瑞木由花 13歳 秋

「ねえ由花、今暇?」


 十一月最後の日曜日。スマホで内藤大助選手の試合動画を見ながらステップをマネしていると、おねーちゃんがクローゼットから出てきて、緊張した顔でわたしの名前を読んだ。暇だけど、と返事する。


「歌を、録ろうと思うんだけど」


 スマホを落っことしそうになって、慌てて空中でキャッチした。


「う、うん。……あ、集中できないなら外出てよっか?」


 お姉ちゃんは首を振る。


「そうじゃなくて……。ワタシなりに練習して、納得いく出来になったと思うんだけど、心配だから、録音する前に由花に確認してほしくて」

「……え、わたしでいいの?」

「うん。最初に由花に聞いて欲しいの。由花が一番ワタシの歌を知ってるから」


 なにそれ、すごく嬉しい。


 それから、責任の重大さにヘンな汗が出てきた。頼られるのは嬉しいけど、音楽のことなんてさっぱりだ。


 てっきり録音済の曲を聞くんだと思ってたら、おねーちゃんはクローゼットに入り、中の機材を外に出し始めた。マイクとスタンドといくつかの機械が壁際に並べられる。


 おねーちゃんに招かれるまま、クローゼットの中に入る。


 そこは、おねーちゃんが吸って吐き出したものが充満していた。吐息だけじゃない、もっと他の、熱とか怒りとか苦しみとか生とか死とか、そういうのを何度も何度も四方の壁に叩きつけて、まき散らして、壁や空気にそれらが染み付いてしまったような、そんな場所。


 なんだか、おねーちゃんのお腹の中にいるような気がしてきて、落ち着かない。


 おねーちゃんがクローゼットに入ってきて、扉を閉めると、いよいよそんな気持ちが強くなる。天井からぶら下げられた蛍光灯はそんなに明るくない。


 一畳しかない空間で、わたしたちはすごく近い距離で向かい合ってる。歌っている間体格が変わってもいいように、ブカブカの紺色のスウェットを着たお姉ちゃんは、白さと細さが余計に際立ち、ほんのり光っているようにすら見えた。ああ、家族なのに、見惚れてしまう。


 ふふ、とおねーちゃんが笑った。


「覚えてる? 昔キヨにいの家でかくれんぼした時、一緒に押し入れに隠れて、そのまま寝ちゃったことがあったよね。キヨにいが真っ青な顔で見つけた時、由花は寝ぼけてあと五分って言ってたんだよ」

「……そうだっけ」


 なんでこんな時に、キヨにいの話なんかするんだろう。


 でも、妙な緊張は無くなった。


「そうだ、ここはけっこう狭いから、声量を落として歌おうか」

「え、いいよそんなの。大丈夫だって、昔は手を繋いで歌いながら歩いてたじゃん」

「それもそっか。じゃあ歌うね」

「なんて曲?」

「てにをはさんの、“ヴィラン”」


 あああれね、と頷く。おねーちゃんに時々聞かせてもらっていたから、どんな曲かは知っている。おねーちゃんがスタンドに載せたスマホを操作すると、イントロが流れ始めた。


 最初のワンフレーズで引き込まれた。なんて奥深くて多様で彩り豊かな歌声。声が綺麗なのはもちろん、表現力がとんでもなく高いんだ。


 そう気づいた直後、わたしは暴力の中にいた。


 声量が大きいわけじゃない。けど声に載せられた願いと想い、怒り憎しみ苛立ちあざけり、そう言った声以外のものが濁流のように押し寄せてきて、わたしを四方八方から殴りつけてくる。肌を叩き、肉を打ち、内臓を揺さぶり、脳で溢れかえる。まるで感情のるつぼ。音楽は全身で聞けるのだと今知った。いや、聞かされていた。この歌に聞き手への配慮なんて欠片もない。聴衆の五感を声で殴って無理矢理振り向かせ、屈服させ、縛り付け、聞かせる歌。


 ――なんてワガママで、乱暴で、眩しいほどの才能に溢れた歌なんだろう。


 おねーちゃんは止まらない。一畳のクローゼットの中で荒れ狂うエネルギーの奔流は、ワンフレーズごとに密度と複雑さを増していき、立体的な形とはっきりとした輪郭を得て、わたしに襲い掛かってくる。


