第二話 全てを焼き尽くすシャークファイア

 常人よりもタフネスに自信のある寛二も、さすがに今年の酷暑には参っていた。真夏のぎらついた太陽が、五十を超えた男の体力を容赦なく削っていく。目の前で先導している息子は、るんるん気分で跳ねるように先を行っている。寛二は息子の若さを少しばかり羨んだ。事件現場の海岸が見えてきたとき、すでに寛二の全身には滝のような汗が流れていた。


 この時期、砂浜の海水浴場は島外からの観光客で埋め尽くされる。が、この岩場は砂浜から離れており、人気ひとけはあまりない。確かにサカりのついた男女が妙なことをするにはうってつけだろう。


「あそこ見てよ」


 岸辺に立った伊織が、沖の方を指さした。なんだか……海水が黒い。まるで墨汁を垂らしたかのように、黒くなっている場所がある。船舶から重油が大量流出したかのように見えるが、そのような事故はあの海域で起こってはいない。もし起こっていればすぐに報告があるだろうしニュースにもなる。


「あの油さぁ、サメが泳いだ跡なんだよ。少し前までは深海でおとなしくしてたみたいだけど、とうとうこっちに来ちゃったね」

「油がサメの泳いだ跡? さっきからバカなことばっかり言いやがって」

Petroペトロ sharkシャーク。それがヤツの名前さ。ニューギニア沖で起こったタンカーの重油流出事故で生まれた怪物だよ。しかもこんがり焼いた肉が大好きと来ている」


 伊織の声が、急に低くなる。今までの軽薄そうな態度が一変した。父親だから、寛二にはわかる。こういう声のトーンで話しているときの息子は真剣だ。昔からお調子者だったけど、真面目な話をするときはこうなる。


「……なぁ、全部ウソなんだろ? あの映像はフェイクで、あの黒いのも別の何か……自然現象みたいなもんなんだろ? だいたい、サメが人を燃やすなんて馬鹿馬鹿しい」

「……父さんは知らないんだね。サメって生き物はさぁ、遺伝子が不安定なんだよ。だから突然変異も起こりやすいんだ。流出した重油を浴びたサメが油を体内に溜め込んで炎を吐くようになるなんて、普通にありえる話だよ」


 バカな、と言おうとしたそのとき、伊織がパンパンと両手を叩いた。


「ほら、おいで、アース」


 すると……伊織の目の前の水面が、ざばぁっと割れた。白いしぶきを立てて顔を出したのは、灰色の体をしたイルカだった。


 ……よく見ると、イルカじゃない。メタリックなボディをしている。イルカのような見た目をしたロボットだ。


「お前、どうしたんだそれ」

「友達と作ったイルカ型ロボットのアースくんだよ。まぁ、めちゃくちゃ素早く泳げる水中ドローンみたいなもんかな」


 伊織がサッと右手を振り上げる。するとアースくんと呼ばれたイルカロボットは、再び水中へ潜り、沖の方へと泳いでいった。


「今から証拠を見せるよ。アースくんを使って、サメを撮影してみる。目はカメラになってて、リアルタイムでこっちに映像送ってくれるから」


 水面から突き出たイルカロボの背びれが、高速で海を切り裂いていく。背びれはあっという間に、黒い塊へと至った。伊織はさっきのタブレットを取り出して、画面を眺めている。


「ほら、この黒い物体見て」


 伊織が見せたタブレットの画面には、流線形をした黒い塊が映っている。ゆっくりと、特にどこかを目指しているわけもなく泳ぎ回っている。


 ……確かに、形や泳ぎ方だけならサメに見えるかもしれない。


「なんだこれ……海藻? じゃないよな……」

「これがさっき言った怪物だよ。石油を浴びて変異した凶暴なサメさ。ヤツが海水浴場の方に出てきたら、まぁ何人かは死ぬだろうね」


 この期に及んで、寛二はだんだんと息子を信じ始めていた。息子の態度は気に入らないが、さりとて彼の全てを疑ってかかる気にはなれない。


 しばらく画面を流れていると、黒い塊がどこかへ消えた。見失ってしまったのだろうか。辺りに魚影はなく、青黒い海水のみが映し出されている。


「あれ、逃げられたかなぁ……」


 首をかしげる伊織。このとき寛二は、妙な匂いを嗅ぎ取っていた。


「……なんかガソリン臭いぞ」

「ホントだ……」


 辺りに漂うガソリン臭。この近くに、ガソリンスタンドはない。島内唯一のガソリンスタンドはここから車で十分かかる。


 火災に繋がるため、ガソリン漏れは危険だ。寛二は鼻をならして、ガソリン臭の出所を特定しようとした。長く警官をやっているせいか、ずいぶんと鼻が利くようになった。


 ……出所は、すぐ近くだった。水面から突き出た黒い三角の背びれが、高速でこちらに向かっている!


 ざばぁっと海が割れ、大口を開けた巨大なサメが姿を現した!


「なっ、なんだあれ!」

「父さん逃げるよ!」


 寛二の右手首が、息子にギュッと掴まれた。そのまま走り出した息子に引っ張られる。岩場に乗り上げたサメは、その大口から猛烈な火炎を放射した。息子に引っ張られていなければ、確実に燃やされていただろう。


「ヤバい! 林に引火した!」


 伊織の言う通り、海岸沿いの防風林に炎が燃え移っていた。煙を吸い込んだら危険だ。寛二と伊織は炎と煙を避け、走って走って走り続けた。


 逃げた先は、駐在所だった。クーラーの効いた室内は、天国そのものだった。椅子に座ったとき、走っているときには麻痺していた疲労がどっとのしかかってきた。


「ここまで来れば大丈夫……」

「なぁ伊織……お前なんであれのこと知ってたんだ?」


 疑問だった。警察の自分には何も情報が届いていないのに、なぜ一般人の息子が先に知っていたのか。


「……ヤツのせいで友達が死んだんだ」


 壁にもたれかかる息子は、真剣な声色で語り出した。

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