第三章 現実に背く

瑞木恵里佳 19歳 冬1

「あなたの大切なすべての人に。思いを伝えるチョコレート」


 スタジオでマイクにそう吹き込むと、少し間をおいて、オッケーでーす、と間延びしたスタッフさんの声が返ってきた。ふう、と深呼吸とため息の中間くらいの吐息が漏れる。


 ボクは今、東京渋谷にあるプレイスタジオで、一カ月後のバレンタインデーに向け、大手製菓会社から依頼されたCM撮影に参加している。


 アセクシュアルを公表しているボクが、バレンタインデーのチョコの宣伝をするのは不適格じゃないかと思わなくもない。けれど、曲がヒットし注目が集まっている今、テレビへの露出を増やすのは戦略的に正しいのは事実。それに加え、早桜さんに恋愛感情を持たないアセクシュアルだと公表しているボクが、バレンタインチョコのCMキャストを務めることで、チョコを渡すことへの垣根を下げられるんじゃないかと言われたから、引き受けた。


 なによりどんな形であれ、ボクの存在が認知されるほど、性的マイノリティの方々への応援につながる、らしいから。


「それでは動画撮影に移りまーす」


 ボクが使っていたマイクが撤去され、代わりにチョコレートを一箱渡される。クロマキー合成のための、四方がグリーンバックの撮影スタジオで、ぽつんと一人。


 台本には、チョコレートを一粒取り出し、口に含んで微笑むとだけ書かれていた。でも、動作は、角度は、方向は、その組み合わせはどうするか、綿密な打ち合わせが必要だ。何度もリハーサルし、そのたびに動画を確認し、詳細を詰めていく。


 撮影した動画を確認するコントロールルームのほうで何か問題があったのか、撮り直すごとに同じようなリテイクが繰り返され、たった十五秒の撮影に二時間以上もかかってしまった。


 若干以上の疲労を抱えつつ、表情に出さないよう注意し、スタッフさんに挨拶をしてスタジオを出る。廊下の外で待っていた早桜さんに、お疲れ様、とねぎらいの言葉をかけられた。


「すみません、思ったよりも時間がかかっちゃって」

「依頼者側で何かトラブルがあったみたいよ。エリカのせいじゃないわ。あなたの演技はとても良かった」

「ありがとうございます」


 笑顔で応じて、けれど、ちっとも嬉しくない自分がいる。


 ボクが認められたいのは、ボクの歌だ。どんなに演技がうまくなったって、それが何になるんだろう、と考えてしまう。


「これから歌のレッスンだけど、大丈夫そう?」

「もちろんです」


 これは本当。バラエティ番組に討論番組にCM撮影、エッセイの執筆まで依頼されている今、ボクがボクらしくいられる時間は、歌のレッスンだけだから。


「そう……無理はしないでね」


 社用車に乗り、早桜さんとセブンスクラウドの事務所へと向かう。

 





 誰もいないマンションの一室で目を覚まし、時計を見る。CM撮影から三日後の、午前六時半。歌手として健康を維持するため、ワタシは毎日この時間に起きる。


 顔を洗い、朝のランニングに行く前に今日の予定を確認する。今日は久しぶりの休日だ。なんとなく心が浮つく。と言っても、エッセイの執筆や同性婚に関する討論番組に向けての勉強のような、やるべきことはあるけれど。


 ランニングから戻ってくると、スマホにメッセージが届いていた。件名はバレンタインのCMについて。なんとなく嫌な予感。見たら連絡が欲しいと書いてあったから、すぐに電話をかける。一コールも待たずに繋がった。


『朝早くからごめんなさい。本当なら、直接顔を合わせて謝らないといけないことだけど、できるだけ早く伝えておきたくて』


 どうやら、嫌な予感は的中したみたい。


 早桜さんは、実はと、言いづらそうに口を開く。


『バレンタインチョコの撮影の件で、先方から撮り直しの要求があったの。その、バレンタインのCMなんだから、女性のエリカで撮影してほしいって』

「は、」


 なんだ、それ。


 だったら最初から、女性のタレントに依頼すればいい。


 だって、ワタシに依頼した理由は、最近売れているからってことだけなんでしょう?


