瑞木恵里佳 19歳 冬3
バレンタインのCMの収録は午前中だったから、遅めの昼食を済ませた後も仕事があった。
「ヘッドホンのCMと広告の依頼よ。いつもなら単なる打ち合わせはわたくしだけで対応するけど、今回はエリカにその場でヘッドホンの使用感のコメントをして欲しいらしいの。だから悪いけど、同席してくれる?」
微笑みを浮かべたまま、もちろん、と頷き社用車に乗る。
最近は、こういうタレントとしての仕事ばかりが続いていた。早桜さんを疑う気はないけど、自分は歌手だと思われているのか、不安になる。
歌の仕事がしたい。いや、何のしがらみもなく、楽しく歌うことができれば、それで十分。
そう思って、ああ結局、ボクは歌を歌いたいだけなんだなって自覚する。
でも、それは許されない。ボクはもう、ただの瑞木恵里佳じゃないから。
性的マイノリティの方々を支援する、みんなのために歌うエリカだから。
その目的は、ボクだけのものじゃない。我儘なんて、言えるはずがなかった。
打ち合わせは、依頼者側の大企業の一室で行われるらしい。早桜さんの運転で会社に到着すると、スーツを着た若い男性が入り口でボクたちを出迎えてくれた。
「本日はご足労をおかけし申し訳ありません。宣伝担当の斎藤です」
男性が早桜さんと名刺交換をする。背が高く中肉中背で、柔和で穏やかな印象。どこかで会ったことがあるような気がして、でも外見も雰囲気も、街中を歩いていたら何人もすれ違いそうなくらいありがちだから、気のせいだと思い直す。
簡単な挨拶を済ませ、会議室に通される。大企業らしく洗練されたデザインの、長テーブルと椅子が並ぶ一室。壁に設置された業務用ディスプレイが商品の概要を映し出し、ではさっそくと打ち合わせが始まった。
事前に渡された書類をもとに、詳細な内容を詰めていく。ボクはたまに意見を聞かれるくらいで、ほとんどは早桜さんが判断する。
担当者の斎藤さんは、要点を押さえつつ丁寧な説明を、終始穏やかな声音で行っていた。人の神経を荒立てないことに特化している感じ。聞いているだけでなんだか安心してしまう。最近眉間に皺がよりがちの早桜さんも、心なしかリラックスして見えた。
でも、どこかで聞いたことがある気がする。どこだろう。じっと見ていると、斎藤さんと目が合い、首を傾げられた。不躾だったかも。慌てて逸らす。
「エリカ、暇なら今のうちに新商品のヘッドホンを試していたら?」
引っかかるものがあるけど、我ながら挙動不審だ。大人しく早桜さんの指示に従い、ヘッドホンを手に取った。
打ち合わせが終わった後、斎藤さんに尋ねられるまま、ヘッドホンについて感想を言った。プロの歌手なのに、誰でも言えそうなことしか出てこない語彙力が恥ずかしくなる。もっと本を読もうと決意した。
それではと早桜さんが立ち上がり、ボクも慌てて続く。途端、めまいがした。男性の体の時は、女性の時よりも身長が伸びる分、血液が不足しがちになる。気づいた時には椅子をひっくり返して転げていた。頭と背中が痛い。普段は気を付けているのに、油断していた。
「ちょっとエリカ、大丈夫?」
早桜さんは驚いた顔をして、両手にカバンと試供品としてプレゼントされたヘッドホンを持ったまま、ボクの顔を覗き込む。答えるより早く、横から手が差し伸べられた。
「大丈夫ですか? 顔色があまりよろしくないようですが、ご気分が優れないようなら弊社の医務室にご案内させていただきますよ」
斎藤さんの手だった。躊躇いがちでおずおずとした手つき。拒絶されることを恐れつつも、そうせざるにはいられないのだろう。優しい人だなと思って、
強い既視感。何かがフラッシュバックした。
「……いえ、ただの貧血です。体質上、よくあるんです」
その手を取る。斎藤さんはホッとした表情を浮かべた。下から見上げるその表情が、ボクの中で遥か彼方の記憶と結びつく。
「……キヨにい?」
