瑞木恵里佳 19歳 冬2


 セブンスクラウドの社長は、ワタシたちに直接会って話す機会をくれた。


 CMの撮り直しを拒否したい旨を伝えると、頭髪が後退した五十半ばの社長は、丸っこい体で社長室の椅子をギシリと軋ませ、デスクの対面に立つワタシたちを面倒くさそうに一瞥してきた。


「言うまでもなくこれは大手との大口契約で、契約解除によって発生する原状回復義務によってこちらも相応の負担を強いられるうえ、君個人では到底償えない損失が発生し、次回次々回あったかもしれない契約の機会までも水泡に帰すわけなんだけど、それを理解したうえで言ってるわけ?」


 社長は唾を飛ばす勢いでまくし立てる。ワタシは勢いに負けそうになって、足を踏ん張る。


「それは、申し訳ないと思います。けど、ワタシだって譲れません」

「いやいや、申し訳ないなんて一言で済ませられるわけないでしょ。大手とのコネと金だよ? 損失分、どうやって埋め合わせてくれるの? プランはある?」

「それをどうにかするのは、わたくしたちマネージャーの役目です」


 早桜さんが口を挟むと、社長の声が大きくなる。


「だから、どうにかじゃなくてプランを言いなよ、プラン。代替案もなしにで駄々こねて意見を通そうって、子供じゃないんだから」


 はあああ、と大げさにため息をつかれた。萎縮しそうになる心を奮い立たせる。


「社長。ワタシたちは、お金を稼ぐためだけに仕事をしているんじゃないんです。やりたいことや、夢や目標があるから仕事をしているんです。それがワタシにとっては同じ悩みを持つ人たちの支援であり、歌を歌うことなんです。……もちろん、仕事ですから、思い通りにいかないことがあるのはわかっています。つらく苦しいことがあるのも知っています。しかし、自分がこの仕事を選んだ根本的な理由まで、曲げたくはないんです」

「はいはい、性的マイノリティの方々への支援ね。すりゃいいでしょ。でもそれがこのオファーを断ることと何の関係があるの? そもそも、LGBTの支援だの性別に捉われないだの言うのなら、むしろオファー内容に性別の指定があっても異を唱えないべきじゃないの?」

「関係はあります。ワタシのような人が、どちらでもないことを受け入れられる、そんな世の中になって欲しいと思うからです」

「視聴者には契約書の中身は見えないのに?」


 言葉を失う。


「君たちの目的はさ、エリカの音楽活動を通じて性的マイノリティの方々を支援することなんでしょ? なのに聴衆から見えないところにこだわったって意味がないよね。自己満足のための口実にしか聞こえないよ。手段と目的、噛み合って無いよね?」


 反論、できなかった。


 そもそも、CM撮影の時、たまたま男だったから問題が発生したわけで、女だったら何事もなく終わっていたわけだし。


「それはっ、エリカの矜持の問題です!! クリエイターが自身の仕事にこだわりを持って何が悪いんですか!!」

「悪くはないよ。でもそれが自分以外の誰かのためなら、本当の意味でその誰かの役に立つようにすべきだろ? 今の様子じゃ、目的だのなんだのって御大層な理由を並べて、仕事を選り好みしているようにしか見えないよ」


