瑞木由花 18歳 秋5
警察署に連行されたわたしを迎えに来てくれたのは、コーチだった。わたしが事情を話し、アイツらとお父さんたちを合わせたくないと頼んだからだ。お父さんたちにはコーチから説明してくれたらしい。
警察の人に、暴力はダメとか、法律がどうとかボクサーがとか、当たり前のことを叱られて、コーチと一緒に頭を下げた。休み明けに学校に連絡が行くようだ。停学で済めばいいと思う。
四人はそれぞれ打ち身や骨折をしているらしく、そのままあの病院に担ぎ込まれた。そっちへの対応は、場合によっては弁護士も絡むことになるから、現時点では未定らしい。
唯一救いだったのは、病院の受付の方が一部始終を見ていたこと。わたしを庇ってくれた上、先に突き飛ばしたのはあっちだと証言してくれたようだ。事情を聴いた警察の人も、わたしを叱る一方で同情もしてくれた。
警察署を出る頃には、午後五時を過ぎていた。何だか妙に体が重い。コーチがぶっきらぼうに言う。
「車に乗れ。オレの家族をお前がいた病院の傍にあるショッピングモールで待たせてるから、そこまでなら送ってやる」
「あ……はい」
助手席に座る。エンジンはかからない。由花、と名前を呼ばれた。
「お前、もううちのジムには来るなよ」
「……え」
「人を殴ったんだから当然だろ。入会する時に言ったはずだ。うちのジムは、例えどんな事情があっても、正当防衛以外の理由でジムの外で人を殴ったら、即退会だって」
言葉の意味が、じわじわ頭の中に浸み込んできて。
背すじが震える。
い、いやだ。わたしはまだボクシングをしたい。
「……で、でも」
「でもとかじゃねえよ!!」
コーチがハンドルを殴る。ようやくわたしは、コーチが本気で怒ってるんだって気づいた。
「いいか、これは絶対守らなくちゃいけないルールなんだ!! ボクサーが野蛮人ではなくスポーツ選手として生きるために、ボクシングが攻撃手段ではなくスポーツであるために、ボクシングに関わる人すべてが守らなくちゃいけないルールなんだ!! それを、お前は破ったんだよ!!」
「こ、コーチ」
「うちのジムにはな、色んな人が通ってる。健康のため、プロを目指すため、嫌味な上司に負けない勇気を付けるため、自衛能力を付けるため、親に勧められたから。本当に色々だ。その人たちだって、はらわたが煮えくり返ることやブチ殺してやりたいと思うことが、生きてたらある。けど、みんな我慢したり殴る以外のやり方で対抗したりしてんだよ。由花が辛い思いをしたことはわかってる。けど辛いのはお前だけじゃない。お前だけ許すわけにはいかないんだ」
額をハンドルに預け、コーチは項垂れる。
「……オレだって本当はこんなこと言いたかねえよ。ずっと期待してたんだから。由花はすげえ才能があるし、キツイ練習からも逃げねえし、いつか絶対とんでもない選手になると思ってたんだ。メンタル面では未熟なところはあるが、高校生ってことも踏まえりゃ誤差みたいなもんだ。プロデビューは余裕だろうし、日本タイトルだって狙えるだろうよ。世界って言っても笑えねえ。だからお前が望むなら、オレなんかじゃなくもっと有名なコーチのいるジムに紹介してやろうって、本気で思ってたんだ。それを、それをさあ、こんなつまんねえことで、全部パアにしちまいやがって……」
……ああ、そっか。ようやく、わかった。
わたしはあいつらを殴った時。将来の夢と、コーチの信頼を、まとめて失ったんだ。
いや、違う。わたしが選んで、捨ててしまったんだ。恩のあるコーチをどれだけ傷つけてしまうかなんて、これっぽっちも考えずに。
「……ご、めんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい!!」
ごめんなさい、ごめんなさい。額が膝に着くまで頭を下げて、何度も謝る。それだけじゃ全然足りないのに、それしかできなくて、涙がじわりと溢れてくる。
コーチは歯を食いしばり、乱暴にエンジンをかけた。
……もういいよ、やめてくれ。そう言われるまで謝り続けた。
ショッピングモールの前に来ると、コーチが電話をかけた。お嫁さんに到着したって連絡をしているみたい。
ここで車を降りたら、コーチとは永遠にサヨナラだ。
そう考えると寂しくなる。まだコーチに何もお返しできてないのに。何か、何か感謝の気持ちを伝えたい。カバンを漁る。今のわたしの持ち物で一番大切なものが、B5のクリアファイルに入れてあった。
「あの、コーチ」
「……なんだ」
「えっと、これ、明日のライブのチケットです。関係者席で結構いいところで見れますし、二枚あるので、良かったら」
本当はわたしの分と、仲直りの口実に引きずってでも連れていこうと思ってたネイルの分。けど、こんなことをしたわたしが行くなんて、お父さんとお母さんが許さないだろうし、アイツはどうせ嫌がるから。
「……悪い。オレは音楽とか興味ねえんだ。そんな貴重な物は貰えない」
「でも、お嫁さんが好きかもしれませんし」
「確かにアイツは音楽が好きだが、それがエリカの歌かは分からねえな。だいたい、」
「おとーさん!! おとーさん!! ……あれ、そのひとだあれ?」
