瑞木由花 17歳 夏3
期末テストとその返却が終わり、夏休みまで指折り数える頃になると、お昼ご飯は外で、なんていうのも暑さで難しい時期になる。
「あ、今日は教室で食べるんだ」
「ええ。あなたは一人で外で食べたら?」
またまたー、と聞き流し、わたしは当然のようにネイルの机に椅子をくっつけてお弁当を広げる。机の上を片付けてくれたので礼を言うと、汚されたくないからよ、といつも通りつれない返事だ。そしてやっぱりいつも通り、わたしばかりが喋り、ネイルは気が向いた時だけ相槌を打つ、会話と言うには偏った会話をする。
「そう。発情期なのね」
わたしが撮影の時おねーちゃんにメイクをしてもらって、可愛いって褒められたと自慢すると、ネイルが言ったセリフがそれだった。
「なんでそうなるのよ」
「あなたのそれ、単にお姉さんに褒めて欲しいだけでしょう? 本当はメイクじゃなくても何でもいいんじゃないの?」
「別に、何でもいいわけじゃ……」
だって、おねーちゃんはテストでいい点を取っても褒めてくれるけど、だからって勉強しまくろう、とは思わないわけだし。でもその違いは、なんでか言葉にしづらい。
「まあなんにせよ、ゲロ吐くくらい頑張ってよかったよ。ゲロ吐いてる映像は使わないでもらったけどね」
「その結果は芳しくないようだけど」
わたしは眉を顰めつつ、ふりかけご飯を噛み締める。その通りだ。PV自体はとてもいいものができたと思うし、動画の再生数の伸びも今までで一番らしい。ただ、それが新規ファンに繋がっていないようだ。インパクトはあったけど、おねーちゃんを知らない人の目に届くための工夫ができていなかったんだと思う。
「ファンを増やすには、まだ何か工夫が必要なんだ。ネイルは何かいいアイデアない?」
「どうして私が。関係ないでしょ」
「友だちじゃん。それに頭いいし」
「なった覚えがないわね。後者は事実だけど」
「毎日一緒にお昼ご飯食べてたら、もう友だちでしょ」
「あなたが一方的に付きまとってくるだけよ」
そう言いつつも、会ったばかりのころのように拒否してこないのは、お互いにこの時間が嫌いじゃないからだ、と思いたい。
「そもそも、あなたのお姉さんは、体質のせいで歌った時の体力の消耗が激しいのでしょう? ライブなんかして大丈夫なの?」
「あ、覚えててくれたんだ」
「あなたが聞きもしないのに何度も言うから」
不貞腐れた様子のネイルの頬をつつこうとして、手を払われる。
「なんか、ライブの時間とか回数、アンコールとかで調整するから大丈夫だってさ」
「……そう。何か引っかかってるのよね。何かしら」
ネイルは記憶を掘り起こすように頭を掻き、まあいいわ、と即諦めた。ホントあらゆることに興味がないな。
「ともかく、わたしにできるのは、学校内で叔父さんの権力にものを言わせることだけよ」
「宣伝費が厳しいって言ってたし、母校でタダ撮りするのはありかも」
「学校を舞台にしたものなんてありがちでしょう?」
「いやそうなんだけど、そこは問題じゃないと思うんだ。おねーちゃんは歌の上手さだけでそこらの歌手との差別化できてるんだから、あとは未来のファンに届ける方法なんだよ」
「多くの人がお姉さんを知る機会を増やせばいいだけじゃない。朝の情報番組にでも出演したら? わたしは見たことないけど」
「結局そうなるんだけど、それができたら苦労しないんだよ……」
会話が途切れた。ネイルはとっくにご飯を食べ終えてて、本を読んでいる。
「ねえ、ネイルが世間から注目されたいと思ったら、どんなことをする?」
「思わない」
「もしも思ったら、って聞いてんの」
「スカイツリーから飛び降り自殺。もしくは回転ずし屋で食べかけの寿司をレーンに戻す動画をSNSに投稿」
「発想が最低だよ。……でもまあ、そういうかんじだよね」
手っ取り早く有名になるには、悪いことをするのが一番だ。だって、まっとうなことで注目を集めるのは、とても難しいから。まっとうに生きるのは当たり前のことで、当たり前のことには、誰も目を向けない。
まっとうどころか、普通に生きるのすら、大変な人だっているのに。
「役に立たなくて悪いわね」
「欠片も思ってないくせに。でも相談に乗ってくれて嬉しいよ。昔はわたしのことなんてどうでもいいって言ってたから、余計にね」
「…………あの時は、興味がないと言ったのよ」
戸惑いがちに話を逸らされた。どうでもいい、って言われなかったことが、ちょっと嬉しい。
「一年以上前のことなんて、そんなにちゃんと覚えてないよ。次何をすればいいのか考えるので精いっぱい」
「能天気ね。あなたは進路とか考えて……プロボクサーだったわね」
「それだけじゃ食べていけないから、何か仕事はするつもりだけど。ネイルは?」
「……さあ」
