瑞木由花 18歳 秋8

 家に戻ってすぐ、ベッドで仰向けになる。何かするべきことも、する気力もない。眠気はないけど、寝不足気味で頭の芯が重たい。


 SNSで検索すると、昨日のことがトレンドに上がってた。早桜さんが言っていた動画は、多分ユーチューバー男が実況していた時のものだ。わたしがボクシングをやっていたことも炎上に油を注いでいるらしい。ジムと高校の名前まで特定されているから、どちらも苦情の電話が鳴り響いているだろう。本当に申し訳なくて、何もできないわたしが憎らしい。


 わたしへの誹謗中傷はもちろんだけど、エリカに相応しくないとか、イメージが崩れるとか、今後の仕事はとか、おねーちゃんへ言及する声も多くあった。わたしのしたことが、おねーちゃんが積み上げてきたものに傷をつけてしまうなんて。辛くなって、スマホを投げる。


 ぼんやりと時計を眺める。妙に体を動かしたい。朝のロードワークをしていないから体力が余ってるんだ。虚しいな。やる気も、やる意味も失ってるのに。


 時計を見ると、午前十時を過ぎている。ライブまであと二時間もない。


 扉を控えめにノックする音。お友だちが来てるわよ、とお母さんの声がした。


「入るわよ」


 宣言と同時に、わたしとおねーちゃんの部屋に踏み込んできたのは、ネイルだった。日曜なのに制服姿。驚いてベッドから体を起こすと同時、ネイルが扉を閉める。


「動画を見たわ。いっそ清々しいくらいに一方的だったわね。さすがは全国二位」

「……ネイル?」

「あの連中、どうやらエリカのファンというより、性的マイノリティに関する活動家みたいね。それも過激で悪質な。肉体は男性なのに、性自認を理由に許可なく女子更衣室を使用したり、通行人を囲んでLGBT法案の署名を無理矢理させたりして、他の性的マイノリティの支援団体からかなり疎まれているらしいわ。女子更衣室の件では逮捕者も出ていて、今は警察相手に訴訟を起こしているそうよ」


 そうなんだ。そんなやつら、やっぱりおねーちゃんに会わせなくて正解だった。少しだけ救われた気持ち。……いや、それはともかく。


「ネイル、アンタなんでここに」

「あなたのことが心配だからよ」


 まじまじと見つめる。そんな台詞、ネイルらしくなさ過ぎて。


「何よその顔は。意外なのはわかるけど、そもそも私を変えたのはあなたでしょうに」


 ネイルは断りもせず、わたしのベッドに腰掛けた。


「確かに私は、大抵の人間のことはどうでもよく、それ以外だって人間社会で生きる以上無下にできないだけの存在でしかない。それがわたしの世界観。でも、そうい

う損得勘定抜きに、どうでもよくない人がいたって、何の問題もないでしょう? だから、私はそんな自分を受け入れることにしたの」

「受け入れるって、そんな簡単に」

「簡単よ。諦めるとも言うわね。どうせ駄々をこねたって、自分の気持ちを嘘にはできないんだから」


 ネイルは淡々と言い切るけど、葛藤しなかったはずがない。だって、心配だからと宣言した時、ネイルが握りしめた拳は、震えていたから。


 ネイルだって、自分の変化を認め、受け入れるのは、怖かったんだ。


「……ネイル、酷いこと言ってごめん。アンタの言ってたこと、全部正しかったよ」


 そう思うと、するりと謝罪の言葉が出てきた。なのに、ネイルは首を傾げる。


「あなたが暴言じみたことを口にするのはしょっちゅうだし、私は基本的に正しいことを言っているわ。心当たりがありすぎて、何について謝罪されたのかわからないわね」


 このやろう。


「何その言い方。そもそもアンタ何しに来たわけ? 動画の感想言いに来ただけならもう帰りなよ」

「調子が出てきたわね。なら話しなさい。どうせあなたのことだから、私のような偏屈にしか言えないような隠し事でもあるのでしょう?」


 そう言って、バッグから取り出した本を開く。


 そっか、ネイルは、わたしに寄り添う為に会いに来てくれたんだ。ねえ、ネイル。それはもう人間味だよ。赤の他人なら生死すらどうでもいいのに、親しい人は転んだだけでも心配する。アンタは不器用なだけで、ちゃんと優しい人間だよ。