不意に運転席の窓を叩く音がした。三、四歳くらいの小さな女の子が、女性に抱えられて覗き込んでいる。
「……娘さん、いたんですね」
「……嫁の更紗と、娘の愛莉だ。まあ、そういうことだから」
更紗さんはわたしを見ると、にっこりと微笑んで会釈してくれる。わたしが何をしでかして、せっかくの家族の時間を潰したのか、知らないはずがないのに。
固まっていると、コーチはため息をつき、じゃあ一応な、とチケットを受け取ってくれた。何を言えばいいのかわからないまま、車を降りる。コーチ、と呟いて、言葉が続かない。
コーチは家族を車に乗せると、エンジンをかけた。立ち尽くすわたしを見、視線をさ迷わせる。
「……ああ、まあ、アレだ。受験とか、頑張れ」
なにも答えられない。捨てられた小犬みたいに、走り去る車を見つめ続けた。
いっそ消えてしまいたい気分だったけど、お父さんたちが心配しているだろうし、重たい足を引きずって病院に戻るしかなかった。
病院の駐車場で、お父さんたちがわたしを待っていた。おねーちゃんは点滴を打った後、早めにホテルに戻って休むため、一足先に病院を出たらしい。
涙のあととか表情とかで、伝わることがあったんだと思う。お父さんとお母さんには、それほど怒られなかった。やっぱり明日のライブは禁止されたけど。
「あの人たちには、お父さんたちから謝っておいたから」
ああ、合わせたくなかったのにな。ただでさえヤバいやつらなのに、わたしのせいで酷いことを言われたに違いない。
「……ごめん」
「反省したなら、もう二度と人を殴っちゃだめよ? いい?」
お母さんに言われ、頷いた。
家に帰る車の中、窓の外に視線を向ける。
気づくのが遅すぎた。暴力を振るえば、こんなに簡単に大切なものを壊してしまうんだって。
反省はしてる。しすぎても足らないってこともわかってる。
でも。わたしはあの時、他におねーちゃんを守る方法を思いつかなかったんだ。
どうすればよかったっていうんだよ。アイツらを止める方法が他にあったの? それとも、何もせずおねーちゃんと会わせてやるのが正解だったってわけ?
……キヨにいなら、どうにかできたのかな。お金も仕事もあって、権力のある知り合いもいるらしいし。
ならやっぱり、おねーちゃんのパートナーは、キヨにいが正解なのかな。
いや、ダメだ。アイツにおねーちゃんを差し出すなんて、絶対できない。
それに、まずは明日のライブを止めさせないと。
家に帰ると、わたしはベッドに寝転がった。体はずっしりと重たいのに、神経は尖ってて、眠気はない。おねーちゃんを止めないとって、焦るのは気持ちだけで、何も思い浮かばない。そのまま何をするでもなく、天井を睨み続ける。
少し眠っていたのかもしれない。ふと気づくと、薄闇の中、枕元にぼんやりとたたずむ華奢なシルエットが目に入った。おねーちゃんだ。マスクをしてパーカーのフードを被って、不審者みたい。体を起こす。
「由花、ただいま」
「おねーちゃん? どうしているの?」
「本当はボク用にホテルを取ってもらってたんだけど、家の方が疲れが取れるからって早桜さんに無理言ったんだ。ここからなら、Zepp Hanedaまで車で一時間くらいだし、少し早起きすればいいだけだからって」
それより、とおねーちゃんが薄手の手袋をはめた手でわたしの額を弾く。
「人を殴ったんだって? あれだけ暴力はダメって言ってたのに」
「……ごめんなさい」
「いくらワタシの為でも、由花が暴力を振るうのは悲しいよ。ありがとうって言えないな」
辛そうに微笑んで。ああ、わたしはおねーちゃんまで悲しませたんだ。
わたしが塞ぎこんでいると、おねーちゃんの耳元から何かがポロリと落ちた。ワイ
ヤレスイヤホンかな、って反射的に手に取る。
おねーちゃんの右耳だった。
「……え?」
「あ。……とうとう取れちゃったか」
おねーちゃんのマスクが外れてた。一人称はボクなのに、女寄りの顔。苦笑してわたしの手から右耳をつまみ上げるけど、でも、待って。
体の欠損。血は出ていない。まるで、リンゴが木から落ちるみたいに。
どこかで、聞いたような。
「まあ、由花にならバレてもいいかな。でも、お母さんたちや早桜さんには内緒だよ?」
「内緒、って、そんなこと言ってる場合じゃないよ。耳が取れたんだよ? 病院に行かないと!!」
「お願い、由花」
まっすぐ見つめられて、わたしは言い返せない。
でも、このままじゃダメだと思った。体が取れるって、異常だ。こんな状態で明日のライブをやって、ただで済むはずがない。おねーちゃんを守らないと。でもどうやって?
焦るけど、何も思いつかない。いや、何かあるはず。わたしにもできることが、まだ何か。
「逃げよう。ねえ、逃げようよ」
……出てきたのは、妹としての、おねーちゃんへの甘えだった。
わたしが血反吐を吐いて培ってきたものは、何一つ役に立たなかった。
断られる。そう思った。
「いいよ。どこに逃げよっか」
なのに、おねーちゃんは、少し遠くを見て悩む素振りをした後、そう言った。
「お父さんたちには内緒ね?」
イタズラっぽく笑ってすらいて、だから、わたしたちは逃げ出した。
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