斎藤さんは目を丸くし、喜びと悲しみと、隠しきれない後悔が詰まった表情を、無理やり笑みの形に歪めた。
ワタシは早桜さんに無理を言い、近くの喫茶店で話をする時間を作ってもらった。自分の立場を自覚しくれぐれも誤解を招く行動はしないように、と再三釘を刺されるてしまい、友達の前でお母さんに怒られたような気分になってしまう。
「ワタシだってもう大人なんですけどね」
「十九歳でしたよね。いや、今年で二十歳ですか。時間が経つのは早いです」
少し気まずくなり黙り込む。女の体になり伸びた髪が耳に触れるのが気になり、髪をかき上げる。平日の昼下がり、喫茶店は何組かのお客さんがいたけれど、みんな自分たちのおしゃべりに夢中だった。
キヨにいの前にはコーヒーが、ワタシの前にはホットミルクが置かれる。カップを両手で包み込んだ。温かい。
「ボクに今回のCMの依頼をくれたのは、キヨにいがいたから?」
「いいえ。上から瑞木さんを推薦され、僕はそれに従っただけです。昔のよしみではなく、間違いなく瑞木さんの実力で得た仕事ですよ」
「だから、キヨにいだって名乗らなかったんですか?」
キヨにいという慣れ親しんだ呼び方と、仰々しい敬語が嚙み合わなくて、舌を噛みそう。
キヨにいはそっと首を横に振る。
「瑞木さんが気づかれてしまったら、名乗ろうと思っていました」
「気付かれて、しまったら?」
「僕はあなたに合わせる顔がないので」
「合わせる、顔?」
「それより、いいんですか? 今をときめくスターが、こんな喫茶店で僕みたいなのと二人きりなんて」
露骨に話を逸らされたから、触れられたくない、本心に近い言葉がこぼれたんだってわかった。久しぶりに会うキヨにいとは距離感がわからず、追求していいものか迷う。
「……大丈夫ですよ。キヨにいは仕事の依頼者で、ワタシは請負人。今も、仕事の話をしているだけです」
「悪い言い訳を覚えましたね」
キヨにいはワタシを見つめ、微笑んだ。顔つきはすっかり青くささの抜けた凛々しい成人男性そのものなのに、その眼差しは何も変わっていない。まるで小学生のころに戻ったような気分になる。まだワタシが何者でもなく、ただ歌うことが純粋に好きで、客席を埋め尽くす聴衆はいなくても、キヨにいと由花が聞いてくれれば満たされていた時に。
どうして急に会えなくなったの?
そう尋ねても、今のキヨにいには誤魔化されてしまう気がした。
「瑞木さんは、すっかり有名になりましたね。昔聞いていた歌声が、テレビから聞こえてきた時は、本当に驚きました」
「周りの人たちのおかげだよ。そうじゃなきゃ、ワタシは今も、」
今も、歌手どころか、歌うことすらできず、うつむいて顔を隠して、生きていただろう。
……数年ぶりに再会した相手に言うことじゃない。話題を変える。
「キヨにいこそ、一流企業のサラリーマンなんて、流石ですね」
「地味で真面目で面白みのない人間だっただけですよ。まあ、おかげさまで安定した職に着けています」
そして、優しくて誠実だった。
視線を落とす。言葉が続かない。昔は何も考えなくても会話できていたのに。もう十年近く会っていないのだから、話せることはたくさんあるはずなのに。
「瑞木さんは、何かお悩み事でも?」
思わず顔をあげ、まじまじとキヨにいを見つめる。穏やかな笑み。記憶の中でも、いつもキヨにいは微笑んでいた。その笑みは幼いワタシに安心感を与えてくれた。無鉄砲で天真爛漫な由花の面倒を見ている時でも、キヨにいが傍にいれば、何かあっても大丈夫って思えた。誰かに見守られていることの頼もしさを教えてくれたのは、両親と、キヨにいだった。
「最近、ワタシ自身には、何の価値もないんじゃないかって思うんです」
そんなキヨにいだから、話してみようかな、って思えた。
「ワタシを見る人たちが望んでいるのは、その人たちにとって理想の、都合のいいワタシであって、ワタシ自身ではないんじゃないかって」
