背く、けれど命より大切な、掛け替えのないもののために何かをやり遂げるとか。私らしくないからこそ、きっと一生の思い出になるわ」


 つまりは青春よ。そう言い、ネイルはふっと口元を緩める。


「でも、あいにくそういう暑苦しいものとは縁がないのよね。それで困っていたら、ちょうどあなたがやらかしてくれたから、これはケツを蹴り飛ばして便乗するしかないと思ったの」

「嘘でしょアンタ、心配してくれたんじゃなかったの!? 本気で嬉しかったのに!!」

「軽い気持ちで行くんじゃなかったわね。気づいたら心のうちを吐き出した挙句、全力で励ましていたんだもの。この私がよ? とても驚いたわ」

「ん? あ、ああ、ありがと……」


 こういうことをしれっというなよ、心臓に悪い。


 ネイルがわたしに一瞥をくれる。


「……色々言ったけど、引き返したいのなら、それでもいいわ。あなたの選択は現代社会において絶対に許されないものよ。仮に全てが上首尾に終わったとしても、後からきっと酷い目に合う。後悔すると思う」

「後悔なんて」

「全くしない、何て言えないでしょう? ずっと醜聞が付きまとうのよ。あなたのプロボクサーの夢も、きっと捨てることになる。ご両親だって、誹謗中傷のせいで仕事を辞めさせられるくらいはあり得るでしょう。お姉さんが輝き続ける限り、あなたとあなたの家族は、後ろ指を指されながら日陰で暮らさなければならなくなる。全部、あなたのせいで。背負えるの?」


 そうか、ネイルはわたしがもうボクシングをできないことを知らないんだっけ。


「……それでも、わたしは行くよ」


 申し訳ないと思う気持ちは、もちろんある。


 けど、わたしの一番はとっくに決まっていて、変わらない。


 おねーちゃんが好き。


 おねーちゃん以外は何もいらない。


 おねーちゃんのためになら……ごめん、わたしは誰だって利用するし、邪魔をするならぶっ飛ばすよ。


 だって、愛してるんだから。


 この想いは、止められない。


 ネイルは消しゴムを貸すようなノリで、しょうがないわね、と言った。


「そこまで言うなら、もう止めないわ。というか私がやめたくないわ。だって今、こんなにも非合理的なことをしているのに、とても素晴らしい、最高の気分なのよ」

「わたしも。わたしたちは誰にも止められない。根拠はないけど、絶対にそうだって思える」


 妙な一体感。なんだこれ。あり得ないくらい楽しい。


「それより準備をしなくていいの? 大切な人に会うのなら、お化粧くらいしたらどう?」

「……あっ、そうだった!!」


 わたしは慌ててバッグを探り、昨日から入れっぱなしのコスメポーチを取り出す。旅館で時間稼ぎにベースメイクをしておいてよかった。おねーちゃんに勧められるままに買ったコスメを使い、おねーちゃんの前に立つに相応しい、最高に可愛いわたしに変身していく。


 アイシャドウは明るめで可愛い感じ、ラメ入りのを。マスカラはどんなのがいいだろう。チークは、アイブロウは。リップは一番お気に入りのやつ。後悔しないわたしになろう。


 おねーちゃんは、こんなわたしをどう思うだろう。


 可愛いって、思ってくれたら嬉しいな。


 揺れる車内でのメイクは意外と難しい。ここ一番のってなるとなおさらだ。ネイルが急に車を止めるまで、わたしはメイクに没頭していた。顔を上げると、まだ首都高の中にいる。


「渋滞ね。今日はやけに交通量が多いし、事故か何かあったのかも」

「何かもなにも、おねーちゃんのライブだよ!!」


 ナビを見ると、羽田トンネルを出たあたりだ。ライブ会場のZepp Hanedaまで、あとたった二キロちょっと。どくどく、と心臓の音が高鳴り始める。


 ここまでだ。車を降りる。風が少し強くて、海の臭いを運んでくる。


「送ってくれてありがと。アンタが友だちで良かったよ」

「今言われても、打算的にしか聞こえないわね」

「だね。だからまた言うよ。何回だって」


 思い切り笑うと、ネイルは肩をすくめた。


「この期に及んで不完全燃焼ほど格好悪いことはないわ。精々思い切りよく派手に散りなさい」

「ちょっと、わたしがそう簡単に負けるわけないでしょ?」


 パンと拳を掌に打ち付け、ネイルの激励に軽口で答えた。ドアを閉め、前を見据える。


 この道の先に、おねーちゃんがいる。


 愛が、わたしに進めと叫ぶ。いてもたってもいられなくなって、全力で駆けだした。

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