瑞木由花 16歳 夏
七月の終わり。わたしは夏休みが始まったのをいいことに、昼過ぎから夕方までジムに入り浸り、クタクタになって家に帰った。明日の朝練に備えて、今日は早く寝よう。
荷物を置きに部屋に入ると、おねーちゃんがパソコンに噛り付いて何かを読んでいた。興奮してるのか、真っ白なうなじに赤みがさしてて、ちょっと色っぽい。
「ただいま。どうかしたの?」
「ゆ、由花、これ」
言われて画面を覗き込む。どうやらおねーちゃんの動画投稿アカウントに届いたメッセージのようだ。
その内容は、おねーちゃんを自分の会社からメジャーデビューさせたいという、つまり、スカウトだった。
家族会議の結果、おねーちゃんがメジャーデビューするかは、おねーちゃんの意思を尊重しようという結論になった。ただ、スカウトをくれた会社からデビューするかは、まずは一度話を聞いてから決めることになった。
その週の週末に、わたしたちはメールの住所とグーグルマップを頼りに、東京新宿にあるオフィス街へやってきた。
こういうところに縁のないわたしは、居心地の悪さを感じつつ、おねーちゃんと一緒にお父さんたちの後ろを歩く。
「着いたよ。ここの五階だって」
立ち並ぶビルの一つで、お父さんが足を止めた。芸能事務所だと思っていたのに、何の変哲もないビルで拍子抜けする。エントランスをくぐり、エレベーターに乗って五階へ。ようやくエアコンの効いた室内に入れて一息つき、受付を済ませると、事務員さんに会議室の一つに案内された。途中の廊下にはこの事務所からデビューした人のポスターが張ってあって、中にはわたしも名前を聞いたことがあるミュージシャンもいた。この中におねーちゃんが並ぶかもしれないと思うと、誇らしさとむず痒さが混じって口がふにゃふにゃする。
がらんとした会議室で、待たされること数分。わたしたちの前に二十半ばくらいのスーツ姿の女性が現れた。皴一つないスーツ、バチバチに決めたメイク。まさにキャリアウーマン。しっかりしてそうだけど、個性がない。
その人は横一列に並んで座るわたしたちの対面に座ると、生まれてから一度も失敗したことがありませんって感じの笑顔を浮かべた。
「株式会社セブンスクラウドの早桜仕草です。先日に連絡を差し上げました通り、この度はエリカさんのメジャーデビューに関するお話をしに来ました」
「はあ、メジャーデビューですか。それは、なんでまた」
「投稿されていた曲を拝聴し、エリカさんに素晴らしい才能と可能性を感じたからです」
それから早桜さんは、おねーちゃんの歌声がいかに優れていて魅力的か、もし自分たちと契約してくれたらどんな恩恵を得られるかを、長々と説明した。どこかで聞いたことのある台詞ばかりで、わたしは退屈で仕方がない。
いい加減飽き飽きしていたところで、ずっと黙っていたおねーちゃんが、静かに口を開いた。
「ワタシを選ばれたのは、あなたがALLY(アライ)だからですか?」
早桜さんはにこりと笑い、胸の付けてあるハート形で虹色のバッジを指さした。ALLY。性的マイノリティの理解者で支援者という意味だ。
「さすがよく見ていらっしゃいます。わたくしがLGBTを応援する活動に興味を持ったのは、大学の頃の友人がレズビアンだったことがきっかけです。その後、国際社会学を専攻していたこともあり、学んでいくうち意欲が高じて、LGBT運動最先端の地、アメリカへ留学しました。そこで生活するうち、日本では様々なものが不足していることに気づいたんです」
「……といいますと?」
ぐいぐい来る早桜さんに、お父さんが遠慮気味に相槌を打つ。
「多すぎて、さまざまなもの、としか言いようがありません。なにしろ、当事者やその周囲の人が感じている不満や憤りを一つずつ上げていくと、キリがないでしょう?」
お父さんたちは、今度ははっきり頷いた。わたしだって、転校前にクソ共にやられたことは忘れられない。
「それらを解決するためにも、今の社会には、エリカさんのような方が必要なんです」
「……どういうことでしょう?」
「こうした問題の多くは、理解のなさや誤解から生まれるものだからです。正しい知識を持ち、正しい対応ができれば、傷つく人はぐっと減ります。これらが社会全体に浸透すれば、制度や法律を変えることだって可能です。実際、アメリカではそうして同性婚などが認められてきたのですから。では、どうすれば多くの人に興味を持っていただけるか。インフルエンサーです」
早桜さんが身を乗り出す。社会に与える影響が大きな人、だったっけ?
「エリカさんには、Xジェンダーの歌手として、性的マイノリティのインフルエンサーになっていただきたいのです。エリカさんの歌には人の心を動かす力があります。性的マイノリティに悩む人たちは、勇気を持てるでしょう。マジョリティの人たち
には、マイノリティの側に目を向けるきっかけを与えることができるはずです」
冷めていくわたしと反対に、早桜さんの声は熱を帯びていく。
「エリカさんとXジェンダーは切っても切れない関係です。エリカさんが有名になることは、Xジェンダーが世間に周知されていくことと同じです。歌う際に体の性別が変化するという視覚的な影響力も合わせて、他のどんな有名人がするどんなことよりも、大きなインパクトを与えることができます。これはエリカさんしかできないことなんです。類まれな歌の才能と、Xジェンダーという個性を兼ね備えたエリカさんでしか」
早桜さんは、もうおねーちゃんだけしか視界に入っていない。
「エリカさん、あなたはマイノリティの希望の星です。Xジェンダーの歌手として、メジャーデビューをしてみませんか? あなたの歌声で、あなたと同じ境遇の方に勇気を与え、社会をより良い方向に変えてみませんか?」
おねーちゃんは何も言わない。じっとテーブルの一点を見つめてる。お父さんたちは、おねーちゃんの様子を窺っている。恵里佳の意見を尊重しよう、みたいな話を事前にしてあったのかもしれない。とにかく、わたしは不愉快だった。
「くっだんない」
吐き捨てる。早桜さんが笑顔の奥でわたしを睨んだ。睨み返すと、少し戸惑ったように見える。ボクサーが気持ちの強さで負けてたまるか。
「……妹さんよね? 何が下らないって思ったのかな?」
「全部です。インフルエンサーとか、マイノリティの希望の星だとか、同じ境遇の方に勇気を、とか。そりゃあおねーちゃんの歌を聞いた人が、勇気を貰うのも、希望を持つのも、影響されるのも、聞く側の勝手ですよ。でも、それはおねーちゃんには関係ない」
おねーちゃんの視線を感じる。それだけで、わたしは背中を押される。
「動画を見たならわかるでしょ? おねーちゃんは、おねーちゃんが歌いたいから歌ってるんです。自分らしく居られる場所を見つけるために、したいことをしてるんです」
だから、歌うのが好きって気持ちが溢れるほどに伝わってくるんだ。
「それが一番大事で、だから、まわりがどう思うとかを立派な言葉でごちゃごちゃ並べたところで、全部下んないんですし、どうでもいい。そんなもののためにおねーちゃんの行動が決められることなんて、絶対にあっちゃダメなんです」
「そんなものって、」
「早桜さん、アンタはおねーちゃんのことをXジェンダーの歌手としてしか見てないんですよ。違うでしょ。おねーちゃんはおねーちゃんです。瑞木恵里佳です。Xジェンダーも、歌手も、おねーちゃんが持ってるたくさんの素敵なものの中の、たった二つでしかないんです」
は、と笑いを吐き捨てる。
「自分が自分らしく、って、そのバッジをつける前に習いませんでした?」
早桜さんは、ハッとした様子で視線を胸に落とし、唇を噛み俯いた。
レインボーグッズはALLYの表明。LGBTQの理解者であること、支援者であること、正しい知識を持っていることの証明だ。でも、最近ではLGBTQIA+なんて言われるくらいに多様で複雑になっていて、だからこそ、その思想の根幹は忘れちゃいけない。
誰もが自分らしく生きられるように、人間として、お互いを尊重し合おう。
少しの気まずい沈黙の後、今までずっと黙っていたおねーちゃんが、ようやく口を開いた。
「由花、ワタシのために怒ってくれてありがとう。でも、下んないは言いすぎだよ」
「……ごめんなさい」
途端にわたしはしゅんとしてしまう。
「由花、引っ越してしばらくしたころ、お父さんがLGBTの講座に連れて行ってくれたこと、覚えてる?」
曖昧に頷いた。
「ワタシはね、あの講座で、大切なのは声を上げることだって教わったの。身の危険
を顧みずそうしてきた人たちがいたから、今の社会があるんだって知って、勇気をもらったの。だから歌おうと思った。そうして勇気を出して、ワタシは今、すごく幸せ」
おねーちゃんが微笑む。ああ、もう答えは決まってるんだ。なら、わたしは応援するだけ。
「だから、今度はワタシが、誰かに伝える番だって思うんだ」
「……おねーちゃんがそうしたいなら、わたしも賛成だよ」
おねーちゃんの視線が早桜さんへ移る。
「早桜さん、ワタシは由花の言うとおり、自分の好きな歌を好きなように歌っていただけです。こんなワガママで独りよがりの歌が、社会に受け入れられる自信はありません。あなたの言うようなインフルエンサーになり、商業的な活動をしていくこともです。ですが、やりたいことに関しては心から同意します。ワタシで良ければ、お手伝いさせてください」
「で、では、弊社と契約していただけるということで……?」
「はい、よろしくお願いします」
ALLYとして失格の言動をしたと思っている早桜さんは、ほっとした顔で書類を差し出してきた。お父さんたちがそれを受け取り、早桜さんが説明を始める。わたしがここにいる理由はなくなった。
やっぱり早桜さんのことは、おねーちゃんを利用されるみたいで気に入らない。でも、最高の環境と曲を用意してもらえるのだから、おねーちゃんにとっていいこと尽くしなのも事実。
決めた。気に入らないけど、歓迎しよう。信用できないけど、受け入れよう。
それから、おねーちゃんは週末になると東京に行くようになった。事務所専用のスタジオで、プロの講師からレッスンを受けているらしい。
おねーちゃんが管理していた動画アカウントは、セブンスクラウドの公式のアカウントになり、管理者権限は早桜さんに移った。ツイッターやインスタの公式アカウントも作られた。カバー曲の投稿は相変わらず続けていたけど、収録は東京のスタジオだ。動画の録音はもちろん、編集もプロがやるようになって、完成度が格段に上がった。カバーする曲は、おねーちゃんと早桜さんが相談して決めて、わたしはたまに意見を求められるくらいになった。わたしから曲を提案することは、早桜さんが快く思わないようだったので、そのうち止めた。
おねーちゃんの歌を一番わかってるのは、わたしなんだけどな。
でも、再生数は着々と伸びていった。歌も動画もシンプルに質が向上しているから、当然だ。
それがわたしは嬉しくて、でも、わたしの知らないおねーちゃんが増えていくのが、どうしようもなく、寂しい。
胸の中にあるもやもやの名前をわたしは知らない。
もう何度目だろう。ベッドに寝ころんだまま、動画を再生する。イントロと同時に流れる地の底から這い上がるようなおねーちゃんの歌声が、何度でもわたしの心をわし掴む。
契約から三カ月たち、つい昨日、おねーちゃんのファーストシングルが、YouTubeとニコニコ動画の両方にアップロードされた。
凄まじかった。おねーちゃんの歌を一番よく知ってるのはわたしだなんて、とんだうぬぼれだったと思い知らされた。
おねーちゃんが好きなボカPに依頼して作ってもらった曲は、おねーちゃんの音域の広さと表現力の豊かさを、緩急と高低のあるメロディーで引き出していた。選ばれた題材は社会風刺。世間に中指を立ててあざ笑う歌詞は、大人と子供の境目である高校生のおねーちゃんが歌うことで、鋭さと純粋さを増して尖り切り、聞き手を容赦なく突き刺して、刃こぼれし、その度に圧倒的な歌唱力によって研ぎ澄まされては再び突き刺し、返り血を塗り重ねていくようだった。
なんて、悍ましくて爽快な歌。
文句のつけようもなく、最高だ。
「由花、ボクのオリジナル曲、聞いてくれた?」
お風呂上がりのおねーちゃんが戻ってきた。男よりの低い声。お気に入りの藍色のスウェットと、ほんのりピンクの肌が対照的。笑顔を作って頷く。
「うん。サイコーだった。……ホントに、もう、ヤバかったよ」
「でしょう? 由花もやっぱりそう思うよね」
そりゃそうだよ。プロがおねーちゃんの為だけに作った、オンリーワンの一曲なんだから。わたしがどんなに探したって、こんなにぴったりの曲は見つけられない。
これからおねーちゃんは、この曲と同じくらい素晴らしい曲とたくさん出会い、自分の声で命を吹き込んでいくんだろう。
おねーちゃんの音楽活動に、わたしの居場所はもうない。
わたしは、おねーちゃんのために何ができるの?
「早桜さん曰く、エリカという歌手の可能性を示すために、セカンドシングルは指向
を変えて、ミルククラウン・オン・ソーネチカとか、ドライドライフラワーみたいな――」
大丈夫、おねーちゃんならどんな歌だって歌えるよ。わたしが、何もしなくたって。
「そうなんだ。もう今から楽しみだよ!!」
そう言って笑顔を作ると、おねーちゃんは嬉しそうに笑った。
「良かった。由花が応援してくれて」
「本当? でも、わたしはなにもしてないよ?」
「それでいいの、これはボクがやりたいことだから」
すとんと胸のつかえがとれた。そうか。わたしはおねーちゃんを受け入れて、認めていたら、それだけでよかったんだ。
そうだ、そうだった。わたしはおねーちゃんを守りたいんだ。けど、おねーちゃんをどうこうしたいわけじゃないんだよ。
わたしは、変わっていくおねーちゃんを見て、したいことを見失ってただけなんだ。
胸の奥から寂しさが消えたわけじゃない。今までの生活が大切だったから、変わってしまうのは悲しいよ。けど、これから訪れるもっと大切な未来を迎えるためには、お別れしなくちゃいけないんだ。
そういうことなら、この気持ちを受け入れられる。そう思った。
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