第48話 エメリーのチーズケーキ③
それからすぐに、隣の席の二人は、私たちと入れ替わるように動き出す。
「わたくしたちは食べ終わりましたから、そろそろ出ようと思っていたんですの」
「そうでしたか。アネット様とブルーノ様ともう少しお話しできるかと、期待してしまいましたが、それはまたの機会に」
再び「ごきげんよう」とアネット侯爵令嬢から告げられれば、彼らは立ち去っていく。
店内から二人の気配がなくなるタイミングを見計らい、兄が口を開く。
「エメリーは、間違って彼女の名前を呼ぶところだっただろう」
「お兄様ってば、目ざといくらい何でもよく見ているわね。すっかり記憶喪失の設定を忘れて、『アネット様』と、口を滑らすところだったわよ」
「レオナール様がエメリーの記憶喪失を周囲に広げているとは思えないが、記憶がある印象を植え付けるのは、よろしくないだろう」
その言い分には納得だ。もしも、アネット様が私の記憶喪失について耳にしていたら、話がややこしくなるところだった。
お兄様のおかげでうまく誤魔化せて良かったなと思うものの、レオナールを騙していることに対する罪悪感が、ここ最近高まりつつある。
「私、いつまで記憶喪失のふりをしていればいいのか、だんだん分からなくなってきたわ。なんだか嘘をついているのが申し訳なくて」
「ってことは、エメリーもレオナール様のことを好きだと、意識するようになってきたんだな」
「そんなことないわよ。私は簡単に騙されないからね。所詮本性を隠したままのレオナールに違いないもの」
「いいや、これまでのデートを思い出して、『レオナール様、好き♡』とでも言ってみたら、そんな気がするはずだ。さあ、言ってみろ」
「お兄様ってば何を言っているのかしら。レオナールを好きになるなんて、それはあり得ないわ。どうせ記憶が戻ったって言ったら、すぐに性悪レオナールが出てくるんだから」
「まあ、『記憶が戻った』と伝えても、エメリーが一緒にいたいって言えば、レオナール様の気持ちは何も変わらないだろう」
「最近、お父様とお母様を騙すのがしんどくなってきて。そろそろ記憶喪失のふりも限界かな」
「確かにな。レオナール様の恋人は板についているが、エメリーのような行き当たりばったりに演じる記憶喪失のふりは、そろそろ限界だろう。今だってアネット様に対して設定が崩れていたんだからな。そんな調子のエメリーでは、レオナール様と社交場に行けば、あっという間にボロが出るだろうさ」
そう言われると否定できない私は、何もないテーブルをぼんやりと見ながら、少しの間、考え込む。
そして、一つも答えを導き出した。
「近々タイミングを見計らって、記憶が戻ったことにするわ。私の記憶が戻った瞬間に、彼がどんな反応をするのかも見てみたいし」
「タイミングを見るって、具体的にはどうするつもりだ?」
「レオナールの屋敷に呼ばれたときが、絶好のチャンスだわ。彼の屋敷には行ったことがあるもの」
「俺にはチャンスの意味が分からんが……やはりレオナール様の部屋へ忍び込んでいた令嬢は、エメリーだったのか?」
「だから違うから! 彼の部屋に入ったことなんてないわよ」
「分かっているって。もしもエメリーが彼の部屋に入っていたのなら、翌日には責任を取ると言ってきただろう。エメリーは、すでに公爵家の人間になっていたさ」
そう言った兄が、くつくつと笑う。
ムッとしてしまうけれど、兄のペースに巻き込まれていては、前に進まないため、平常心で話を続ける。
「だってレオナールってば、『今までと同じ経験をすると思い出すかもしれない』って言う癖に、一度も二人で行ったこともない場所にしか私を連れ出していないのよ」
「ははっ。それならレオナール様は、エメリーの記憶が戻って欲しくないんだろうさ」
「私は本当に記憶喪失かもしれないわって、逆の錯覚に陥るくらい、ありもしないデートの想い出を散々聞かされたわ」
「それは、レオナール様に愛されているという惚気だろうか?」
「そんなわけないでしょう。もう記憶喪失のふりも潮時に思えるから、婚約パーティーの日に行った彼の屋敷を見て、思い出した演技でもしてみるわ」
「そんな計画を立てる時点で、嘘くさい演技になる気配が漂っているぞ」
「もう! 失礼ね。前回だって、レオナールの大豪邸に驚いて立ち止まったのよ。次に行ったときだって、普通に驚愕するはずだから、一番自然だと思うわ」
「せいぜい棒読みにならないように頑張れよ」
「大丈夫よ。そこのタイミングなら自信があるもの」
心配そうな顔で見つめてくる兄へ、にっと笑顔を向ける。
すると、私の顔を見て笑った兄が言った。
「記憶が戻ったと告げるなら、なおさらチーズケーキは焼けないとまずいな。作り方を忘れたという説明は、今後通用しなくなるぞ」
「だから、ちょっと失敗しただけだって」
そう言った直後。私たちのテーブルに、三角形にカットされた焼き目の付いたチーズケーキが運ばれてきた。
おや? と思う私には、初めて見るケーキの見た目だ。
「エメリーよく見ろ。チーズケーキはこうして形があるだろう。以前、焼いたケーキはどうだった?」
「どろどろで形なんてなかったわ」
「よし、ちゃんと覚えているようで安心した」
「チーズケーキって、ヨーグルトのような形状だと思っていたけど、違うのね」
「だから言っているだろう、全く違うって。正しいのはこの形状だ。焼けているのかも分からない恐怖の代物を、レオナール様に渡すなよ」
「あはは……。変ね……。以前の私のチーズケーキは、何だったのかしら」
こてんと首を傾げると、「あれをチーズケーキと呼ぶな」と叱られた。
これが本物なのか、と不思議な感覚に陥りながら食したケーキは、濃厚で美味しかった。
◇◇◇
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