 それに比べて、わたしは。


 ぽつぽつと話し出す。おねーちゃんはみんなの望むエリカとしての役割を強いられてきたこと。ネイルの言うとおりなら、おねーちゃんはもう長くないこと。おねーちゃん自身も自覚してるのに、それでも歌うことを止める気がないこと。わたしにはもう止められないこと。


 そして、わたしの心のこと。


「キヨにいに、わたしはおねーちゃんに恋してるんだって言われたんだ。わたしがおねーちゃんを好きって思う気持ちと、他の人たちが家族を好きって思う気持ちは違うみたい。信じられないけど、でも、納得してる自分もいて、混乱する」


 ネイルがページをめくる音。相槌みたいに、一定してる。


「わたしはおねーちゃんと、手を繋いだり、抱き締めたりするだけじゃなくて、キスしたり、……その先のことをしたり、結婚式を上げたりしたい。初めてのデートの相手はおねーちゃんがいいし、キスの相手も、初めてをする相手だって、おねーちゃんがいい。それで、もしもそなったら、どれだけ幸せだろうって思っちゃうんだ。想像しただけでドキドキして、口にでもしたら顔が赤くなるのを抑えきれなくなる。天にも昇るような気持ちになれる。でも、そういうのは普通の姉妹じゃあり得ないらしいの」


 足を抱えて、膝に顔をうずめる。ベッドが軋む。


「知らなかった……。誰もそんなの教えてくれなかった。でも、じゃあ、この気持ちは何なの? 恋愛感情? そんなのおかしい。だって普通、血の繋がった家族に恋するなんてあり得ない。あり得ないけど、わたしのこの想いは幻じゃない。じゃあ何なの? 苦しいよ……」


 ああ、わたしは醜い。おねーちゃんの状態は一刻を争うってわかっているのに、考えているのは自分の気持ちのことばかり。そんな自分が恥ずかしくて、嫌で、でも止められなくて、考えているうち、時計の針が進んでしまうのが怖くて。わたしの心はぐちゃぐちゃだ。


「由花。こっちを向いて」


 なに、とネイルの顔を見る。


 わたしはネイルとキスをしていた。


「………………!?!?」


 思わずネイルを突き飛ばす。ぼすん、と弾んでベッドから落ちていった。


「痛いわね。何するのよ」

「それはこっちのセリフだよ!! なんでキスしたの!? 初めてだったのに!!」

「ガサツなくせにそういうことは気にするのね。あら、でも初めてはお姉さんとが良かったのだっけ? 悪いことをしたわ」

「いやそうだけどそうじゃない!! なにアンタ、まさかわたしのことが好きなの?」

「厄介な友人だと思っているわ」

「ならなんで!?」


 わたしにキスしたくせに、ネイルは何事もなかったかのようにベット座り直しやがった。


「あのね、キスは恋愛感情を伝える比較的メジャーな手段ではあるけど、恋愛感情そのものではないの。感情を排して見ればただの動作よ。セックスだって、友情や師弟愛を伝えるために行われることもあるのだから。キスしたからと言って恋愛感情があるとは限らないのよ」

「それで納得できるわけないでしょ!! じゃあアンタは何が伝えたかったの!?」

「ときめいたかしら? あなたがお姉さんとそうすることを想像している時のように」

「……いや、なわけないでしょ」

「なら、それでいいんじゃない?」


 いつもの無表情で、じっとわたしを見つめる。


「私とのキスで、ときめいたり幸福を感じたりしないのなら、あなたの名状しがたい感情は、キスという行動ではなく、お姉さんとすることに対するものよ。トクベツな相手へのものなの。恋に恋する乙女のように、行為そのものに憧れているわけじゃない。だから、あなたは自分の感情と向き合えばいいだけだわ」


 そんなこと言うまでもない。そう思って、ネイルはわたしの退路を断ったのだと気づく。


「……向き合ってきたよ。何度も自問自答した。けどわからない。わたしのこの気持ちは一体何なの?」

「知るわけないでしょう。人は他人の喜怒哀楽を見て、自分の感情の名前を知るしかない。怒っている人を見て怒りという感情を知り、または他人から怒りという感情の名前を指摘され、自分が抱いているものが怒りだと結論するの。それは、私が一番よく知ってる」


 ネイルは付箋もせずに本を閉じ、わたしを見つめる。


「だから、あなたの感情はあなたが定義しなさい。その結果が、例えどんなに罪深いものであり、世界中の人が非難するようなものであろうと、否定だけは、誰にだってできないわ」

「わたしが、決めていいの?」

「ええ。あなたの心は、あなたしかわからないもの」


 そう言われた途端、わたしの中にある得体のしれない感情が、とてもシンプルなものに思えてきた。多分、わたしはこの答えを知っている。それは……。


 時計が十時半のアラームを鳴らす。ライブ開始まで、あと一時間半。途端に現実に引き戻される。


「……ねえネイル、仮にわたしが答えを出せたとしても、おねーちゃんを止めることはできないよね。なら、意味はあるのかなあ?」

「あら、止めたいのなら、どうして止めに行かないの?」

「だって、そんなこと誰も望んでない。みんながライブを楽しみにしてる。おねーちゃんでさえ、このままだと先が短いってわかってるのに、ライブをやり遂げようとしている。それなのにわたしが邪魔をしたら、ファンはもちろん、おねーちゃんの気持ちまで踏みにじることになる。またわたしのワガママで、たくさんの人に迷惑をかけちゃう。そんなの、許されないよ」


 わたしはおねーちゃんが好き。この得体のしれない感情の名前は知らないけど、それだけは言える。そのおねーちゃんが選んだ答えなら、大切にすべきじゃないかと思うから。


「バカね。あなたがいつも、お姉さんに言っていることじゃない」


 ネイルは、なぜかどうしようもないおバカを見る目をわたしに向ける。


「周りのやつらがどう思おうと関係ない。あなたはあなたらしく生きればいい」

「……あ」


 目から鱗が落ちるようだった。


 それはわたしが、おねーちゃんにそうあって欲しいと願ったこと。わたしの中に、かくあれかしと染み付いていて、今の今まで見失っていた生き方。


 それでも、わたしは怖い。何が? おねーちゃんに嫌われてしまうのが。


「そ……そんな、ワガママなこと」

「気にする必要はないでしょう。他人がどう思おうと知ったことではないのだから、ねえ?」


 挑発的で意地悪な笑み。


 返す言葉もない。だってわたしは、そういう風に生きてきたから。


 じっと黙り込んでいると、ネイルがバッグを持って立ち上がった。


「話すべきことが尽きたなら、帰らせてもらうわ。邪魔したわね」

「ま、待ってよ。まだ答えが出てない」

「自分がどんな気持ちを抱えているのかわからない人間が、どうしたいのかなんて決められるはずがないでしょう。……つまり、あなたの心の正体さえわかれば、自ずと答えは出るはずよ」


 そこに正しさは不在で、どころか醜悪極まりないエゴばかりがあるのかもしれないけど、まあ感情論だから仕方がないわよね。


 そんな最後の台詞は、自分に言い聞かせているようで。


 わたしの不器用な友だちは、話を聞くと言っていたくせに逆に言いたい放題した挙句、返事も聞かずに帰っていった。

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