瑞木由花 18歳 秋6
おねーちゃんは去年の夏に運転免許を取っていたから、お父さんの車をこっそり借りることにした。行き先を決め、二人で出かけてきますって書き置きを残して家を出る。おねーちゃんはあんまり運転に慣れてないらしくて、珍しくおろおろしてるのが面白くって仕方がない。
「いやほら、ぶつけたら、さすがに悪いし」
「おねーちゃんの収入なら、痛くもかゆくもないでしょ」
「そういうことじゃないでしょ、わかってるくせに。……えっと、ウインカーウインカー」
なんでか妙にテンションが高くて、けらけら笑ってしまう。向き合わないといけないことも、話さないといけないこともたくさんあるのに、会えなかった時間を埋めるみたいに、とりとめのないことや最近の出来事を話し続けた。
車で二時間。空に星が輝くころ、温泉旅館に到着した。予想以上に高級そうで、暴れたり寝転んだりして服がよれよれのわたしは、少し気後れしてしまう。
「本当にここでいいの? ていうか、予約取れたんだ」
「問い合わせたら、当日キャンセルがあったらしくて。ラッキーだったね」
おねーちゃんはわたしの手を引き中に入ると、クレジットカードで支払いを済ませた。優しそうな仲居さんに案内され、部屋に入る。
和洋室で、大きなベッドが二つ置かれた寝室と、椅子とテーブルが設置されたリビング。ベランダの外は露天風呂になっていて、オレンジの暖かなライトに照らされ湯船から湯気が上がっている。その向こうには、夜の海と満天の星空。
「そういえば、由花はどうして温泉旅館に行きたがったの?」
「ああそれ? おねーちゃんはXジェンダーだってわかってから、温泉に行ったことがなかったでしょ? だから、部屋にお風呂が付いてる温泉旅館ならいいんじゃないかなって」
「そう言えばそうだね。でも由花ったら、いつもボクのことばっかり」
おかしそうに笑うおねーちゃんを見て、わたしの胸が温かくなる。
「ありがとね。じゃあ、夕飯は遅めにしてもらったから、先にお風呂に入ろっか」
おねーちゃんが服を脱ぎ始める。わたしはベッドに腰掛けたままその様子をぼうっと見つめていて、ふと、おねーちゃんの裸だ、って思った途端、心臓がドキドキし始めた。
でも、それはすぐにしぼんでしまう。
おねーちゃんがお風呂に入るため髪をかき上げると、右耳があった穴があらわになる。手袋を外すと、左手の小指と右手の中指が欠けていた。ユニセックスのブラジャーの下、綺麗なおわん型の胸と乳頭があるのは左だけで、右は絹のように光を返す肌があるだけ。足も、片方はたくましく、もう片方はしなやかだ。
服を脱ぎ、たった一枚のボディタオルをお腹に当てたおねーちゃんは、わたしの視線に気づくと、こちらに体を向けてタオルを外した。
「えい」
「わっ」
おねーちゃんの大切な場所が丸見えになって、でもそこはさっぱりしていて、排泄するための穴しかない。そして、そんなになっても、おねーちゃんの体はすごく綺麗で、魅力的だった。
「一番最初になくなったの。あの時はびっくりしたなあ」
「……おねーちゃん、やっぱりその体」
「大丈夫。でも、ファンの人たちや、早桜さんには内緒にしててね」
人差し指を立て片目をつむるおねーちゃん。それでいいわけがないのに、曖昧に頷いてしまう。
「由花も一緒に入ろうよ」
恥ずかしい、って思った。でも、おねーちゃんが首を傾げたから、それはおかしな感情なんだってわかった。咄嗟に頷く。いけないことをしているような後ろめたさ。
服を脱いでベッドに放る。体を洗うタオル一枚じゃあ、割れた腹筋も、盛り上がった肩も、ごつごつしたふくらはぎも、隠せない。おねーちゃんの綺麗な体と並ぶのが恥ずかしくって、入り口でもじもじしていると、おねーちゃんがくすくす笑った。
「何してるの? 体が冷えちゃうよ」
「……うん」
シャワーをして、体を流して、お風呂に入る。運転中とは打って変わって、無言になる。おねーちゃんの方を盗み見てしまうのは、体が心配だからなのに、なぜか視線を向けるたび、罪悪感のようなものがわたしの心をちくちく刺す。
二人で並んでお風呂に浸かると、波と湯船から溢れるお湯以外の音が消えた。何をするでもない時間。
大切な言葉をやり取りするなら、今だ。
「わたしね、今日病院でキヨにいに会ったよ」
「ああ、来てたんだ」
「おねーちゃんが言ってた人生のパートナーは、自分のことだってさ」
「うん、そうなんだ」
脳みそがぐわんと揺れる。否定してほしかった。
「仕事現場で出会ったんだ。企業の広報担当らしくて。あの年で新商品の宣伝を受け持ってたんだよ。すごいよね」
「……そう、だね」
