瑞木由花 11歳 夏1

 小学五年生になってから、学校が終わってすぐ宿題をするのが日課になった。おねーちゃんが中学校から帰ってくるまでの退屈な時間をコーリツテキに潰すためだ。大した量じゃないから、児童クラブにお母さんが迎えに来る頃には全部終わってる。


 家に帰ったら、あとはテレビを見ながら、時計を見てる。おねーちゃんがスクールバスに乗って帰ってくるのは六時過ぎ。それまで、暇で暇で仕方がない。しょーじきテレビなんて全然見てなくて、今日は何を話そうかなあってことばっかり考えてる。でも、それも来年の春までのガマンだ。春になったら、わたしは中学生になっておねーちゃんと一緒に登下校できる。


 五時四十分になったくらいで、「おねーちゃん迎えに行ってくる!!」と言って家を出る。お母さんが何か言ってるけど、まあ多分、暗くなるから気を付けなさい、とかだろうな。もう七月なんだから、すぐには暗くならないよ。


 少し離れたスクールバス乗り場まで走って行って、おねーちゃんの帰りを待つ。暇だから、木の棒で草むらを叩いてバッタを跳ばせたり、剣みたいに振り回してみる。二年くらい昔ならキヨにいの家で遊んでたよなあって思って、うえって顔を顰める。


 あんな気持ち悪い奴のこと、もう思い出したくなかったのに。


 ようやくスクールバスがやってきて、おねーちゃんが降りてくる。他の中学生も何人かいるけど、やっぱりおねーちゃんがダントツで可愛い。文芸部に入ったって聞いたけど、セーラー服で本を読んでると、すっごく絵になるんだろうなあ。


 並んで、一緒に歩き出す。


「あのね、昨日柔道教室であっくんに勝ったんだよ。まあ、あっくんは足が滑っただけって言ってたけど負け惜しみじゃん。一本って言われてたのに、言い訳するとかカッコ悪いよね」


 おねーちゃんはちょっと笑って、


「それ、昨日も聞いたよ」

「……うん」


 ちゃんとわかってるよ。


 わたしは最近、同じ話を繰り返しする。


 理由は、おねーちゃんが歌わなくなったから。その分、わたしがたくさん喋らないといけなくなった。いつも一緒にいるんだから、話題がなくなるのは当然だ。


 歌わなくなった理由は、わからない。もう中学生だからって言ってたけど、多分違う。ていうか、そういうの関係なしに、お姉ちゃんは元気がなくなった。中学生になってからは特に。


 わたしの目が正しければ、小学校の高学年くらいから。


 何か悩み事があるの、って聞いてみたこともある。けど、ないよって言われた。


 ……多分、嘘だ。


「由花は、柔道を頑張ってるんだね」

「うん。正直やりたくないけどね。礼儀を学ぶためって、お父さんにやらされてるだけだし。正座とか、礼とか、キュークツでのどが絞まりそう」


 ぐええ、って自分で自分の首を絞める真似をしたら、お姉ちゃんがくすくす笑ってくれた。少し嬉しくなる。お姉ちゃんの笑顔がわたしを一番元気にする。


「あっくんに勝ったのは、わたしが頑張ったからじゃなくて、あっくんが弱いからだよ。練習、いっつも手を抜いてるの、バレバレだもん」

「由花は強いよ。運動神経がいいし、集中力あるし。何かコレって言うの見つけたら、すっごく伸びると思う」


 おねーちゃんにそう言われるとそんな気がしてくる。そうか、わたしは強かったのか。


「じゃあ、おねーちゃんを守ってあげるね」

「あはは。そうだね、お願いしようかな」

「任せて!!」


 そんな風に言ってくれるのに、おねーちゃんは悩みごとをわたしに話してくれないんだよね。それが、ちょっぴり、いやすっごく、寂しい。


 薄暗くなって、車が一台も通らない道を二人で歩く。川がさらさら流れる音と、鳥の鳴き声と、蛙の合唱。


 突然、目の前の草むらがガサガサ鳴った。野良猫やタヌキのガサガサじゃない、聞いたことないくらい大きな音。わたしはびっくりして腰を抜かしてしまう。


 ぬうっと、黒い塊が現れた。


 熊だった。


「……ひっ」


 声が漏れる。熊と会ったら、目を見ながらゆっくり下がって距離を取る。わかってるのに、腰が抜けて立ち上がれない。どうしよう、どうしよう。


「由花。大丈夫だよ。落ち着いて」


 おねーちゃんが、わたしの肩に手を置いて囁く。


「お姉ちゃんが守ってあげるから」


 そんなのムリに決まってる。だって、相手は熊だ。大人だって銃でもなきゃ戦えないのに。


 でも、なんでかわたしの心は落ち着いた。怖いのを我慢して、じっと熊の目を見つめ返す。


 熊は私たちをじっと見ていたけど、しばらくすると向きを変えて山の中に戻っていった。キンチョーがとけて、はああああ、と大きなため息が出る。


「もう大丈夫だよ。よく頑張ったね、由花」


 誰だか知らない男の人の声がした。


 振り返ると、ドキッとするくらい綺麗な男の子がいた。アイドルみたい。その子がわたしの肩を掴んでる。なぜかセーラー服を着ていて、胸元には、「瑞木」ってわたしと同じ名字の名札を付けてた。