例えばバレンタインチョコのCM撮影で、性別を指定されたこと。あの人たちは、男のワタシは望んでいなかった。
勉強して挑んだ性的マイノリティに関する討論番組では、カンペを渡された。必要とされていたのは、ワタシ自身の意見ではなく、ワタシが言っているという事実だった。
依頼されて初めてエッセイを書いたとき、とても楽しかった。日常の小さな輝きを書き留めているうち、世界までが輝きだしたようだった。すべて没になった。性的マイノリティとは関係のないことだから、らしい。何なら嘘でもいいと言われた。さすがに嘘はつけないので、些細な辛く悲しいことを誇張して書くと、ウケた。
世間が欲していたのは、Xジェンダーとして生まれたがゆえに、辛く悲しい人生を歩んできたけれど、その苦しみを乗り越え、自分の歌で同じ境遇の人たちを救おうとしている、そんなエリカだった。
まるで聖人だ。ウケるから、ワタシはそうなった。性的マイノリティの方々を応援したいという気持ちは嘘じゃないから、そのためにはウケて有名にならないといけないから、我慢しないといけないのだと思った。
「でもきっと、ワタシはただ、歌いたいだけだったんだと思います」
今さら、後には引けないけれど。
こんなこと、誰にも話せなかった。ワタシの歌と言葉に救われたというファンの方たちを傷つけたくないから。一緒に目標に立ち向かっていると思っている早桜さんを失望させたくないから。順風満帆な生活を送っていると思っている家族に心配をかけたくないから。
それでも、ワタシは誰かに話したかった。
そうしないと、たくさんの思惑と感情の中で、自分がどんな人間だったのかを忘れてしまいそうだったから。
話し終え、キヨにいの表情をそっと窺う。ずいぶん自分勝手な話をしてしまった。幻滅されたくはないけれど。
「そうですか」
キヨにいはそう言った。それだけだった。
「……それだけ?」
「僕に、あなたの選択についてとやかく言う権利はありません。個人的な感情も、持てません」
それは、ワタシに興味がない、どうなろうと知ったことではない、と言っているようなもの。冷たくあしらわれたのかと思ったけれど、キヨにいの視線は相変わらず優しいままで。ただ、ありのままのワタシを受け入れてくれたのだと思った。
ああ、この人の前では、ありのままのワタシでいてもいいんだ。
「はああああああ」
気づいた瞬間、全身の糸が切れたみたいに、椅子に座ったまま崩れ落ちた。抜けた力の分だけ、普段どれだけ周囲の人の目を気にして、神経を削って生きているかわかった。
それで理解する。きっと今のワタシに必要なのは、ワタシに何かを与えてくれる場所や人ではなく、社会生活の中で摩耗した心身を癒す時間と場所をくれる人なんだ。
ありのままの、我儘で臆病などうしようもないワタシが、ただ存在することを許してくれる人なんだ。
ワタシのスマホが鳴った。早桜さんから、歌の練習の時間が迫っているからそろそろ来なさい、とメッセージが来ていた。
「仕事に戻らないといけないので、そろそろここを出ませんか」
液晶画面を見つめるワタシを見、察した様子のキヨにいがそう言って立ち上がる。
「キヨにい、連絡先を好感してくれませんか?」
気づいたら、言葉が出ていた。キヨにいは、困惑の表情で、どうしてですか、と問うてきた。それはそうだ。キヨにいにとっては、十年ぶりに会った知人と旧交を温めただけなのだから。
「また、会いたいから。……会えませんか?」
このお願いがワタシのエゴだとわかっていても、キヨにいを困らせると理解していても、ワタシには、キヨにいが必要だった。キヨにいのような、ただ受け入れてくれるだけの人は、ワタシの傍にはいないから。
「……そんな顔をされては、断りづらいですね」
キヨにいは、苦笑してスマホを取り出した。
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