瑞木由花 17歳 夏2

 おねーちゃんは早桜さんに頼み、うちのジムと交渉してもらったらしい。トントン拍子で交渉が進み、気付けば撮影日になっていた。


 スタッフさんが機材を持ち込み、セットしている中、軽いジョギングを終えたわたしは、準備運動とストレッチを済ませる。名前を呼ばれ顔をあげると、気まずそうな顔をした早桜さんが立っていた。


「何かようですか?」

「ええ。あなたという共通の知り合いがいたおかげで、話がスムーズに進んだわ。ありがとう」

「……わたしは何もしてないですけど、それは、どういたしまして」

「できるだけクリーンなビジネスを心掛けているつもりだけど、こういう時、持つべきものはコネだと思い知らされるわ」

「コネじゃなくて、信頼できる人間関係って言いましょうよ」


 でも、わたしみたいな年下の嫌ってる奴にも律儀に礼を言いに来る真面目さや、クリーンなビジネスを大事にしてるところは、好感が持てる。隠れてズルをするような奴は、おねーちゃんのマネージャーに相応しくないから。


 早桜さんがジムの会長に挨拶に行ったので、本格的なアップへと移る。ロープとシャドーをそれぞれ3セット。どちらも手を抜けばラクできるからこそ、この時点から絶対に集中力を切らさないのがわたしの鉄則。


 終わる頃には全身がしっとりしていた。でも、今日はもっとたくさん汗をかく。水分補給をしていると、おねーちゃんがじっとわたしを見ていることに気づいた。


「そういえば、由花の練習をちゃんと見るのって初めてかも」

「確かに。家ではロードワークとシャドーと筋トレくらいしかやらないもんね」


 興味津々なおねーちゃんの背後では、早桜さんとジムの会長が撮影の最終確認をしている。コーチは早桜さんが連れてきたアシスタントやカメラマンの方の質問に対応していた。


 あと少しで始めまーす、とアシスタントの人が言ったので、おねーちゃんにお化粧直しをしてもらう。今日は歌のイメージに合わせて、青春爽やか系のスクールメイク。やっぱり、おねーちゃんにしてもらった時の方が可愛くなれる。


「できた?」

「うん、可愛くなったよ、由花」

「っ、ありがと!!」


 やる気がむくむく湧いてきた。コーチにヘッドギアを被せてもらう。ミット打ちじゃ付けない人の方が多いんだけど、アマチュアなら試合でも使うし、うちのコーチは容赦ないから。


「由花、頑張ってね」

「もちろん、おねーちゃんの曲に負けない映像、撮ってもらってくるから」


 リングに上がると、コーチはわたしをまじまじと見てため息をついた。


「普段ゲロ吐きながら練習してる由花がめかしこんでるのを見ると、なんだか落ち着かねえなあ……」

「もう、いつもはメイクしてても何も言わないくせに、なんで急に」

「え、してたのかよ。気づかなかったわ。……あ、そのシャツも似合ってるぞ」

「フォロー下手糞過ぎです。あとこれ宣伝のために着せられたウチのジムのシャツでしょ」


 ふと見るともうカメラが回っていて、コーチなりにジムの宣伝を頑張った結果だと気づく。ボクシングのテクニックは十回戦ボクサーとは思えないのに、なんでこんなに不器用なんだろ。


「……やるか」

「はい、お願いします」


 壁に掛けられたタイマーのブザーがわたしの魂にスイッチを入れる。即座に基本姿勢、コーチの全身を俯瞰する。どうやら緊張していらっしゃるようなので、ガードを下げてぶらぶらと上体を揺らして見せた。テメエ、とコーチが口の中で呟き、いきなりミットをとばして来る。ダッキングで躱して、コーチの構えたミットに打ち込む。ズバン、といい音。


 コーチとのミット打ちはとてもハードだ。わたしが調子に乗りやすいからって、コーチはミスを誘ったり、隙を見つけてはミットをとばして諫めようとしたりしてくる。でも、そんなことをされたらわたしの闘志は燃えるだけ。だから髪の毛一本分の落ち度も見逃さないつもりでやるし、逆にコーチの予想を上回って、どんなもんだって鼻を鳴らしてやることもある。


 そんなんだから、めちゃくちゃ駆け引きをすることになるし、二人ともアツくなりすぎてミット打ちだかスパーリングだかわかんなくなる時がある。


「ッ!!」


 右こめかみに飛んできたミットをスウェーバッグで躱したつもりが、ヘッドギアを掠めて顎を上げさせられる。コーチはわたしに考える暇を与えるみたいに、アウトレンジからレバーにミットを構える。やってくれたな。


 前に出ようとすると、コーチはするりと逃げた。やっぱりステップがうまい。必死に追い、打つ。もっと足を使えってこと? 不意に跳んでくるミット。今度はきっちりガードした。


「由花、ヒットアンドアウェイを意識しろ。打たせず打て。アウトレンジから鋭く踏み込み一撃を入れてみろ」


 そういうことか。得意なインファイトは封印してやってみろってことね。了解。踏み込みを意識、基本姿勢を崩さず、地面を滑るように、けどダイナミックかつ大胆に、……こう!!


 ズバンといい音。わたしを無敵にする歌声は、とっくに頭のどこかから聞こえてきてる。


 終わってから、カメラのことなんてすっかり頭から抜け落ちてたことに気づいた。五ラウンドのミット打ちを終えて、汗だくでへたり込むわたしをカメラが映している。


「……じゃ、インターバル三ラウンドからのサンドバッグ三ラウンドな」

「コーチ、五で行きましょう」


 片眉を上げて、正気か? と問われる。青春爽やかって言ったら熱血と根性だ。適度な負荷で練習を終えるのはなんか違う。


「……まったく、好きにしろ」


 インターバルの間にアシスタントさんも一息つくようだ。軽く水分をとっていると、おねーちゃんが顔の汗を拭いてくれた。ついでにヘッドギアも外してもらう。


 あっという間に十分が過ぎ、サンドバッグの時間だ。ブザーと同時に全力で殴りつける。ただ漫然と打つだけではなく、相手の顎やみぞおちの位置を想定し様々な種類のパンチを打つ。更に自分の苦手なパンチを重点的に打ち込んだり、グラグラ揺れるサンドバッグ相手に小刻みにレンジを変え、どのタイミングでも的確に打ち込めるよう考えて動く。


 でもサンドバッグの目的は、ひたすら殴り続けることでスタミナをつけることにある。だから手抜きは絶対しない。ペース配分もない。始めから全力だ。ミット打ちで消耗した体をさらに痛めつけ、打てなくなっても打ち続ける。足りない、足りない、まだ足りない。限界を超えろ、閾値を上げろ。できることを増やせ。


 頑張れ、っておねーちゃんの声がした、もう、撮影中に無駄話は厳禁って、おねーちゃんが一番わかってるはずなのに。


「由花、足が止まってるぞ、動き続けろ!!」


 三ラウンド目。コーチに叱られ、力の入らない足を無理に動かしステップを刻もうとする。途端、膝から力が抜け、わたしはサンドバッグに寄りかかりながら倒れた。コーチの怒声。すぐに立ち上がる……立ち上がる!! もしも今がその時なら、寝ているわけにはいかないんだ。どんな時でも、戦い、守らなきゃいけないんだ。そのために、わたしは強くなりたいんだ。


 大丈夫、まだ頭の中でおねーちゃんの歌が聞こえてる。だったらわたしは無敵。いくらでも立ち上がれる。


 無駄にした時間を取り戻すように、サンドバッグにラッシュを仕掛ける。全身が乳酸で力が入らず、腹の筋肉が痙攣して内臓がひっくりかえりそうだ。五ラウンド目まで持つ気がしない。違う、後は気持ちだろ。閾値を上げるには限界を超えてからが勝負なんだ。


 いざという時、わたしがおねーちゃんを守るために。

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