雪は溶け、やがて春を迎える
かみしも倫
第1話 初恋
春乃と婚約者の夏晶が初めて顔を合わせたのはまだ五つの時だった。相手は十一の歳で、六歳離れた夏明は春乃を妹のように可愛がった。春乃もまた兄のようだと懐いていた。二人の間にあるのは恋や愛と言うよりも、兄妹のように親しみ合う気持ちの方が互いに腑に落ちていた。
春乃には忘れられない初恋があった。婚約者と顔合わせをする当日、彼女は婚約者の住む屋敷で迷子になっていた。その屋敷は広く、今自分がいる場所が母屋なのか離れなのかすらまだ幼い彼女には理解が出来なかった。聞こえてきた歌の出処を探しに親の後ろを離れてしまった彼女は今にも泣き出してしまいそうだった。
「どうしたの?」
しゃがみ込んだ彼女の頭の上から幼い子供の声がした。見上げてみるとそこには黒い髪に少し青みがかった目をした男の子が立っていた。
「お歌が、きこえたから。でも、お父様たちのところに、帰らなきゃ」
たどたどしく伝える咲良をみた男の子は咲良の手首を掴んで立ち上がらせた。
「こっち」
男の子に連れられるがままについて行くと見覚えのある建物が見えてきた。しかし男の子は一つだけ生えた桜の木の手前で止まり、掴んでいた春乃の手首を離した。
「まっすぐ進めば帰れる」
「あなたは?」
「ぼくはここまで、ここから先にはいけない」
理由を聞こうとした時遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえ振り返った。そしてお礼を伝えようともう一度男の子のいた方向を見ると、そこにはもう誰も立っていなかった。
あれから十一年経った今も、春乃は名前も知らない男の子に恋をしている。しかしそれは婚約者のいる春乃には叶わないはずの初恋だった。
「夏晶様が、戦死ですか」
夕食後父親に呼ばれた春乃に告げられた事実は残酷なものだった。
「あぁ。暖野家の方からそう告げられた」
「そう、ですか」
親同士が決めた結婚と言えど、兄のように慕っていた夏晶とはいつか幸せな家庭を築くものだと春乃は漠然とした想像をしていたはずなのに、それはいとも容易く破れ落ちてしまった。
「それと、お前の婚約者については別のものを宛てがうとのことだ」
この時代、籍を入れずとも一度婚約者がいた女性にはなにかと噂がつきやすく、二度目の婚約が難しいとされていたため、暖野家の贖罪だったのだろう。しかしそれは春乃にとって不要な気遣いでしかなかった。
「いえ、結構ですとお伝え下さい」
「だけどな、もう相手方には日程を伝えて顔合わせの話も通ってるようなんだ。だからせめて顔合わせだけでも出席しなさい」
まだ何も知らない子供だった頃と違い春乃は大人へと近づいているというのに、自分の知らぬ間に自分の婚約者を勝手に決めてしまう父親に苛立ちを覚えた。それと同時に親を心配させたくないという子供心も少なからずあったため、春乃は顔合わせにだけは出席することにした。これから自分で婚約者を見つけるとなればかなりの時間と労力をかけることになり、時間が経てば経つほど行き遅れた娘のせいで親に心労をかけるだろうと思ったからだ。
春乃の人生は常に、親の指し示す道の上を歩いていく。春乃自信が幸せになれるかは二の次だ。
顔合わせ当日は暖野家の紹介の元だからなのか、最初の婚約者と顔合わせしたあの大きな屋敷で行われることとなった。春乃と両親は少し早く着いてしまったので、両親に許可を取り春乃は母屋と離れの境に植えられた桜を見に行った。今度こそ、春乃の初恋をそっとしまい込み、二度と思い出さないために。
時間が近くなると春乃は両親に呼ばれ部屋で相手を待つこととなった。昔と違い春乃は年頃の少女だ。緊張からか早まる鼓動をどうにか落ち着かせようと手のひらを握っては開いてと繰り返していた。
やがて部屋の襖が引かれ、その先に一人の青年と見慣れた女性が立っていた。
「春乃ちゃん待たせてごめんなさい。この子は和春の弟の雪孝よ」
青年を一目見た瞬間、春乃は先程桜に誓ったことなんて忘れたように初恋の男の子を思い出した。青年の黒い髪に青みがかった目は男の子と瓜二つだったのだ。春乃は驚きと困惑で鼓動がまた一段と早まっていた。
しかしそんな春乃とは対照的に、青年はただ静かに、そして少しの暖かさも感じられないその瞳で、春乃ことをただひたすらに見定めるだけだった。
雪は溶け、やがて春を迎える かみしも倫 @kamishimo00
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