瑞木由花 17歳 夏4
約一カ月後の八月半ば。わたしはおねーちゃんと一緒に、新宿駅西口のユニクロ付近にある交差点前に来ていた。夏休み真っただ中の、お盆の帰省ラッシュを狙おうという早桜さんの作戦らしい。
開始予定時刻の午後五時まで、あと五分。すでに看板や三角コーン、音響機材は設置し終えている。それなりに通行人はいるけど、ここの利用者にとっては路上ライブはいつものことみたいで、予想していたほど注目されてはいない。
「ねえおねーちゃん、本当にその服でいいの?」
「目立つ方がいいからね。大丈夫、着ているものでワタシは変わらない、でしょ?」
緊張感のない笑み。今日のおねーちゃんは、なんとあの虹色の貫頭衣だ。初めてのテレビ出演以降、おねーちゃんが強かになった気がする。
「由花こそ、そんな服で大丈夫なの? ていうか、黒マスクとサングラスって」
「ボディーガードだからね」
さらに、おねーちゃんのスラックスとワイシャツを借り、髪の毛をオールバックにしているから、なかなか厳つくキマってると思う。
わたしのスマホが鳴る。別の場所で待機してる早桜さんだ。
『幸い、電車や新幹線の遅延はないみたい。エリカに予定通り始めて大丈夫って伝えて』
「もうやるんですか? 人、そんなに多くないみたいですけど」
『西口はこんなものよ。それに人が集まりすぎると、わたくしたちだけで対処できなくなるし』
今日のメンバーは、わたしとおねーちゃんと早桜さんと、機材の準備とかをしてくれたスタッフさん数名だ。なるほど、確かに。
『それに、人ならエリカが集めてくれるわ』
その言い方に、わたしは思わずにいっと笑ってしまった。
「了解です。……おねーちゃん、もういけそう?」
「ワタシはいつでも大丈夫。……じゃあ、お願いします」
おねーちゃんが視線を向けると、スタッフさんが機械を操作した。わたしが隅に移動すると同時、音楽が流れだす。
一曲目。おねーちゃんが選んだのは、buzzGさんのFairletale。それをchilliaさんという方がⅤY1ⅤY4というボカロでカバーした曲を参考に、さらにこのゲリラライブ向けにアレンジしたもの。おねーちゃんに見向きもしない聴衆の耳に届けるため、最良の曲を最適化したんだ。
イントロは穏やかで、甘く軽やかなメロディー。同時に紡がれるおねーちゃんの歌声もそう。けど、何かが違う。
まるで小さい頃に、お母さんに抱きしめられた時に感じたような、優しくて圧倒的な歌声。抵抗できず、しようとも思わない。ただわたしたちは、その力にそっと導かれるままに、その源へと……おねーちゃんへと意識を向けさせられる。
心が奪われる。ありがちなラブソングでしかないはずなのに、引き付けられる。
Aメロは繰り返され、二分を越え、じれったいほど長く続く。続けば続くほど聴衆が増えていき、歌声は届きづらくなる。だから聴衆は、今度は自ら、おねーちゃんの歌に耳を傾ける。……それが、おねーちゃんの狙いだとも知らず。
だってこれは、おねーちゃんに一瞥もくれない大衆の、目を覚まさせてやるための歌だから。
そうして無防備になった聴衆の心を、まとめて平らげてしまうんだ。
メロディーが途切れ、僅かな静寂。
――転調。
おねーちゃんの咆哮が駅を貫いた。あの細身の体のどこにってくらいの、とんでも
ない声量。もはや衝撃すら伴っていて、間近で聞いているわたしは皮膚が弾けたような錯覚を得る。激しいはずのBメロは、暴君じみたおねーちゃんの歌の前には従順な付き人にすら思えるほど。
その一撃で、聴衆はおねーちゃんに心を奪われくぎ付けにされてしまう。そうなったらあとはおねーちゃんの独壇場。時に荒れ狂うように激しく、時に消えてしまいそうなほどに儚いメロディーに乗せ、ひたすら恋を歌い続ける。うねりを打つように変化し続けるメロディーは、まるでいたずら好きな妖精のように、聞き手の心をどこまでも翻弄する。にやり、とおねーちゃんが笑った。手ごたえを感じてるんだ。
歌い終わった時、おねーちゃんの前には人だかりができていた。歌の衝撃から解放され、じょじょにざわめきが広がっていく。男よりになったおねーちゃんがマイクを握り直す。
『聞いてくださりありがとうございました。ボクは株式会社セブンスクラウド所属の歌手、エリカです。今日は皆さんにボクの歌を聞いてもらうために来ました』
わたしは慌てて立ち上がってボードを掲げた。おねーちゃんの名前と、事務所とクラウドファンディング先のQRコードが書かれている。大きくて意外と重たい。でも根性だ。
『ボクは十一月にライブを予定していて、そのためのクラウドファンディングを実施しています。絶対に成功させたいので、ぜひ協力してください』
