第32話 破天荒な兄の教え①
私を見つめるレオナールが、小さく手を振りながら部屋から出ていった。
ふぅっと息を吐いて安堵する一方、独りきりになった私は、絶賛混迷の渦へと迷い込む。
ちょと、ちょっと、ちょと!
一体、彼は何者に変わったのだろう? 別人が出てきたんだけど!
何がどうなって、こんな状況になっているのか、さっぱり理解ができない。
「どっどどどうしよう!」
変な嘘をついたせいで、めちゃくちゃ窮地に陥っている気がする。
かつての「婚約者のふり」だって、彼のご都合主義のとんでもない約束だった。
だけどそれでも、ちゃんと「ふり」の終わりが存在した。
契約期間五年という許しがたいほど長い拘束だったが、それでも期限はきちんとあったのだ。
それなのに、「兄の教えに従い」すっとぼけた私が、「記憶のないふり」をしたばかりに、リアルな婚約者に置き換えられた。
リアルな婚約者に期限なんぞ、ないに決まっている。
婚約者の行末が、自ずと夫婦に繋がるのは常識だ。
そんなわけで婚約期間は、彼の気持ち次第だろう。必然的に。
何てことだと悶絶する私は、非常事態の始まりを迎えた。
恐ろしいことに、「婚約者のふり」の期限が、ご機嫌なレオナールによって容赦なく撤廃されたのだから。
まずい、まずい、まずいわ。
ぼやぼやしていられないじゃない!
「そうだ! こうなれば記憶が戻ったことにしよう」
危険を察知し、「記憶喪失のふり」をやめようと強く決意したところで、もう一つの現実に気づく。
駄目だ……。
──そうなれば結局、振り出しに戻る。
パーティー会場で喧嘩の原因となった、例のお金問題である。
偉そうなレオナールが再登場して、「婚約者のふりを辞退したければ、違約金を払え」と言うだけだ。
我が家に違約金なんて払えるかあぁぁあ──と、内心絶叫する私は、どちらにしろ詰んだ……。
「記憶喪失のふり」でも、「記憶が戻った体」でも、どのみち偽婚約者のポジションから抜け出せない。
もはや魔の無限ループだ……。
「もう私一人では手に負えない。こうなったら誰かに相談しなきゃ──」
私の味方は誰かしらと悩む私は、ばふりと再びベッドに横たわる。
「碌な家族がいないわね──」
頭に花を咲かせた両親より「モテない同盟」の兄の方が、まだ話が通じそうだけど、どうだろうか?
いや……。
私がレオナールから脅されていると相談したところで、「払える金などあるか」と一喝されるだけな気がする。
そうなれば、納まるところは「婚約者のふり」だろう。
──ってことなら、頼りない両親を説得する方が、得策のような気がする。
よぉし! ならば私の作戦はこうだ。
その一 私が記憶喪失であることを理解してもらう。これはちょろい。
その二 「記憶喪失の娘を公爵家へ嫁に出すのは忍びない」そう思わせる。
その三 公爵家の嫁など務まらないと知らしめ、積極的辞退へと誘導する。ここが一番の腕の見せどころだ!
全ての課題を見事クリアした暁には、めでたく婚約解消を獲得して、平凡地味ライフへ戻る! これはもう完璧な計画だ。
今後の方向性を決めると、ノックとほぼ同時に扉が開く。
「エメリー、入るぞ!」
声の方向を見れば、満面の笑みの兄が立っているではないか。
その兄にとっては一週間ぶりの再会だと言うのに、号泣していたレオナールとは大違いだ。
何を笑っているのよと、思わず言いそうになるが、それは我慢して計画を遂行する私は、ガバリと起き上がり、不安気な声で告げる。
「あなたは誰ですか?」
「モテ期到来の頼れる兄だ!」
「そう……」
相も変わらず絶好調にふざけている。目一杯可愛く言って損した。
それを馬鹿にできないのは悔しいが、演技に徹しようとしたそのときだ──。
あっけらかんと喋る兄の言葉によって、計画がガラガラと音を立てて崩れ始める。
「な~んだ。ちゃんと記憶があるんだろう」
「へ?」
「記憶喪失だとレオナール様は言っていたが、エメリーは何をやってんだ?」
「えっと……。お兄様ですか?」
「だからエメリーは、何をすっとぼけているんだ? 俺のことをちゃんと分かっているだろう」
「そんなことは、ありませんけど」
「はは、エメリーごときが俺を騙せると思うな。バレバレだ」
「誰だか存じませんが、失礼ですわ」
すると、つかつかとベッドサイドまでやってくると、私をじっと見つめる。
何をしてくるつもりかしらと見ていれば、顎をくいっと持ち上げられ、兄の顔が近づいてきた。
まさか、キ、キスする気か──!
間近に迫る実の兄のドアップ。
見た目だけはいい男だけど、兄と妹でキスなんてあり得ないから。
「いくらモテないからって妹相手に盛らないでくれますかッ、お兄様!」
そう叫んだ瞬間。兄の動きがピタリと止まる。
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