「早桜さんには秘密にするように言われてたけど、どうせいつかはバレるんだから、由花にだけは話しておけばよかったな」
いいよ。わたしがキヨにいを嫌ってたから、気を遣ってくれたんだよね。
「……おねーちゃんは、あんなやつのどこがいいの?」
「うーん。ワタシを尊重して、大切にしてくれるところかなあ」
海を眺めるおねーちゃんの横顔を見つめる。お湯で火照って、つい見惚れてしまうほど色っぽい。わたしの視線に気づくと、イタズラっぽく微笑んだ。
「それに高収入だし、高学歴だし、性格いいし、身長高いし、顔もけっこうイケメンだし。すごい優良物件だよ」
「……でもあいつ、ロリコンだよ」
ゴクリと息をのむ。言った。言ってしまった。それで二人の関係が壊れてくれたらなんて、暗い欲望を抱く自分がいる。きっと二人とも悲しむのに。
おねーちゃんは、静かな笑みを浮かべてる。
「うん、知ってるよ」
「……え?」
「昔から何となくそんな気がしてたっていうのもあるけど、パートナーになろうって話をした時、話してくれたからね」
おねーちゃんが両手でお湯を掬う。指の空白からお湯が零れる。
「わかってるのに、どうしてパートナーに選んだの? ロリコンだったんだよ? 小さい頃のわたしたちに気づかないように、何かしてたかもしれないんだよ? 許せるの?」
「ワタシは、キヨにいはやってないって信じてるよ」
「……どうして?」
追求したって、きっと嫌な答えが返ってくるだけなのに。
「理由はないの。今のキヨにいを見て、信頼するって決めただけ。誠実で、紳士的で、理性的で、我慢強くて。キヨにいは今のワタシを好きなわけじゃないんだろうけど、絶対にワタシを大切にしてくれる。そう思わせてくれたんだ。だから、そんなキヨにいが、小さい頃のワタシたちに何もしてないっていうのなら、本当に何もしてないんだって、信じてるの」
「……でも、ロリコン、なんだよ」
「由花。キヨにいがロリコンなのは事実だけど、ロリコンってだけじゃないんだよ。……ワタシはXジェンダーだけど、それだけの人間じゃないように」
だから、パートナーになるのを受け入れたんだ。おねーちゃんはそう言って口元を緩める。嫉妬が心臓の底で渦巻き、理性を奪っていく。
……それなら。
それなら、わたしだっていいはずじゃん。
誰よりもおねーちゃんのことを考えてきた。誰よりもおねーちゃんを応援してきた。誰よりもおねーちゃんを支えてきた。わたしが、全部一番だ。
おねーちゃんを大切に思う気持ちは、誰にも負けない。
恋人じゃない、パートナーなら、わたしにだってなれるはず。
伝えてみよう。
この、未だに名前もわからないけど、おねーちゃんを誰よりも大切に思うこの気持ちを。
不意におねーちゃんがわたしを抱き寄せた。お湯の中で密着する。柔らかくて温かくて、いい匂い。顔を上げたら、唇が触れそうな距離におねーちゃんの顔がある。頬が熱い。心臓が高鳴るのを抑えきれない。
「懐かしいなあ。千葉に引っ越す前は、お風呂が小さいからって、こうやってくっついて入ってたよね」
「……ん、うん」
「十年後も、二十年後も、おばあちゃんになっても、由花とこうして一緒にお風呂に入れたらいいな」
急にどうしたんだろう。視線を向ける。
おねーちゃんは微笑みを浮かべてわたしを見ている。
おねーちゃんは微笑みを浮かべてわたしを見ている。
「……あ」
わたしは目を見開き、まじまじと見つめ返す。おねーちゃんの穏やかな笑みは変わらない。だから、気づいてしまう。
おねーちゃんはキヨにいがロリコンだって何となく気づいていた。
わたしの想いにも、気づいていたんだ。
でもおねーちゃんは、それを口にしちゃダメだって訴えてる。でないと、仲のいい姉妹のままでいられないからって。
どうしてそう思うの? おねーちゃんにはこの気持ちが何かわかってるの?
――伝えたい。
だって、このままじゃおねーちゃんはわたしを選んでくれない。
キヨにいじゃなくて、わたしを選んでほしい。
わたしはおねーちゃんの特別になりたい。
……でも。
おねーちゃんの腕の中は、あたたかくて柔らかくて、どうしようもなく心地よくて。
このぬくもりを失うのは、とても怖くて、寂しくて。
だから。
「うん。そうだね……っ」
胸が張り裂けそうなほどに痛くて、声がかすれてしまう。訳のわからない気持ちが嗚咽になって喉から漏れる。悲しくて、切なくて、苦しいよ。この気持ちは、一体なんなの?
わたしの頬をしずくが伝い、おねーちゃんの胸に落ちる。
わたしたちは、お互いを大切に思ってる。けど、この気持ちが届くことは、絶対にないんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます