瑞木由花 18歳 秋7

 お風呂から上がると、わたしたちを豪華な夕飯が待ち構えてた。海が近いってこともあってか、とにかく魚介三昧だ。豪華な船盛ものどぐろの煮つけも、どれもほっぺが落ちるほど美味しかったけど、個人的ベストは初めて食べた卸したての本わさび。風味がすごいのに嫌味じゃなくて、三分の二はわたしが一人で食べちゃった。


 さっきまでのことは忘れた方がいい。そう思ったから、わたしはいつもみたいに元気いっぱいに振る舞った。おねーちゃんもそれに合わせてくれた。いつもどおりの、わたしたち姉妹のあるべき姿。


 胸が張り裂けて生まれた傷は、ぽっかりと口を開けたままだったけど。


 おねーちゃんのためになら、こんな痛みはいくらでも我慢できる。


 ぺちゃくちゃおしゃべりをしつつ夕食を終える頃には、深夜と言ってもいい時間帯になっていた。


 何でもいいから喋り続けた。そうすれば眠らないでいられるから。起きていれば、この時間がいつまでも続くような気がしたから。


 でも。


「そろそろ寝よっか。明日も早いし、ね」

「……うん」


 そう言われたら、止められない。電灯を落とすと、月明かりが差し込んでいた。


 それぞれのベッドで横になる。二つともぴったりくっつけてあるのに、一つが四人並んで寝られるくらい大きいから、おねーちゃんが遠い。そっと側に寄る。


「ねえ由花、ワタシ、なんで歌ってるんだっけ」

「……え?」


 おねーちゃんは、寂しそうな微笑みを浮かべ天井を見つめていた。


「自分が自分らしくいられる場所が欲しいから。そう言ってたじゃん」

「だよね。だけど、今はそうでもないみたい」

「……どういうこと?」


 その微笑みは、能面のように微動だにしない。


「ファーストライブをやってる時、会場中の人がワタシを応援してくれてるのを見て、思ったんだ。ワタシはこれで認められた。居場所ができたんだって。それはワタシの妄想じゃなくて、現実だった。ライブのあと、急に仕事の依頼が増えたし、動画の再生数はアップロードした途端信じられないくらいの勢いで伸びた。チャンネル登録者数は何十万って増えた。海外のテレビ番組からオファーが来た。世界中の人が、ワタシの背中を押してくれてるような気がしたよ。嬉しかったなあ……」


 知ってるよ、おねーちゃん。東京に移ってすぐの頃は、そうやってたくさん仕事のことを話してくれたよね。歌うのが楽しくて仕方ないって、声を聞いてるだけで伝わってきたよ。


「……でもね、気づいたんだ。みんなが応援しているエリカのワタシらしさと、ワタシのワタシらしさは違うんだって」

「……違うの?」

「うん、清純で、高潔で、公平で、性的マイノリティに希望を与え、LGBTのインフルエンサーで、歌で同じ立場の人々を救おうとする。それが、みんなのエリカらしさ」


 まるで聖人君子だね。そう言って、おねーちゃんは微笑み続けていた。


「だから、そんな風に振る舞わないと、ワタシはワタシとしてみんなから認めてもらえないんだ。少しでも本当のワタシを見せると、それは本当のあなたじゃない、もっと素直になっていいって言われるの。逆なのにね。ワタシはそんな大した人間じゃない。普通の人と同じ権利が欲しかっただけ。歌うのが好きで、それ以外できなかったから、歌っただけ」

「……それは、おかしいよ。そいつらはおねーちゃんに自分の理想を押し付けてるだけじゃん。そんな勝手なやつら無視すればいい。おねーちゃんはおねーちゃんらしく振舞って、おねーちゃんらしく歌えばいい。今までだって、そうやってきたじゃん」

「できないよ。ワタシはもう、たくさんの人の想いを背負ってるから。ワタシの歌を聞くために死ねないって人や、辛い日々の支えにしてるって人、ワタシ自身が生きる希望になってるって人までいる。いつの間にか、ワタシの歌が救ってたんだ。だから、その想いに責任を持たないと」


 言葉がでない。それは、おねーちゃんの振る舞いが気に入らなかっただけで、死ぬ人が出るかもしれないってこと?