 唐突に気づく。


 ああ、そうだ。ワタシは、ワタシが嫌だったから、一方の性別を指定する仕事を断ってきたんだ。


 それはつまり、ワタシは性的マイノリティの方々を支援するという目的を、私利私欲のために利用してきたということ。


 消えたくなる。


 なんて、浅ましい。


「社長!!」

「早桜さん、もういいです」


 自分の浅ましさを自覚した上で、依頼を断りたいと言えるほど、ワタシは図太くもあくどくもない。……せめてそうありたい。


 それに、大義名分を利用し私利私欲で仕事を選別してきたワタシには、当然の報いのように思えたから。


「わかった? わかったなら今後はこんな理由で仕事を選り好みしないこと。いいね?」

「はい。時間を割いていただきありがとうございました」

「全くだよ、本当に……」


 まだ何か言いたげな早桜さんを視線で制し、ぶつぶつと文句を言う社長に背を向け、社長室を出る。


「エリカ、本当によかったの?」


 社長室を出るなり、早桜さんに噛みつくような勢いで問われた。


「あの社長、チャンスだのプランだの手段と目的だの言ってたけど、要はあなたで儲けるチャンスを逃したくないだけよ? なにしろ、エリカが売れる前はライブのクラウドファンディングの宣伝費すらまともに落とそうとしなかったくせに、売れてからは休日がなくなるくらい勝手に仕事を取ってくる守銭奴だもの。まともに取り合っちゃだめよ!!」


 あんまりな言い方に苦笑する。そういえば今の社長は、前社長がワタシを採用した直後に社長になった二代目らしい。そのせいか、ワタシは活動を始めたばかりのころ、現社長から大分不遇な扱いをうけていたようだ。早桜さんはそのことを根に持っているようだけど、ワタシには自覚がなかったから、恨みもない。


 いや、きっと早桜さんが、ワタシに余計な心配をかけないよう、隠していてくれたんだろう。だとしたら、こういう話ができること自体、喜ぶべきことだ。


「でも、社長の言っていたことは正しいですし、ワタシしかできない仕事じゃなくても、先方がワタシを選んでくれたことは事実ですから」

「それは、そうかもしれないけど」

「それに、誰でもいい仕事でも、依頼者の印象に残れば、次はワタシじゃなきゃダメな仕事が来ますよね?」


 言いながら、それはないな、と確信した。誰でもいい仕事をする人は、そういう仕事をする人だと思われる。だから、そういう仕事しか回ってこなくなる。


 でも、そういうことにして、微笑みを向ける。笑顔の仮面を被ることは、ワタシがこの業界に入って最初に学んだことだ。


「……そう。エリカがそれでいいなら、その意思を尊重するわ」


 早桜さんはため息をつくと、スケジュール帳を確認した。


「……実は、先方はすでに場所を押さえているらしいの。撮り直しは前回と同じスタジオで、三日後の正午から」


 ワタシは穏やかに頷いた。


 せっかくの休みだし、今日は何をしようと考えたところで、もう半日が過ぎていることに気づいた。






 三日後の午前十時。バレンタインチョコの再収録のためスタジオに立つボクは、男の姿をしていた。スタッフには問題ないと説明してあるけど、まだ半信半疑の視線を感じる。


 撮影準備が整ったところで、ボクは歌い始めた。全身の輪郭が丸みを帯び、胸が膨らんでいく。


 ボクは、自分の意志で自分の性自認を選ぶことはできない。歌っている間は曲調に合わせ身体の性別が変化し続けるけど、それは自分の意志で起こしていることではない。


 けれど、男性でいる時間が長い歌と、女性でいる時間が長い歌は存在する。


 そして、十五秒程度の撮影なら、たとえ性自認が男性の時でも、歌の余韻が残る間なら、女性の身体を維持できる。


 だから、そのために、歌う。


 リテイクが入るたび、歌い。


 女になるたび、カメラを向けられ。


 変化を繰り返した肉体の負担が、激しい倦怠感となって体を蝕み始める。きつい。身体が男性へと戻るのが、当たり前なのに、今のボクは男性だと自認しているのに疎ましい。まるで砂漠の乾いた砂の山をひたすらシャベルで掘り返そうとしているような徒労。


 命くらい大切な歌を、性別を変える道具として酷使する。ああそうだ、ボクは道具。この行動にボクの意志は関係ない。ボクはただ、依頼者の期待に応えているだけ。


 だから、これはボクを否定しているわけじゃない。


 そう言い聞かせ続け、二時間が経ち。ようやく撮影が終わった。


 歌を歌うことを苦痛だと感じたのは、今日が初めてだった。

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