 それは、おねーちゃんの生きづらさだった。理不尽な虐め、曖昧な差別と区別、呼び方への無理解、奇異の視線、カミングアウトへの不安、ジェンダー違和、“Xジェンダー”というラベルを通してしか自分を見てもらえないことへの不満。それらが、ぴったりの歌詞と共に、皮肉たっぷりの笑顔を浮かべてわたしに殴りかかってくる。そんなことどうだっていいだろ、ただ自分を見ろ、ここにいるんだ、オマエらのせいでこんなにも生きづらいんだ、自分らしく生きたい、居場所が欲しい、ワタシによこせと、叫んでる。わたしは受け止めることすらできない。ただ圧倒されて、打ちのめされて、立っていることすら辛くなって思わず一歩後ろに下がるけど、一畳のクローゼットだからそこはもう壁で、だから、ただただおねーちゃんの感情の化け物にもみくちゃにされることしかできない。


 なんてことだ。おねーちゃんはこんな怪物を胸の奥に抱えていたのか。


 曲が終わると、全身の力が根こそぎ奪われたみたいになり、立ってるのがやっとだった。じゃあ次の曲、とおねーちゃんが呟き、何とか踏ん張る。


 二曲目、柊キライの“ボッカデラベリタ”。


 さっきよりもずっと派手で殴りつけるような歌声が響く。高く繊細なビブラートを多用しながら、噛みつくように攻撃的。昔あっくんに殴られた時よりも、ミット打ち中にコーチのミットを躱しきれなかった時よりも、ずっと頭の奥まで揺さぶられる。信じられない。これが本当に人の出せる声なんて。


 それでも、一曲目で覚悟ができていたから、それに気づいた。


 おねーちゃんの体が変化している。男性と女性、その間に無限にある中間の存在に、目まぐるしく姿を変えている。まるで水面に写ったおねーちゃんの姿が、そよかぜで揺らいでいるみたい。もしくは、おねーちゃんの凄まじい歌声に体が耐え切れず、輪郭が崩れそうになっているような。


 そうか、これが表現力の秘密なんだ。声帯そのものの形を変え、歌える音域を増やすことで、他の人よりずっと多彩な音を扱える。同じ音程の歌を歌っても、男と女の声では感じ方が全然違う。ましてやその中間の声を好きな配分で扱えるのなら、とんでもない表現力の歌になるのも当然だ。


 三曲目。わたしの知らない曲で、傘村トータさんの“15歳の主張”というらしい。


 二曲目までとはうって変わって、バラードだ。わたしの人生、と何度もくりかえす歌詞が、おねーちゃんの想いそのままに思えて、悲しいメロディーの中に、生きていく決意と強さがあったから、気づいたらわたしはボロボロ泣いていた。


 おねーちゃんが歌い終えると同時、膝から崩れ落ちる。とっくに足に力が入らなくなってたのに、おねーちゃんの歌にはりつけに、釘づけにされて、立たされ続けていたから。


「由花、大丈夫?」


 おねーちゃんがわたしに手を伸ばしてくれる。歌い終えたばかりで、まだ体の性別が揺らいでいる。肩で息をしてとても疲れた様子だけど、それも今なら納得できる。手を掴んだ。ほっそりした手。あれだけ声を響かせていて、壊れないのが不思議なくらいの。立ち上がる。


「その……どうだった?」


 どうもこうもないよ。涙をぬぐって、笑う。


「わたし、こんなすごい歌聞いたことない。最高だよ。こんな小さなクローゼットに閉じ込めておくなんて勿体ない。皆に聞いてもらった方が絶対にいい。わたしが保証する!!」


 おねーちゃんはほっとした表情になる。


「由花がそう言ってくれるなら、安心かな」


 それからおねーちゃんは、後日改めて撮影と録音をした。何度もやり直したせいで終わるころにはヘロヘロになってた。頻繁な性別の入れ替わりはとても疲れるらしく、今回上げるのは“ヴィラン”だけらしい。


 それを編集し、曲と合わせる。その作業も防音部屋だった。そういう時、意味ないってわかっていても、わたしは極力音を立てないように生活していた。


 それから一週間後、わたしはおねーちゃんの初投稿に立ち会った。ニコニコ動画とYouTubeの両方に上げるらしい。


 動画は、クローゼットの中で歌っている姿を、胸から上だけ定点カメラで撮影したシンプルなもの。説明欄には、「エリカです。初投稿です。不定性のXジェンダーです。聞いてもらえたらうれしいです」とだけ書いてある。Xジェンダーを公表するのは、おねーちゃんが自分らしく生きるって覚悟の証だ。