 他には、誰もいない。おねーちゃんはどこにいっちゃったんだろう。


「どうしたの、由花……?」


 その子は、お姉ちゃんと同じ喋り方で、わたしを呼んだ。それから、喉の調子を確かめるみたいに、自分の首に手を当ててあーあーあーって言って、困った顔をわたしに向ける。


 まさか、と思ったけど、でも、他にあり得ない。


「おねーちゃん? おねーちゃんなの?」

「……由花。ボク、何か変、だよね?」


 どうしよう。おねーちゃんがおにーちゃんになっちゃった。






 それからもう大変だった。パニックになったお母さんが救急車を呼んじゃって、でも「娘が男になって!!」って言っても信じてもらえなくて、救急車が来てくれたけど、その間におねーちゃんが元に戻っちゃって、救急車の人にお母さんが怒られて、そしたらまたおねーちゃん男になって、救急車の人も一緒にびっくりして……って感じ。


 結局会社から帰ったお父さんと一緒に、お姉ちゃんを大きな病院に連れていくことになった。小児科じゃない、精神科ってところ。わたしはおねーちゃんが心配で仕方がなかったけど、夜ご飯を食べてないからお腹が空いてたし、熊とか救急車で疲れてとっても眠たくなってた。だから、検査が済むまで待ってる間にお母さんからもらったあんパンを食べてたら、いつの間にか帰りの車の中だった。


 隣でおねーちゃんが寝てた。今は女の子だと思う。もうすっかり真夜中だから、よく見えない。


「由花、家までまだかかるから、寝ててもいいよ」


 運転席から、優しいお父さんの声がする。おねーちゃんを起こさないように、そっと尋ねた。


「お父さん、おねーちゃんはどんな病気だったの?」

「うーん。病気、ではないんだってさ」


 お父さんは、言葉を選んでいるみたいだった。なぜか車の中には、ケンカした後みたいなヤな空気が漂ってる。


「恵里佳はね、自分が男の子か女の子かわからないんだって」

「なんで? おねーちゃんはおねーちゃんじゃん」

「体はそうだけど、恵里佳の心は、男の子になったり、女の子になったり、その中間になるらしいんだ。それで、心が男の子になったり女の子になったりすると、体も入れ替わるんだって」

「信じられないわよね」


 ぼそり、とお母さんが言った。低い声で、怒ってるみたい。


「ね、ね、じゃあさ、わたしも男の子だって本気で思い込んだら、男の子になれるのかな」

「馬鹿言わないでよ」


 お母さんが本当に嫌そうに言ったから、もう一回聞くのはやめておこう。


「性自認……ええと、自分の性別がどれだと思うかは、そう簡単に変わらないらしいよ」


 お父さんが教えてくれた。確かに、男になったり女になったりする人は見たことがない。


「じゃあ、おねーちゃんはずっとこのまま、男になったり女になったりするってこと?」

「そうなる、のかなあ。恵里佳の気持ち次第だよ」

「じゃあ、おねーちゃんとおにーちゃん、どっちで呼べばいいの? あ、中間もあるんだっけ。じゃあおねーちゃんとおにーちゃんと……なにそれ?」


 お父さんとお母さんは、じっと黙り込んだ。あれ、また怒らせるようなこと言っちゃった?


「由花は優しい子ね」

「そう? おねーちゃんの方が優しいよ?」


 お父さんとお母さんがくすくす笑う。さっきまでのヤな感じの空気は、もう消えてた。


 なんで褒められてるのかわかんない。けどそういうことなら、明日の夜ご飯は、お母さんが作るのが大変だからって嫌がる、煮込みハンバーグが食べたいって言ってみようかな。


「そうだね。まずお父さんたちが、恵里佳の味方になってあげないと」


 おねーちゃんの味方をするのはトーゼンのことなのに、何言ってるんだろ。


 ていうか、性別が変わったくらいじゃ、何も変わんないよ。男になったら性格が変わるわけでもないのに。まあ、一緒にお風呂に入れなくなるのはちょっと残念だけど。


 それから家に着くまで、大好きなおねーちゃんに引っ付いて眠った。


 次の日、学校に遅刻しそうになって、玄関でバタバタ靴を履いていると、おねーちゃんが走ってきた。中学校のジャージを着てる。男の体になったから、セーラー服は着ずに学校に行くらしいけど、身長が伸びたせいでキツそうだ。


「由花。由花はボクがどっちの時でも、おねーちゃんって呼んでいいからね」

「え? ああうん、わかった」


 昨日お父さんたちと話してたからかな? いや、おねーちゃんはあの時寝てたっけ。ま、呼び分けとかしなくていいのはラクちんでいいや。


「それと、ありがとう」


 やっぱり、なんでかお礼を言われた。でも、お姉ちゃんが嬉しそうな顔をしていたから、理由なんてどうでもよくなって、むくむく元気が湧いてくる。


「どういたしましてっ!! 行ってきます!!」

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