第二章 相思、咲き誇る

瑞木由花 16歳 春

「柏の葉中学から来た瑞木由花です。ボクシングをやってて、中三の頃はUJボクシング王座決定戦の45キロ級で優勝しました。高校での目標は、インターハイで優勝することと、卒業後に受ける予定のプロテストで、最低でもB級デビューできる実績を付けることです。喧嘩はしません。よろしくお願いします」


 教室中のわたしを見つめるクラスメイトの視線が、戸惑いと好奇心を帯びたものに変わる。我ながら印象に残りやすい自己紹介だとは思うけど、柏の葉中学から柏の葉高校に来ただけだから、三分の一くらいは知り合いだ。


 席に座り直したわたしを見て、中年の男の担任が、なぜか気まずそうに後頭部を掻いた。


「あー……、瑞木、多分それ、無理だ。すまん」

「え?」

 

 入学して三日もすると、クラスでのそれぞれの立ち位置が大体見えてくる。わたしは誰ともつるまず、かといって孤立もせず、性別やスクールカースト関係なく、どのグループとも適度に仲良くしていた。……たった一人を除いて。


「なんか、インターハイに出るには、その学校の部活を高体連に登録してないといけないんだけど、この学校にボクシング部はないから当然登録してなくて、その登録は今月末締め切りなんだって。だから、それまでに部員と顧問を見つけなくちゃいけないの。無理だよね。ただでさえ女子ボクシングは競技人口少ないのに」

「…………」

「で、それをジムのコーチに言ったら、そもそもインターハイに女子ボクシングは存在しないぞ、だってさ。担任に直談判までしたのに、そんなオチあり!? って感じ。ほんっと骨折り損。でも高体連の選抜大会とかには出られるらしいから、やっぱり部活動は欲しいんだよね」

「あのね、」


 昼休みの教室で、パタン、とネイルは読みかけの文庫本を閉じた。心の底から鬱陶しそうな目でわたしを見る。肩の下まで伸ばした黒髪に黒ぶち眼鏡なんて、いかにも優等生な見た目。そのくせ、周りの人間を動く消しゴムとしか思っていないから、初めて話した時はギャップでちょっとおののいた。


「私はあなたに興味がないの。だからもう絡まないでって、昨日も言ったわよね?」

「言われたね。ネイルは一晩でわたしの顔を忘れてたみたいだけど」


 昨日あれだけ話したのに、今朝声を掛けたら、どちら様? だもん。びっくりして大声が出たよ。


「でも、わたしはネイルと仲良くなりたいな」

「私のどこがあなたの琴線に触れたのかしら。改善するから教えて欲しいんだけど」

「そういうとこ」

「答えになってないわね」


 ため息をつかれる。そう言われても、そういうとこ、だ。説明できない。ただ大鳥嶺入留を見て話した途端、コイツとは友だちになるべきだ、ってビビッときた。ネイルのとっつきにくい性格がわたしの反骨精神に触れたからかも、孤立していることをまったく気に留めていないところが気に入ったからかもしれない。とにかくネイルと友だちになるって決めたんだ。


「じゃあ逆に聞くけど、ネイルはどういう人間なら興味を持つの?」

「いないわ。両親が車の追突事故で死んだときでさえ、こんなものか、って思っただけだったもの。両親の車に追突した叔母、今の義両親にも、特別な感情は抱いていないし」

「う、うわお、さらっと重い過去言ってくるじゃん。そういうのちゃんとタイミング計らないと友だちできないよ」

「できない方がいいから言っているのよ」

「まあわたしは友だちになりたいけど」

「本当にあなたは鬱陶しいこと以外取り柄がないわね……」


 ネイルのため息。なんか酷いことばっかり言われてる。ホント、わたしったらネ

イルのどこに惹かれたんだろ。


「そうだ、あなたは退学するべきよ。そしてプロボクサーになりなさい。中学の大会で優勝できるなら素質は十分でしょう? 高校に通う理由はなくなるし、あなたは夢の早期実現ができるし、私はあなたと縁が切れるし、万々歳じゃない」

「それじゃつまんないんだよ。そりゃ十六歳でプロテスト受けて十七歳でデビューってのが最短だけど、一度高校生の間に同年代のボクサーの中で頂点に立ってみたいの。それに、仮に最短ルートでC級デビューしたところで、四勝すらできない、素人に毛が生えた程度の格下と四試合もするのが面倒だもん。あと、ボクシングだけじゃとてもじゃないけど食べていけないから、どのみち就職は必須だし、最低でも高校卒業はしときたい」


 おねーちゃんを守る力を身に着けたくて始めたボクシングだったけど、わたしは純粋にボクシングが好きになっていた。自分の強さを試してみたい。強い相手を倒したい。そのためにトレーニングを頑張りたい。もちろん、初心はいつだって変わらないけど。


