瑞木恵里佳 13歳 夏
この体を脱ぎ捨てて、透明になってしまいたい。
「由花、立てる? 怪我はない?」
同級生たちが帰った後、ワタシは膝をつき、由花と視線を合わせて尋ねた。唇をかみしめ、ふるふると首を横に振る。そっと顔をぬぐってやり、腕を引いて草むらの中から立たせた。
おねーちゃんという体裁が、自分が何なのか分らなくなり、周りの人から否定されて、ぐずぐずに溶けて消えてしまいたいワタシを、辛うじて保っている。ワタシがおねーちゃんじゃなかったら、きっとここで座り込んだまま動けなくなっていただろう。
「ごめんね、痛かったよね。ごめんね」
だから、心配と謝罪の言葉が唇からぽろぽろこぼれて、そのくせ中身のないワタシの言葉は綿毛のように軽く、由花の心に届かない。声をかけるたび由花の涙があふれて、仕方がないので遠回りして家に帰ることにした。
「バッタが飛んでるね」
「夕焼けがきれいだよ」
「田んぼに斎藤さんちのおじいちゃんがいるよ」
考えたくもないワタシ自身のことを考えてしまわないように、些細なことに目を向け続け、意識をふわふわさせようとする。なのに、田舎の田んぼと畑と山だけの景色は、それすら許してくれない。
こういう時、昔なら由花の元気が出そうな歌を歌っていたなあと思い出して、それができなくなったのはこの心と体のせいで、だから、ワタシは自分が憎くて。
どうしてこうなってしまったんだろう。考えたって仕方がないのに、考えずにはいられない。
ワタシが自分の性別にはっきりと違和感を覚えたのは、小学校高学年に入ってすぐだった。
それまでにも予兆はあったと思う。戦隊ヒーローとプリティーキュアのどちらも好きだったり、やたらと男っぽいものを身につけたがったり、スカートをはくのがどうしてもいやな時があったり、ワタシという一人称がどうもしっくりこなかったり。一人称はいまだにどちらかわからなくて、カタコトみたいな喋り方になってしまう。
それが高学年の頃には自分の体への違和感へと変わった。ただそうした感覚は、ある時とない時が半々で、お洒落や女子トークを心から楽しんでる時もあったし、男になりたい願望があるとまでは思わなかった。
でも、周りの人にそれとなく探りを入れるうち、ワタシのような違和感を抱えていることがおかしいと気づいて、隠すようになった。
バレるのが怖くて、意見を言ったり、活躍したり、目立つ格好をしないようにして、注目を集めないようにした。歌を歌うのもやめたのも、それが理由。
幸い、誰にも気づかれずに生きてこられた。あの時、由花を熊から守りたい、ワタシに力があればと思うまでは。
ワタシが変身したのは、仮面ライダーでも魔法少女でもなく、男だったけど。
……だからきっと、理由はワタシがこの心と体で生まれたことで、それなら、どうすればいいの?
もう日が長い七月だっていうのに、家に帰るころにはあたりがすっかり暗くなっていた。遅い時間に帰ってきて、お母さんは何か言いたそうだったけど、由花の目の周りが赤かったからだと思う、二人ともさっさとお風呂に入っちゃいなさい、とだけ言ってくれた。
「いつも面倒を見てくれてありがとね、恵里佳」
お母さんの笑顔に応え、無理をして、いつものように笑う。違和感を持たれないように。一日中晴れていたのに、靴が濡れていることに気づかれないように。
靴を玄関のわきに立てかけて干しておく。由花の背を押して洗面台に行かせ、一緒に手洗いうがいをする。
「由花、ワタシ一人で先にお風呂に入るね」
「……うん」
不満そうだったけど、性別がいつ入れ替わるかわからないと知った日に約束したことだから、渋々頷いてくれた。
脱衣所で服を脱ぐ。着替えの下着はユニセックスの真新しいもの。鏡を視界にいれないように風呂場に入りシャワーを浴びる。自分の体に触れると、自分がどんな形をしているか思い知らされて、それが嫌でさっさと髪と体を洗い終えてしまいたくて、ガシガシと強く激しくこする。頭皮はひりつき、肌は赤くなる。
ボディーソープを洗い流す。温水がワタシの輪郭をなぞる。
不意に何かが違うと感じた途端、ワタシの体は、心をかたどり始める。
「っ、ああ、ああああっ」
自分を内臓の内側から否定され作り変えられるようなおぞましい感覚。悲鳴をあげそうになり、家族に気づかれないように口を押える。身体のいたるところが隆起、もしくは陥没し、柔らかさは失われ、ごつごつとした感触へ変わる。ワタシの……ボクの自認に合わせた性別に、生まれ育ったボクの体が間違ってると言わんばかりに、身体が男の物へと変わっていく。