すぐにカメラのシャッター音が聞こえ始めた。動画を撮影してるっぽい人もいる。わたしも映ってそう。マスクとサングラスで良かった。
『今日はあと三曲歌って帰ります。続きは、ライブ会場でお聞きください』
お淑やかににこりと笑う。傲慢なくらい自信たっぷりだけど、笑う人は一人もいない。
それが正しい自己評価ってことは、すでに証明されているから。
あと三曲は、おねーちゃんのファーストシングルからサードシングルまで。休憩を挟まず一息で歌い切ったはずなのに、なぜか周囲は満員電車みたいなすし詰め状態。エリアを区切る三角コーンが踏み倒されかけていて、観客の顔が大分近い。アンコールの声。電話が鳴る。
『もう十分よ!! 後ろに車を停めるわ、スタッフと機材は放置、エリカを守って!!』
「了解!!」
じりじりと押し寄せる聴衆の前に立ちはだかり、おねーちゃんを守る。まるで人の壁が迫ってくるみたいで、けっこう怖い。こういう時は、近い奴から順番に……、って今はトレーニングの時間じゃない。
伸びてくる手を払いつつ、少しずつ後ろに下がって時間を稼ぐ。ブレーキ音が聞こえ振り向くと、背後の道路にセブンスクラウドの社用車が停車していた。
おねーちゃんと一緒にガードレールを跳び越え、並んで後部座席に滑り込む。スタッフさんには申し訳ないけど、おねーちゃんの安全が一番大事だ。
おねーちゃんのゲリラライブを終えた後、わたしたちは早桜さんの好意で家まで送ってもらえることになった。早速SNSでさっきのライブのエゴサをする。
「ね、ねえおねーちゃん、すごい、トレンドに上がってるよ」
思った以上に反響が大きくて驚いてしまう。まさか、トレンド入りって。でも、おねーちゃんの歌に感動したってツイートばかりで、わたしは思わずニヤけちゃう。苦言もあるけど、それは人が集まりすぎて事故が起きそうとか、そういうのだ。おねーちゃんの性別の変化についての投稿も、天使みたいとか幻想的とか、肯定的なコメントがたくさんあって驚きだ。中にはXジェンダーについて説明してくれている人や、公式サイトへのリンクを張り付けてくれているファンの人もいた。
同じくエゴサをしていたおねーちゃんが、不思議そうに首をひねる。
「いくらなんでも早過ぎない? たった十分ちょっとのライブで、ついさっき終わったばかりなのに」
「……ねえおねーちゃん、テレビに映ってる動画が投稿されてるんだけど」
目を丸くするおねーちゃんの横にくっついて、再生する。アナウンサーの背後で、画面の端っこに人だかりができていた。ちょうど転調するところで、唐突に響いた歌声にアナウンサーが驚いている。
「お盆明けの夕方は、帰省ラッシュの撮影にテレビ局が駅前に来ることがあるの。上手く映りこめたわね」
「……早桜さん、ひょっとして、ボクが映るのを狙ってましたか?」
「まあ、そうなったらいいな、と期待していたのは本当よ」
鏡越しに肩をすくめられる。そこまで考えてるなんて、ちょっと尊敬した。やるじゃん。
「ふうん。ていうかさ、これはもう成功って言っていいんじゃない?」
「油断大敵。クラウドファンディングがどうなるかはわからないし」
おねーちゃんが苦笑する。確かにそうだ、ってわたしも笑う。
ふとおねーちゃんが視線を遠くに投げて、再びわたしに向けた。
「……ねえ由花、大事な話なんだけどさ」
「ん? ……うん」
「まだ、お父さんとお母さんにも話してないんだけど。ボク、ライブが無事に終わったら、東京に引っ越そうと思ってるんだ」
「え」
嫌だよ。感情がそう叫んだ。飲み込んで、どうして、って問う。
「まず、スタジオが近くなる。今より行き帰りが楽になるし、深夜の送迎でお父さんたちに迷惑をかけない。東京にいると色んなアーティストさんやプロデューサーさんと知り合う機会も作りやすいから、仕事のチャンスを掴める」
「……一人暮らしは、危ないよ」
「大丈夫、ちゃんといっぱい稼いで、セキュリティのしっかりした場所に住むから」
心臓が締め付けられる。おねーちゃんは遠くに行くだけで、いなくなるわけじゃないってわかってるのに。でも、大人になったら、いつか独り立ちする日が来る。おねーちゃんは、目標に向かって前に進んでる。それは、祝福するべきことだ。
「わかった。頑張って、おねーちゃん。わたし、応援してるから!!」
だから、笑顔。おねーちゃんはこれからたくさん頑張らないといけないんだから、わたしが心配を掛けちゃいけない。気持ちよく旅立たせてあげないと。
おねーちゃんは、柔らかな笑顔を浮かべると、わたしの頭をそっと抱き寄せた。
「……おねーちゃん?」
「ありがとね、由花」
おねーちゃんの匂いがする。我慢できたはずの気持ちが、わたしの中で膨らんでいく。
「由花がそうやってボクの背中を押してくれるから、ボクは勇気を出して前に進んで行けたんだよ。だから、ありがとう」