弱々しい声。考えてみると、ネイルが将来何になるのかさっぱり想像がつかない。どんな仕事でもしれっとした顔でこなしそうで、でも向いてる仕事は何一つなさそう。
こういう踏み込んだことは絶対答えてくれないから、話を変える。
「ていうかさ、ネイルはわたしと話しながらよく本を読めるよね。頭に入るの?」
「いい加減慣れてしまったのよ。どこかの誰かが、私が本を読んでいても無遠慮かつ無神経に話しかけてくるから。わかってるでしょ」
何の気なしに聞いたつもりがそんな返事をされて、今度はわたしが戸惑う番だった。
ジムから帰ると、いつもと違いちょっと不穏な空気だった。リビングを覗くと、お母さんがお父さんの真っ黒なスーツにアイロンをかけていて、珍しくおねーちゃんがキッチンに立っている。男よりのおねーちゃんは、炒め物の入ったフライパンを軽々と振っていた。
「お母さん、何かあったの?」
「あら由花、お帰りなさい。斎藤さんって覚えてる? 引っ越す前に近所だった人」
「……ああ。いたね、キヨにいとかいうの」
クソ田舎の記憶だけでも最悪なのに、あのクズの名前を思いだすと、胸の中が熱くてどす黒いもので侵食されていく。
「由花、そんな言い方しないの。ボクたち、昔はよく一緒に遊んでもらってたじゃん」
「ゴメン、わたしキヨにいが嫌い。いくらおねーちゃんでも、こればっかりは譲れないから」
お風呂入る、と宣言して着替えを持って脱衣所へ。シャワーを浴び、マッサージにもなるからって言い訳して、仇みたいに自分の体を強く擦る。
湯船につかると、少しだけ冷静になれた。そういえば、その斎藤さんがどうしたのかを聞いてない。何やってんだわたし、すぐ冷静じゃなくなるんだから。
おねーちゃんの言うとおり、キヨにいには昔はいつも遊んでもらってた。けど、それはわたしが小学三年生のある時までの話。わたしがキヨにい拒絶する、おねーちゃんには絶対話せない秘密の理由が生まれるまでの。
初心を思い出すように、記憶を咀嚼する。
小学三年生の二学期。わたしとおねーちゃんは学校を終え、いつものようにキヨにいの家へ遊びに行っていた。わたしはおねーちゃんにかけっこを仕掛け、おねーちゃんが勝ちを譲ってくれてることに気づきもせずに一番になって得意になり、勝手知ったるキヨにいの家の裏庭に駆け込んでいった。
そこで、キヨにいとキヨにいのお父さんが焚火をしていた。キヨにいのお父さんは教師で、この時間に家にいるのは珍しい人だ。二人とも何とも言えない不穏な空気をまとい、能面みたいに無表情。ただならぬ様子に、小さい頃のわたしはつい物陰に隠れて様子を窺ってしまった。
燃やされているものが見えた。
その頃のわたしと同じくらいの女の子の体が描かれた漫画だった。
何をしている絵なのかはわからなかった。けど、見ちゃいけないものなんだ、ってことは本能的にわかった。それと、きっとキヨにいのものなんだってことも。
何だか怖くなったわたしは、追いついたおねーちゃんに見せないように、今日は家で遊ぼう、って言って無理やり引っ張って帰った。
翌日キヨにいの家を尋ねると、キヨにいのお母さんが出てきて、キヨにいは受験勉強に集中するからもう遊べない、って言われた。キヨにいとはそれっきりで、それから二年もしないうちに、都会の大学に進学していったって聞いた。
小学校の高学年になる頃には、アレがどういうことだったのかわかっていた。
キヨにいは、ロリコンだったんだ。
わたしたちは、いつもロリコンの家に遊びに行っていたんだ。
それが嫌いになった理由。いやらしいことをされた記憶はないけど、だから何だっていうんだ。面倒を見るって大義名分があったから、三人だけになる時間はたくさんあった。それにわたしが四歳の頃には遊びに行ってた。四歳児にバレないように、例えば盗撮をするのは難しいことじゃない。それ以外のことだってもちろんだ。わたしに至っては無駄にアクティブだったから、田んぼに突っ込んでパンツを見られたり、小学校に入るまでなら、キヨにいの前で泥だらけのシャツを脱いだりした記憶もある。
何より怖いのは。もしもわたしが見ていないところで、おねーちゃんに何かされていたとしたら。
そう思うだけで、わたしの心は恐怖と怒りと憤りでどうしようもなく震えだす。
あの視線を、声を、手のひらを思い出すだけで、虫が這いまわったように体中がぞわぞわして、視界が赤く染まる。
小さい頃の記憶だから、何もされていない確信はない。わたしたちは汚されてない、って保障してくれる人もいない。逆にキヨにいが何かをした証拠もないから、訴えることもできない。
ロリコンなんだから、疑いを持つには十分だ。なのに傷つけられたのかもわからないから、ただ心に、染みのような、痣のような、絶対に消えない何かが残されていて、内側から少しずつわたしの心を侵している。
