瑞木由花 13歳 夏2
おねーちゃんが夕食を食べるのを止めて箸を置き、あのさ、と言った。ついにきたか、と箸を持つ手を握りしめる。
講座に行った日から二週間経つ。あの日から、おねーちゃんは思いつめた表情で考えごとをするようになった。何かあるんだろうなと思っていたけど、建築デザインの仕事で遅くなりがちなお父さんもいる今日か。
家族三人、おねーちゃんの言葉に耳を傾ける。
「ワタシ、歌を歌って、動画を投稿してみたいんだ」
ええ、と思わず声を上げそうになった。あれだけ歌うのを嫌がってたおねーちゃんが、自分から歌いたいなんて。しかもそれを動画にって、どんな心変わりがあったんだろう?
「……それは、どうしてかな?」
お父さんの声色は優しいけど、反対しているのは明らかだった。お母さんの視線も
厳しい。あ、あのね、と話し始めたおねーちゃん声は震えている。
「ワタシは、ワタシらしく生きてみたいの。今みたいに、目立たないように、怒られないように、変に思われないようにって、誰かの目を気にしながら生きるのは、もう嫌なんだ。だって……、それは、楽だけど、生きてて、楽しくない、から」
詰まりながら、喉の奥から吐き出すように、言葉を続ける。
「やりたいことはたくさんあるのに、何もできないのは、苦しいよ。……少しずつ、自分が死んでいくみたいなの。端っこから腐ってくみたい。それに、そのことに慣れていく自分がいて、いつか、自分が好きだったものや、大切だったものも忘れて、心が死んだまま、生きているんじゃないかって気がして、とっても怖いんだ」
おねーちゃんは可愛そうなくらい体を縮こまらせて、見ているこっちの心が痛くなる。思わずおねーちゃんの肩を抱きしめたくなった。
「……ワタシは、ワタシがワタシらしくいられる場所が欲しい。それは、多分海の孤島とかじゃなくて、たくさんの人の中で、認めて受け入れられることで、見つけられるものなんだ……と思う。だから、ワタシの歌を、誰にでも聞いてもらえるようにしたいんだ」
わたしは、やっと理解した。
柏の葉中学校に転校して、服装やトイレや着替えに配慮してもらえて、虐めもなくなったから、おねーちゃんは受け入れられたんだと思っていた。違ってた。それは、おねーちゃんではなく、おねーちゃんのXジェンダーが受け入れられただけだったんだ。
「自分らしく生きたい。それはわかったよ。いいことだと思う。けど、どうしてそれが歌の投稿になるのかな?」
「恵里佳、ネットに動画を上げて、名前や住所を特定されたらどうするの? 他の方法はないの?」
「それは、そうだけど……。それがワタシの、やりたいことだから」
おねーちゃんの声はやっぱり震えていたけど、でも、はっきりしていた。
両目がキラキラ輝いてて、生き生きしていた。
その顔を見たら、どんな不可能なことだって、やり遂げなくちゃいけないと思った。
「やろうよ」
みんながわたしを見る。箸を置いて身を乗り出す。
「個人情報なんて、気を付ければいいだけじゃん。やろうよ」
「誹謗中傷だってされるかもしれないのよ?」
「悪いこというやつらは悪いやつらなんだから無視すればいいよ。だいたい、わたしがボクシングをやるのは許してくれたじゃん。なんでおねーちゃんが歌を投稿するのはダメなの? 怪我もしないし誰も傷つけないんだよ?」
それを言われたら、みたいな顔でお父さんたちが目を逸らす。
「一番大事なのは、おねーちゃんがやりたいことをやることだもん!! だから絶対やるべきだよ!!」
結局最後の一言が決め手になったみたい。お父さんたちは顔を見合わせ、諦め顔でため息をつき、仕方がないな、って苦笑した。おねーちゃんとハイタッチ。
「おねーちゃん、なんでも手伝うから、遠慮なく言ってね」
許可を貰えた勢いでそう言ったら、おねーちゃんは首を横に振った。
「ありがと。けど、これはワタシがやりたくてやってることだから。由花には、見守っていて欲しい。何かあったら、頼むからね」
わたしは笑顔で頷いた。力になれないのは寂しいけど、これはおねーちゃんの戦いだ。ボクシングは、リングの上に味方はいない。けど、だから勝った時の達成感はサイコーなんだ。
その日から、わたしたちの部屋のクローゼットがおねーちゃんの歌唱部屋になった。中を防音シートで覆って、マイクにケーブル、スタンド、オーディオインターフェイスとかいう機械、録音や編集に使うパソコンを買ってもらってた。
そこで、おねーちゃんは歌の練習を始めた。歌だけじゃなく、録音機械の説明書や指南本を見ながら、宅録の仕方を勉強した。さらには、体力をつけるためにわたしと早朝のロードワークまで始めた。
そんなのが三か月も続いた。わたしは約束通り見守っていたけど、十一月も終わりに近づき、涼しさを通り越して寒くなると、いつ録るんだろうっていい加減焦れてくる。
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