 救われるのは、勝手だよ。でもその責任をおねーちゃんに求めるなんて。あまつさえ、自分の命を盾に取るような真似をして。


 許せない。……やるせない。


「でもその歌は、誰かのための歌であって、ワタシのためじゃない。誰かに求められるまま、望まれるまま動き、喋り、歌い続ける。このトクベツな体を使ってね。まるで道具みたい」


 胸が痛い。


 命や想いの尊さはわかってるつもりだ。背負わされたとはいえ、捨ててしまえばいいなんて言えない。仮にそうした結果何かが起きれば、おねーちゃんをさらに苦しめてしまう。


「そう思ったら、何だか疲れちゃって。だから、由花が逃げようって言ってくれたの、本当のワタシを見ていてくれたみたいで、すごく嬉しかったんだよ」


 その一言で、わたしは少しだけ救われる。本当は、救いたい側なのに。


「この体がおかしくなったのもその頃なんだ。子供の作ったプラモデルみたいに、体のあちこちがめちゃくちゃな性別の組み合わせになった。取れ始めたのは最近だけど、足の指はもう、この数日で一気に、ね」


 おねーちゃんが布団から右足を出し、浴衣の裾を引き上げる。夜闇にぼんやりと浮かび上がる足先には、もう親指しか残っていなかった。


 パチリと、何かが繋がった。


 ああ、やっぱりわたしはとんでもない馬鹿だ。


 ネイル、ごめん。アンタの言ったことは正しかった。


 ――Xジェンダー特有の精神障害は、性別の変化を繰り返すことで、自分の肉体を自分のものだとは感じなくなることによって起こる。


 ――何らかの目的の手段として肉体の変化を利用している場合、体を道具として扱っていくうち、本当に道具としか感じなくなり、精神が肉体をただの物として認識してしまう。


 ――症状としては、体の場所によって性別が異なるようになり、自分のものだと感じなくなった部位が、末端から熟れた果物みたいに取れていく。


 全部、今のおねーちゃんに当てはまってる。


 ということは。


 ――そして、肉体の道具視が生命活動に関係する部位にまで及んだ時、意識を失い、二度と目覚めなくなる。


 背すじが冷えた。


 嘘であってほしい。でも、わたしの願望だとしか思えない。事実、おねーちゃんの体はもうボロボロなんだ。足の指だけでたった数日。無事にライブを乗り切れるかもわからないし、たとえできたとしてももう先は長くない。そもそも生命活動に関する部位ってどの程度なの? 腕や足までは大丈夫? 本当に? わからない。わからない。ああ、わたしは無力で、無知だ。


「体調が悪い気はしないけど、ひょっとしたら、このままじゃ長くないのかもね」


 おねーちゃんがわたしの頬をそっとぬぐう。知らないうちに涙が零れていたらしい。


「もしもそうなったら、ごめんね。ずっと一緒にいたいって、さっき言ったばっかりなのに」

「……おねー、ちゃん」

「でもさ、こんな目に合っても、死ぬときは歌いながら死にたいんだ。ホント、どんだけ歌うのが好きなんだろ。バカみたいだよね」

「そんなことない。おねーちゃんは、立派だよ……」


 わたしの心臓が悲しく跳ねる。ああ、なんて儚くて素敵な笑顔だろう。


 わかってしまう。例え今、ネイルが教えてくれた真実を伝えたとしても、おねーちゃんは止まらない。


 そんなの嫌なのに、何もできない。


「……ねえ、おねーちゃん。一緒に寝ていい?」


 ただ、近くにいたいから。


 おねーちゃんは頷いて、布団の中に招いてくれた。妹だから、こんな甘えも許される。おねーちゃんのぬくもり。僅かに上下する左右非対称の胸。呼吸の音。整った横顔。長いまつげ。柔らかそうな唇。全部が全部何よりも大切なものなのに、わたしは一つだって守ることができない。


 おねーちゃんのために誰よりも頑張ってきたはずなのに、わたしは何一つ持っていなかった。


 だから、祈る。どうか、どうか、時間よ止まって。無能なわたしにでもできる唯一のこと。この穏やかな時間がいつまでも続きますように。そのためなら、命だって差し出しますから。


 気づいたら、おねーちゃんは眠っていた。わたしはその横顔をじっと見つめ続ける。止まれ。止まれ。時間よ止まれ。ずっと願い続けるつもりだったのに、そっと眠気が忍び寄ってくる。


 まどろみの底に落ちていく。






「由花、起きて」


 目を覚ます。おねーちゃんに肩をゆすられている。水平線の向こうがうっすらと白み始めていて、朝がもうすぐそこまで迫っていた。


 理解して、絶望に呑まれる。


「もう行っちゃうの?」

「これくらい早起きしないと、ライブに間に合わないから。あーあ、昨日の夕飯とってもおいしかったし、朝ごはんも食べてみたかったよね」


 おねーちゃんは喋りながら準備を済ませていく。ベッドから動かないでいると、由花、と名前を呼ばれた。クリーニングに出したはずの昨日着ていた服は、朝早いっていうのにアイロンまでかけた状態で帰ってきている。絶望的に素晴らしいサービス。無駄な抵抗だってわかってるのに、一秒でも引き延ばしたくて、のろのろ着替えた。


 受付を済ませて外に出ると、見覚えのある社用車が止まっていた。その傍で、眉間にしわを寄せた早桜さんと、心配そうな顔のお父さんとお母さんが立っている。後ろめたくて、目を伏せる。


 早桜さんは、わたしを見るなり目の端を吊り上げた。


「やってくれたわね。あなたがエリカの妹だってことも、エリカのファンを殴ったことも、ネット中に拡散されてる。動画付きでね。おかげで事務所側の声明を出したり苦情の電話に対応したりでてんてこまいよ。ライブツアにーの真っ最中に、どう責任を取ってくれるの?」

「……すみません」

「そもそも、ライブが終わった直後倒れたエリカに、二時間も車の運転をさせたってどういうつもり? エリカの体を一番気にしていたのはあなただったでしょう?」


 その通りだから、わたしはなにも答えられない。早桜さんがため息をつく。


「あなたはもうちょっと、エリカのためを思って行動する人間だと思っていたわ。でも、あなたはエリカのためを口実に、自分のやりたいことをしていただけだったのね。単なるワガママよりずっと卑劣」

「早桜さん、その辺で。ワタシも由花と一緒に旅行したかったんですから」

「……その場合は、あなた自身が慎むべきでしょう。自分の立場を考えなさい」


 おねーちゃんが謝り、じゃあそろそろ、と社用車に乗りこんだ。やだ、行かないで。死にに行かないで。運転席のドアを開けた早桜さんを呼び止める。


「あ、あの!! もしかしたら、おねーちゃんの体は、本当に危ないかもしれないんです!!」


 わたしはネイルから聞いたことを全部話した。きっとライブ続行を考え直してくれると信じて、寝起きで働かない頭も舌も、精いっぱい動かして。


「……それで? そんなものを信じろと? ばかばかしい」

「そんな、」

「あなたはエリカのためだと思い込んだら、嘘だって平気でつく人間だもの」


 ……そんなの、わたしが何を言ってもダメってことじゃんか。


 でも、そう思われたのは全部わたしの責任だ。……体から、ゆっくり力が抜ける。


 呆然としたまま、社用車を見送る。ああ、おねーちゃんが行ってしまう。


 追いかけようとするわたしの肩を、大きくてあたたかな掌が掴む。振り返るとお父さんが立っていた。目元に濃いクマを作ったお母さんも傍にいる。


「由花。帰るぞ。……そういうわけだから、今日から当分の間、家で大人しくしていなさい」

「由花が恵里佳を大好きなのはわかるけど、やっていいことと悪いことがあるのよ」


 逆らう気力は、わかなかった。

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