変化が終わり、恐る恐る鏡を見る。
尖った顎。広い肩幅。平板な胸。薄く割れた腹筋。ぐにゃりと垂れ下がった、男性器。
細身の裸の男の子が立っていた。
ボクだった。しばらく呆然として、それから鏡に映る、憎らしいボクの体を何度も殴った。ガチャンガチャンと音がして、鏡は割れなかったけど拳はちゃんと痛くて、やっぱり、ボクの体だった。自分で自分を殴った。柔らかな脂肪じゃなくて弾力のある筋肉の感触で、鈍く痛んで、学校で突き飛ばされてコケてできた青あざが消えてないことに気づいて、だからコレは、やっぱり、ボクの体だった。
ぐちゃぐちゃに煮詰まった感情が、喉からこぼれる。
この体が、憎らしくて仕方ない。誰にも知られたくなかったボクの心の秘密を、他人に晒すことを強要されるこの体が。
性別が変わらなければよかったのに。そうだったら、隠して生きることができたのに。クラスの男子たちに男の体だからとズボンをずらされることも、仲良くしてた女子たちに生理用品を用水路に捨てられることも、どちらのトイレにも入れてもらえなくなることも、なかったのに。
もしくは、自分の性別を持たない、誰もが持ってる当たり前のものが欠けた不完全なこの心でさえなければ。
そうすれば、ボクは何も苦しまず、みんなと変わらずに生きることができたのに。
ボクを作るすべてが憎い。心も体も捨て去って、別の人間に生まれ変わりたい。
それができないなら、いっそ死んでしまいたいよ。
この体を引き裂いたら、裂け目からボクの意識が漏れ出し、遠くに飛んでいけたりしないかな。そうなってしまえと念を込め、殴りすぎて赤く腫れた胸板に爪を立てる。
「おねーちゃん!!」
鏡を叩きつける音を聞いたのだろうか、浴室のドアがからりと開いて、由花が飛び込んできた。ボクの腕に抱きついて、胸から手を引き剥がそうとしてくる。
「由花!? ちょっと、ダメだよ、出てって!!」
素っ裸のボクは、由花に男の裸を見せないように、いや、自分ですら受け入れられないこの体を見られたくなくて、慌てて腕を振り回し引き剥がそうとした。男の腕力は思ったより強い。勢い余って由花を壁に叩きつけてしまう。酷い音。背筋が冷え、頭がまっしろになる。
「ご、ごめん由花、大丈、」
「おねーちゃん、やめてよ、自分で自分を傷つけないで!!」
由花が、涙をぽろぽろ流して、本気で怒っていた。
「そんなことして何になるの!? おねーちゃんが痛い思いをするだけじゃん!! なんにもいいことないよ!!」
「ゆ、由花」
壁に叩きつけられたのに、由花はボクの腕を放そうとしない。逃がさないって言われるようで、思わず身体がすくんでしまう。手首を強く引かれ、由花と真正面から見つめあう。燃えるような意志の、瞳。
「わたし知ってるもん!! おねーちゃんはいいやつだ、間違ってるのはあいつらだ!! なのに、間違ってるやつらの間違った言葉で、おねーちゃんが傷つくなんておかしいよ!!」
「ち、違うの、由花」
「違わない、わたしは間違ってない!! おねーちゃん、あんな奴らのいうことよりも、わたしとか、お父さんやお母さんみたいな、本当におねーちゃんのことを大切に思ってる人たちの言うことを信じてよ!!」
痛いほどに眩しくて、視線を逸らしてしまう。
ああ。なんてまっすぐで、裏表のない、正直な言葉。
だからこそ、ボクの心に、どうしようもなく突き刺さる。
「……うん。そう、だね」
由花の言うとおりだよ。何が正しいのかを自分で決められて、自分が大切にしたいものを自分で選んで。そんな風に生きられたら、どんなに自由で幸せだろう。
「そうだったら、よかったんだけど」
でもね、ボクは由花ほど強くないから。敵意や嫌悪の視線を向けられるのが怖くてたまらないし、周囲の言葉に耳を傾けずにはいられないんだ。
ボクは、一人で生きようと思えるほど、強くはないから。
由花をぎゅっと抱きしめる。きっと学校でもボクの悪口を言われたはずだ。でも由花のことだから、同調せず、ボクを庇って、クラスで孤立したんだろう。
そう思うと、嬉しさよりも、やるせなさと、申し訳なさと、情けなさが、胸の内から湧き上がってきて、自己嫌悪で死にたくなる。
ごめんね、弱っちいおねーちゃんでごめんね。ボクのために涙を流させてしまってごめんね。
……ああ。
消えて、なくなってしまいたい。
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