「色々考えてるのね。誤算だったわ」

「さてはわたしを馬鹿だと思ってるな?」

「それ、どうにかできるわよ。ただし、私にもう絡まないって約束できるなら」

「否定しないし……って、え、マジで!? なんで!?」


 思わず大声を出すと、ネイルは鬱陶しそうに眉をひそめた。


「ここの教頭が私の叔父なの。両親のことで私に負い目があるから、多少の無理は聞いてくれるはずよ。部員が三人いれば設立できるわ。私も入れてあと一人、どこかで見つけてきなさい」


 名案、なんだろうけど、よその家の家庭事情を利用するのはなあ……。でも、他に選択肢はないっぽい。あと一人は、おねーちゃんに頼んでみようかな。


「じゃあ、ネイルの優しさに甘えようかな」

「優しさではなく取引よ。私にもう話しかけないって誓ってちょうだい。後で反故にするのは無しよ。もしもやったら退部してやるわ」

「わかってる、わかってるよ」

「私は他人のことなんてどうでもいい。あなたたちには私にとってのモブAであって欲しいし、私も他人にとってのモブAでありたいの」

「ネイルさあ、なんでそんなに他人に興味を持とうとしないの?」

「それが私だからよ。周囲の人間の好意が気になって仕方ない人がいるように、私は周囲の人間に一切興味がない。生まれつきそうだった。今もそう。ただの個性よ」


 個性ね。じゃあ、ネイルはネイルらしく生きているだけなんだ。教室のど真ん中でこんなことを堂々と言っていることも相まって、いっそ清々しい。だから笑顔が浮かんだけど、ネイルに、救いようがない変わり者ね、と言われてしまった。アンタに言われたくないんだけど。


 さすがにちょっかい出し過ぎたかなと反省しつつ、ネイルを置いてトイレに向かった。






 ジムでの練習を終えて家に帰る。手洗いうがいをすませてわたしたちの部屋へ。スクールバッグを置き、真っ先にクローゼットに耳を押し当てる。


 防音シートを貼っていても、隙間から漏れる音までは消せない。耳をそばだてると、おねーちゃんの歌う声が微かに鼓膜をくすぐる。二年ちょっと前、初めて動画を上げた時よりさらに洗練され、表現力が増した歌声。トレーニングでへろへろになった心身が最高に癒される、至福の時間。


 おねーちゃんが動画を投稿し始めてから、もう二年半になる。今では、結構有名な歌い手だ。Xジェンダーという特異性もあるだろうけど、なにより歌のうまさが一番の理由。ネットでできた音楽仲間とコラボ動画を上げたり、即席バンドを組んだりもするようになった。最近だと、有名なバンドやアーティストにボーカリストとして招待され、おねーちゃんが歌った曲がはいったアルバムが電子限定で発売されたりしてる。


 おねーちゃんは、新しい居場所を手に入れた。


 次はなんの曲かな、って思っていたら、突然クローゼットが開いた。バランスを崩して中に倒れ込む。おねーちゃんの小さな悲鳴。


「由花、大丈夫?」

「あー、うん。ただいま、おねーちゃん」


 ひっくり返ったわたしを、おねーちゃんが心配そうな顔で覗き込む。わたしはぼうっと、おねーちゃんの顔に見惚れる。


 おねーちゃんは、綺麗になった。中学の頃の子供っぽい可愛さや格好よさに、大人の色気みたいなのが混じるようになった。でもまだ大人じゃない、思春期って感じのキラキラが溢れている。わたしと血が繋がってるのが不思議なくらいの、絶世の顔立ちとスタイル。つい見惚れちゃうのもしょうがないよね。


「聞きたいならいつでも歌ってあげるのに」

「練習の邪魔しちゃ悪いよ」


 体を起こす。そりゃあ聞きたいけど、おねーちゃんの歌は体力を凄く消耗するみたいだから、こっそり盗み聞くだけにしてる。


「あっそうだ。ねえおねーちゃん、ボクシング部作ろうと思うんだけど、幽霊部員でいいから入ってくれない?」

「ふふっ、幽霊部員なんて、悪い子だね」


 おねーちゃんは特に驚きもせず、いいよって言ってくれた。あんまりあっさり話が終わって、でも学校では中々会えないから、話題はたくさんある。


「次にカバーする曲決まった? これどうかなっていうの見つけたんだけど」

「ホント? 聞かせてもらおうかな。由花が選んだ曲なら間違いないし」


 もう、なんでいちいちわたしが喜ぶようなことを言うのかな。嬉しいな。


 ベッドに腰掛け、イヤホンをスマホと繋いで、片耳ずつ分け合ってつける。二人で

身を寄せ合いながら、小さなスマホの画面をのぞき込む。


「いいね。基本は男声だけど、ワタシなら編集すれば女声のバックコーラスも一人でできる。まとまりで他の歌い手と差を付けられる」

「でしょ」


 最後まで聞き追えると、また頭から再生する。集中して耳を傾けるおねーちゃんは、しばらくすると鼻歌を歌い始め、やがて歌詞を口ずさむようになる。わたしはおねーちゃんの歌声に、空いている方の耳を傾ける。


 この時間が大好きだ。

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