「……ううん、どういたしまして」
「でもね、ボクは由花のおねーちゃんだから。ワガママを言ってもいいんだよ」
なんで、そんなこと言うの。
せっかく、我慢してたのに。抑えられなくなるじゃんか。
「……じゃあ、週末くらいは、二週間に一回でいいから、忙しかったら月に一回でもいいけど、でもできれば毎週、帰ってきて欲しい」
「うん、ちゃんと帰るよ」
「……来月の全国大会、絶対優勝するから、応援しに来てほしい。でも、もしも負けたら、それは見られたくないから、最終日以外は来ないで」
「うん、絶対に行くね」
「……来年もだよ。忘れないでよ。約束だからね。わたしが二連覇達成するところ、見逃したら一生後悔するから」
「うん、絶対に見逃さないよ」
「……また原宿でおねーちゃんに服を選んでほしい。その時は、おねーちゃんのマンションでお泊りしたい」
「うん、素敵な服をいっぱい買って、たくさんお話ししようね」
「……できればだけど、五周年記念は幕張メッセ。地元でやるの。わたしやお父さんたちのために開催してほしい」
「随分先だね。頑張らなくちゃ」
「それから……」
たくさんあるはずなのに、言葉にならない。でもおねーちゃんは、わかってるよ、っていうように、優しく頭を撫でてくれる。
それが嬉しくて、寂しくて、涙が出そう。知らなかった、わたしってこんなに弱かったんだ。
でも、わたしはわたしだから。行かないで、だけは絶対に言わなかった。
クラウドファンディングは、なんと目標にしていた六百万円の五倍、三千万円を越える大成功だった。もちろんチケットは即完売。ライブに参加したいファンの要望に応えるため、YouTube liveでの生配信や映画館でのライブビューイングなどを実施することになったほどだ。
わたしが全日本女子ジュニアボクシング選手権大会で見事優勝を納めてから二カ月後、十一月のライブ当日。おねーちゃんが家族に関係者席のチケットをプレゼントしてくれたから、わたしたちは前列左下あたりの特等席に座れた。
ライブが始まり、ステージに現れたおねーちゃんは、それはもうキラキラしていた。お化粧も衣装もばっちりで、全部がおねーちゃんの魅力を引き出している。
目を楽しませる衣装替えもあった。今までだったら体の変化がわかりにくい服装を選んでたけど、これもわたしらしさなんだ、ってさらけ出すみたいに大胆な衣装。伸縮性の高い生地を重ね合わせて作ってあるらしく、抜群のプロポーションを最高に魅力的にしている。
そしてもちろん、歌はとんでもなく最高で。
そんなおねーちゃんを、観客は当たり前に受け入れていた。
胸が痛いくらい気持ちいい。なんて最高のライブだろう。ネイルも連れてくればよかったって、今さら後悔。叔父さんの友だちの友だちの葬式がある、って言うから諦めたけど。
四年前。おねーちゃんは虐められることが怖くて、自分を殺して生きていた。でも、自分が自分らしくいられる場所が欲しいから、勇気を出して歌うことにした。
動画を投稿して、少しずつ聞いてくれる人が増えていった。社会のほんの片隅に、おねーちゃんを受け入れてくれる場所ができた。
メジャーデビューをして、ファンが一気に増えた。シングルをリリースしたりテレビに出たり、積極的に活動を頑張って、動画投稿者の中ではそれなりに名を知られるようになった。
そして今。おねーちゃんのために振られるペンライトの海を見て、カメラの向こうにいるたくさんのファンを想像して、確信する。おねーちゃんは、ようやくこの社会、この世間そのものに自分の存在を認めさせたんだ。
身を守るため自分に嘘をつき、苦しんでいたおねーちゃんが、ありのままで、誰からも注目される存在になったんだ。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。もう隠さなくていいんだよ。歌う時の服を気にする必要も、街中で性別が入れ替わることも。自分が異分子だから排除されるんじゃないかって、怖がらなくてもいいんだよ。社会はおねーちゃんを受け入れたんだ。今度は社会の方がおねーちゃんに合わせて変化してくれる。
この世界は、おねーちゃんの居場所になったんだ。
「おねーちゃん、大好き、大好きー!!」
ファンの歓声に負けないくらい大きな声で叫ぶ。おねーちゃんはわたしを見ると、今日だけでもう何度目かの弾けるような笑顔を浮かべる。
「ありがとう!! ワタシもみんなが大好き!!」
天にも昇るような、サイコーの気分。
それから二週間後、おねーちゃんは東京に引っ越していった。
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