時が経って。わたしは強くなったけど、わたしの心はキヨにいが残した何かに侵食され続け、それはいつの間にか、わたしを構成する根っこの一つになってしまっていた。
だからわたしは、ロリコンが嫌いだ。大嫌いだ。
キヨにいは、一番嫌いだ。
もちろんこんなこと、おねーちゃんには話せない。傷つけちゃうに決まってるから。これはわたしの、おねーちゃんへの唯一の秘密でもある。
お風呂で体をあっためて頭を冷やして、リビングに戻ると、夕飯の準備ができていた。お父さんは相変わらず遅いみたいで、席が空いてる。
「それで、キヨにいの家がどうしたの?」
ご飯を食べながら尋ねると、お母さんはわたしをちらりと見て、視線を伏せた。
「斎藤さん……キヨにいのお父さんね。亡くなられたらしいわよ」
「……へえ」
「お父さんはいとこだし、お葬式には行くらしいけど、由花たちはいかなくていいからね」
「うん、わかってる」
当然だ。あんなところ誰が行くもんか。
亡くなられたのはご愁傷様。けどキヨにいを育てたやつに情けはない。教師ならなおさらだ。
「おねーちゃん、クラウドファンディングの動画の話だけどさ……おねえちゃん?」
「うん? ……ああごめん、そういえば、キヨにいって今何してんのかなって考えてて」
もう、あいつのことなんてどうでもいいじゃん。
「今はおねーちゃんの話だよ。ネイルと話したんだけどさ、やっぱり注目を集めるのが大事だと思うんだ。で、どうすればいいか考えたんだけど、」
わたしの話を聞くと、おねーちゃんは形のいい眉をハの字に曲げた。
「……そんなことできるの?」
「ダメもとで早桜さんに頼んでみようよ。今からでもさ」
もう八時を過ぎてるけど、夜遅くまで二人で電話をしているところを何度も見たことがある。おねーちゃんは、あまり気乗りしなさそうな顔だったけど、食後に連絡をしてくれた。
「いえ、やりたいってわけじゃなくて、あくまで提案で、」
『そんな突拍子もない話無理よ。また妹さんに言われたんでしょう? 気持ちはわかるけど、もう入ってる仕事もあるわけだし、手間と負担が――』
早桜さんのイラついた声。おねーちゃんに断って、スマホをもらう。
「早桜さんこんばんは。無理を言ってすみません。でも、ちょっと考えてみて欲しいんです。これくらい、やる気ある人なら誰でもやってます。お金のかかる、難しいことをしようって言ってるわけじゃないんです。おねーちゃんの曲を聞いたことない人に届ける機会を作るだけなんですから」
『……確かに、聴衆になってくれた通行人に宣伝してもらうわけだから、場所を押さえる以外の手間は省けるけど、でも、他の仕事や手続きに時間がかかるし、スケジュールの調整や各所への依頼も考えると、正直気乗りしないわね』
「確かに大変だと思いますよ。けど、早桜さんがしたいことって、なんでしたっけ?」
ここが正念場だ。唇をなめる。
「早桜さんは、おねーちゃんの歌を魅力的だって思ったんですよね。おねーちゃんと同じ境遇の人を救いたいんですよね。それ、中途半端な気持ちで言ってるわけじゃないんですよね? なら、やりましょうよ。わたしも、荷物運びだろうが護衛だろうが、なんでもやります。おねーちゃんに見向きもしない連中に、一発カマしてやりましょうよ!!」
電話の向こうから深々とため息をつく声が聞こえた。
『……ああもう、そんなに煽らないで。いいわよやってやるわよ。わたくしだってまだ二十代だもん。夢も希望も叶えるためなら多少の無茶くらいしてやるわよ』
「やった!! ありがとうございます!!」
再びおねーちゃんに電話を替わる。二、三度やり取りして、電話が切れた。ふう、とおねーちゃんが一息つく。
「人通りが多い場所は倍率が高いから、最短でも二週間後、多分一か月後になりそうってさ」
「倍率が高いってわりには、意外と早くない?」
「東京にはヘヴンアーティスト制度っていうのがあって、それに登録してないと路上パフォーマンスを出来ないんだ。ボクは高校を卒業した後すぐに色んな活動ができるように、メジャーデビュー直後に審査を受けたから使えるけど」
おねーちゃんは、わたしの頭にポンと手を置いた。大きくて、ごつごつしてて、安心する。
「早桜さん、もう二日家に帰ってないらしくてさ。頑張ってくれてるんだから、あんまり無茶を言わないようにね」
わたしが知らなかっただけで、早桜さんも頑張ってるんだ。反省していると、でもね、とおねーちゃんが続けた。
「由花のそういうがむしゃらなところが、いつもボクの背中を押してくれるんだ。だから、ありがとう」
「……うん」
わたしこそ、おねーちゃんがいてくれて、ありがとうって気持ちなんだけどな。
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