第35話 破天荒な兄の教え④
目が覚めた日の翌朝──。
没落と隣り合わせのトルイユ子爵家に、手の空いた従者などいない。
適当に着替えを済ませると、家族と食事を摂るため食堂へと向かう。
昨日、一週間ぶりの再会を両親と済ませたが、私の記憶喪失を疑うことはなかった。
頭に花を咲かせる彼らを騙すのは、ちょろい。
こんな両親だから、いつまでたっても貧乏から抜け出せないのだろう。
「あら、エメリーおはよう」
私を見た母が言えば、父も続いて「おはようエメリー。すっかり顔色もいいな」と続いた。
「おはようございます、お母様、お父様それにお兄様も」
朝食に一番遅れて来たようだ。
すでに三人が席について私を待っており、私が食卓に仲間入りすると、父が提案してきた。
「今日もレオナール様が来るらしいから、エメリーの得意なチーズケーキでも作ってお待ちしたらどうだろうか?」
すると、真っ青になった兄が横からしゃしゃり出た。
「やめろー! あんな殺傷能力の高いケーキをレオナール様に食べさせれば、我が家が、ラングラン公爵家に訴えられるぞ! そもそもあれは、ケーキと呼んではいけない代物だ」
「二人とも嫌だわ。私たちのことも覚えていないエメリーが、ケーキなんて焼けるわけがないでしょう。作り方も分からないわよねぇ」
頬に手を当てる母が言った。
母が庇ってくれたのは嬉しいのだが、作り方はちゃんと覚えている……。
そんな風に考えながらも、ここは記憶喪失の演技をしなくてはならない。
しゅんとした表情を作り、恐縮する様子を醸して返答した。
「お父様、お母様それにお兄様。大切な家族のことも忘れるなんて、申し訳ありません」
「いやいや気にすることはないぞ。私たちは、エメリーがこうして目を覚ましてくれただけで、十分に幸せだからな。まあレオナール様と過ごせば、記憶も徐々に戻ってくるだろう」
能天気な口調で父が言ったため「あはは、そうですね」と返しておいた。
だが内心、ひやひやものだ。
狭い我が家の応接間には、湧きもしない温泉のレジャー施設を作ると言い張る兄が、地図やら資料やらを広げ占拠しているのだ。
ここ何年も家に上がり込む来客がいないため、問題もなかったが、こうなれば大問題だろう。
応接間を大至急片付けろという意味を込め、この家族に尋ねた。
「そういえば、レオナールをお招きするための、応接間はどこにございますの?」
「そうか、エメリーは知らないもんな。我が家に応接間など、ない!」
応接間を占拠する兄が、はっきりと言い切った。
さては応接間を自分の部屋だと思っているのね。
そう思い、ここは父を味方につけようと、縋るような目を向ける。
「お父様……。それではレオナール様をどこでお迎えするとよいでしょうか?」
「エメリーの部屋でいいんじゃないか」
「ですが、結婚前の男女が二人きりなんて、問題かと存じますわ」
「誠実なレオナール様であれば、何の問題もないだろう」
「は?」
レオナールのどこが誠実だ! と突っ込みを入れたいところだが、記憶喪失の設定上、言葉をのむ。
「良かったなエメリー。父の承諾もあるようだし、思う存分レオナール様を部屋に招けるじゃないか。これで最短ルートもあり得るな」
応接室を片付ける気などさらさらない兄が、にっこりと笑う。
レオナールと二人きりの狭い部屋で、しっぽりとお茶を飲む気になれないが、彼と甘い雰囲気にもなるわけない。
兄の言う、彼とベッドに入るなんて起こりえない話である。
まあどうせ、本性を隠し切れなくなった彼と喧嘩して終わりだ。
そう……。兄は間違っている。
娼館へ私が行けば、「レオナールが足しげく通う」と兄は言ったが、それは絶対にない。
彼が私にキスすらしてくることはないだろう。
彼の飲みかけのワインを私が欲しがったら、「汚いから嫌だ」と言ったんだから、色めいたことは、私とレオナールの間にはこれっぽっちも関係のない話だ。
◇◇◇
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