 怒りよりも、虚しさが胸の内にじっとりと広がる。これだけテレビにラジオに書籍にと引っ張りだこにしてくれるくせに、ワタシの志はちっとも届いていない、そんな気がして。


「……早桜さん、ワタシ、こういう依頼は、」

『わかっているわ。そもそも事前に説明して契約を取り付けてあるもの。従う必要はない。……でも、報酬がいい仕事だから絶対にのがすなって、社長直々に……』

「ああ、なるほど」


 ワタシが性別の一方を指定する依頼を受けないことにしている。性的マイノリティの方々を応援するという目的のためだ。


 けれど、ワタシが売れ始めてから、セブンスクラウドの事務所は露骨に利益路線に売り方を変えた。性的マイノリティの方々を応援するという名目は形骸化し、とにかく大手の割のいい依頼を受けるようになった。それはエリカというタレントを高く売る一方、金さえ積まれれば節操なく送り出すという意味でもあり、エリカというタレントのアイデンティティは、収益以下の価値しかないと判断されたということだ。


 幸い早桜さんはワタシと志を同じくしているから、できる限り仕事を選んでくれている。でも、一介の社員に過ぎない彼女の権限では、会社の方針に真っ向から逆らうことはできない。


『わたくしの力不足ね、本当にごめんなさい』

「早桜さんのせいじゃないですよ。新人さんも入りましたし、先輩のワタシが頑張らないと」


 セブンスクラウドは、最近新たな歌い手をデビューさせた。その宣伝のための費用集めに躍起になっているらしい。上層部は、第二のエリカを、と息まいているらしいけど、そんなの誰に対しても失礼だと思う。


『だとしても、あなたというブランドに傷をつけるような依頼を受けさせるなんて、長い目で見たら絶対に悪影響しかないのに……』

「今までだって、ピンチはたくさんありましたよ。それをチャンスに変えてここまで来たんです。どうすればいいか考えましょう」


 けれど、そのピンチに立ち向かう勇気をくれたのは。


 不意に由花の顔が思い浮かんだ。あの子がこの話を聞いたら、そんなふざけたこと許さない、今すぐ社長に会いに行こうよと言い出すに決まっていて、躊躇するワタシや早桜さんは青々とした言葉と勢いで説得され、頭を痛めながらも童心に帰ったようなわくわくに胸を高鳴らせ、事務所に向かっていただろう。


 由花は、自分が信じる正しさに向けて、一直線だから。


 その姿には、周りを動かす力がある。


 ふと気づく。このところ忙しかったし、大晦日は紅白歌合戦に出場していたから、気づけばもう一か月近く帰省していない。


 なんだか、無性にあのマンションの子供部屋が恋しくなった。ビデオ通話は三日とおかずしているけれど、ワタシがいて、由花がいて、雑多な音楽機材とボクシング用品が乱雑に並んだ部屋の独特の空気は、液晶越しでは感じられない。


 家を出て気づいた。あそこはエリカという人間が育つうえで、不可欠な土壌だったんだ。


 だからかな。こういうことがあると、力尽きて、枯れてしまいそうになる。


 ……それでも、ワタシはワタシの道を選び、自立するって決めたから。東京で、新たな根を生やし、生きていくって決めたから。


『そう、だったわね。……ねえエリカ、わたくしではダメだったけど、あなたの言葉なら、上層部も耳を傾けてくれるかもしれないわ。戦ってみる気はない?』

「戦い、ですか」

『先方は、単に売れているからあなたに依頼したみたいだけど、顔がいいだけの女性タレントでも務まることを、あなたがする必要はない。わたくしはそう思う』


 早桜さんは由花みたいなことを言う。


 でも、事実だ。何かを変えたいと思うなら、声をあげないといけない。


 とはいえ、ワタシは由花みたいに、自分の信念に周囲を巻き込んで突っ走っていくような、不思議な引力は持ってない。


 けれど、それをできない理由にしたくなかった。


「今から、社長に会いに行きましょう」

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