大鳥嶺入留 17歳 冬
教頭の叔父さんが師走に相応しい忙しなさで、コートを着込んで家を出ていく。午前八時。冬休みに入り、学校がないと予定が空きがちな私は、トーストを齧りつつ形式的な言葉で見送る。
叔母さんも今日は出勤するらしい。だから今日は家に私は一人。都合がよかった。
約束の時間の十分前にスカイプを起動する。しばらくして画面越しに現れたのは、三十代にも四十代にも見える、坊主頭の大人しそうな男性だった。
『初めまして。山口大学教育学部学校教員……えー、心理学専修で教授をさせていただいている大野というものです。よろしくお願いします』
「大鳥嶺入留です。この度は年度末の忙しい時期にお時間を作ってくださり、ありがとうございます」
『いえいえ、ぼくも今日が楽しみでした。高校生に心理学に興味を持ってもらえるのは嬉しいですし、それもうちの卒業生が執筆した論文に関してなら、なおさらですから』
「そう言っていただけると幸いです。……ではいきなりですが、論文に関してお伺いします。あの論文は、どの程度正確なのでしょうか?」
大野教授は快活に笑った。
『失礼、論文は正確じゃないとだめなんですよ……、と言いつつ、この論文にはわからないとか資料不足という言葉がたくさん使われていますからね。まあ、それも仕方がないことですよ。日本で性的マイノリティが知られるようになったのはここ十数年ですし、その中でも不定性のXジェンダーはただでさえ数が少ないですから。しかも、性別が入れ替わるという特徴を隠すのではなく、積極的に利用している人となると、これは本当に見つからない。結果、サンプル数が少なくなり、原因が特定しづらく、断定できなくなるんです』
大野教授は手元にある論文をパラパラとめくっている。私が事前にURLを送付した、山口大学心理学専修の卒業生の論文だ。
「私の叔父の知人が、Xジェンダーの性別の変化を利用し大道芸人をしていました。以前その方のお葬式に参列したのですが、遺体の状態が気になり調べてみると、こちらの論文に上げられている方とまったく同じ症状だったんです」
『……メールで書かれていましたね。ご愁傷様です』
「いえ、その人は別にどうでもいいんです。ただ、私のクラスメイトの姉が同じく不定性のXジェンダーで、性別の変化を利用し歌手として活動しているんです。もしもこの論文通りになるのでしたら、私は、」
言葉がそこで止まる。だったらどうなんだ。私は他人に興味がない。どうでもいい。でも、それならどうして、私は私にとって何の利益にもならないことを調べているのだろう。
『なるほど。大鳥さんは友だち思いなんですね。素晴らしいことです』
「……友だち、思い?」
そんな言葉、人生で初めて言われた。あまりに私にそぐわなくて、口にするだけで歯が浮きそうだ。
『えっ、そうですよね? Xジェンダーについての資料は少ないですから、この論文にたどり着くまで、かなりの数の本や論文に当たったんじゃないですか? それで、執筆者へのアポイントが取れないから、代わりに所属していた大学教授のぼくへ連絡をくださったんですよね? そこまでやれるなら、友だち思いだと思いますよ』
確かに、苦労はしたけれど。
私にとって、由花は他人のはずだ。どうでもいい相手に過ぎないはずで、しかし私の学んだ常識が、これらの行動は親しい相手にするものだと定義づける。自分らしからぬ行動に不安を覚え、本来の私に矛盾しない合理的な理由を探す。
「……違います。私はただ、自分の興味関心が向くまま、知りたいことを調べただけです」
『ええっ、ただの興味関心だけで、ここまでしたんですか? 素晴らしい、それはすごく研究者向きですよ』
からかわれているのかと思ったが、大野教授は画面に身を乗り出している。本気のようだ。
『大鳥さん、もしも心理学に興味があって、大学に行かれるのでしたら、本格的に心理学を学んでみませんか? あ、もちろんうちの大学じゃなくてもいいんですけど、向いていると思います。いや本気で』
「将来、ですか」
唐突に示された選択肢に戸惑う。私にとって将来とは、なるようになるという達観となりたいようにはならないという諦観が混じり合い、漠然とした重苦しさを与えてくるものでしかない。自分が何かになれるとは欠片も思えず、とはいえ働かないわけにはいかないから働くのだろう、という程度。それでも教授の誘い心が揺れたのは、知りたい、と思ったからだ。
他人のことがどうでもいい。三年間共に過ごしたクラスメイトの名前がわからない。家族の死ですら胸が痛まない。両親を事故死させた相手と同じ屋根の下に暮らすことに抵抗を覚えない。私は、そうした自分の感性が異常だと自覚している。
私が本を読む最たる理由は、他の人間を観察するためだ。自分のどこがおかしいのか、他人を観察し、人の内面を描いた小説を読み、群体としての人間社会を観察し、僅かでも知りたいからだ。
それがわかったところで、こんな自分が変われるとは思ってない。ただ知りたいだけだ。自分とは何者かを、他人を通して定義したいだけ。
そんな私には心理学はうってつけのように思え、しかしただでさえわからない人の心を、学問として扱うことに、気後れする。
「……いえ、私には向いているとは思えません。私は人の心が、わからないので」
『あはは、本当の意味でわかる奴なんていませんよ。ぼくだってそうです。それに心理学は、心理の学問ではなく心の理学。統計、数学なんです。ほら、あなたが読んだこの論文だって、心に響く言葉はない代わり、グラフや表がたくさん書かれているでしょう?』
その通りだった。小説はいくら読んでも理解できないことがたくさんあるのに、論文だとすんなりと把握できたから。
答えに迷い黙り込むと、まあおいおい考えてみてください、と大野教授は話を変えた。
『それでは、論文の話に戻りましょう。こちらの、“不定性のXジェンダーの当事者の自己認識が不安定な場合に身体に影響を及ぼす、心身の乖離と自我の喪失、及び肉体の欠損について”ですが、まず大鳥さんのお友だちのお姉さんの状態について、詳しく教えていただけますか?』
それから一時間以上、私は大野教授に相談に乗っていただいた。
由花を友だちと呼ばれていることを、無意識に受け入れていることに途中で気づき、否定しないまま。
「……ありがとうごさいました」
お疲れ様です、と労われたが、本来はこちらが言うべき台詞だ。
『ところで、今日のお伝えした内容はお友だちに話すのですか?』
「……いえ。まだ未確定なら、余計なことを言って不安にさせたくありません」
『そうですか。では、こんなところでよろしいですか? また何かあったら連絡してください。心理学の話は大好きですので』
礼を言い、スカイプの接続を切る。
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