「……じゃあ、上げるね」


 「エリカ」というおねーちゃんの名前をカタカナにしただけのアカウントを見つめ、二人して息をのむ。カチリ、という頼りないクリック音と共に、おねーちゃんは第一歩を踏み出した。


 画面を睨み、何度もページを更新して再生数を確認する。やがて1、2と再生数が増えていき、「うぽつ」というあいさつ代わりのコメントが付いたりして……、それだけだった。


「……まあ、初投稿だしこんなものかな」

「……だよね。しばらくしたらもっとコメントも増えるよ」


 ほとんど変化のない画面を、たっぷり一時間見続けて。何だか妙に疲れた気分で、わたしたちはパソコンを閉じた。



  ◇◇◇  



 うぽつ 00:4 2022/11/27


 なにこれCG? 体どうなってんだ? 00:32 2022/12/4


 Xって? トランスジェンダーと違うの? 00:35  2022/12/11


 歌めっちゃうまいな。お気に入り確定 01:32 2022/12/23


 ヤバい!! 上手い!! 01:38 2023/01/03


 見てると酔いそう。曲だけでいい。 02:12 2023/01/04


 取り合えず美形だとはわかる。歌も上手い 03:23 2023/01/05


 また新たな才能を見つけてしまった 03:10 2023/01/31

 

   

  ◇◇◇



 @user-sofuebr 三か月前 え、なにこれめちゃすごい!! 多分!!


 @user-nvafovu 三か月前 気持ち悪い。どうせすぐ消える。


 @user-vaerq 二か月前 わたしの友だちはトランスジェンダーです。すごくいい曲でした。今度聞かせてみようと思います。


 @user-aevou 一か月前 なんで埋もれてるんだろ。有名になれ!!


 @user-asfvvo 三週間前 ツイッターで紹介してきました!! 応援してます!!


 @user-vfvase 三日前 リピートしまくってます。新曲楽しみです!!


   

  ◇◇◇



 おねーちゃんの動画は、日にちを重ねるごとにコメントが増え、アカウントのフォロワー数も増えていった。


 それから何度か、おねーちゃんは新しい動画を投稿した。そのたびに、少しずつだけど再生数の伸びるペースも上がっていった。いっこうに鳴かず飛ばずなまま諦める人がいることを思えば、順調すぎるくらい順調だった。


 おねーちゃんの横顔を見る。キラキラした目で、新しく増えたコメントを読んでいる。


「ねえ由花、昨日上げた新曲、もういくつかコメントがついてる。投稿してくれてありがとう、だって」

「やったじゃん。まだ五曲目だけど、固定ファンはついたんじゃない?」


 おねーちゃんの歌が、顔も見えない誰かに受け入れられている。おねーちゃんが心の奥底に閉じ込めるしかなかった怪物が、世界のほんの片隅だけど、居場所を得ている。わたしはそのことがとっても嬉しくて、つい声が弾んでしまう。


 もちろん、酷いことを書く人だっている。でも、そんなやつらよりずっと多くの人が、おねーちゃんを受け入れ、評価してくれている。


「次はなんの曲を歌おうかなあ」


 楽しそうに呟く横顔を見ていると、わたしの頬まで緩んじゃう。


 おねーちゃんは、明るくなった。学校から帰るとすぐにクローゼットに入って歌の練習をするようになったし、早朝のロードワークでわたしに食らいついてくるようになったし、鼻歌を歌うようになったし、何より笑顔が増えた。でもそれは、周りの誰かじゃなく、おねーちゃんが自分で頑張った結果だ。


 おねーちゃんは、まだ小さな一歩を踏み出しただけ。おねーちゃんがおねーちゃんらしく生きられる世界には、まだまだ遠い。


 けどおねーちゃんなら、もっと遠くまで歩いていける。


 わたしは、おねーちゃんを応援したい。だってわたしは、おねーちゃんの歌が、お

ねーちゃんが、大好きだから。


 だから、おねーちゃんの邪魔をするやつは許さない。ヘビー級のチャンピオンだって、神様だって、倒して見せる。


 改めて、覚悟する。わたしは、おねーちゃんを何からも守る盾になるんだ。

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