6.

「博之」

「何をしているの?」

「疲れたから、休憩をしていたの。そうしたら、女の子がいて」

「女の子?」

 気づくと、あの女の子はどこにもいなかった。

 ……まるで、最初からいなかったように。

 由里はお腹をそっと撫でた。

 ここにいるよ

 というふうに、お腹の子が動いた。

 あれは、あなた?

 それとも、わたし?

「由里? 帰ろう。荷物、持つよ。重かったでしょう」

「……ごめんなさい」

「それ」

「え?」

「すぐに謝るの、やめなよ」

「……ごめんなさい」

「由里、謝るところじゃないよ。そうじゃなくて、……由里。大変なら、大変だって、ちゃんと言って欲しい」

「……え?」

 博之は由里の目をまっすぐに見て、言った。

「会社で言われたんだ。奥さん、大変じゃないのって。もしかして、まだ悪阻が続いているんじゃないのって」

 由里が黙っていると、博之は続けて言った。

「ねえ、由里。僕は……これは、僕が駄目なところなんだけど、言われないと分からないことが多いんだよ。だから、ちゃんと話して欲しい。謝るんじゃなくて。悪阻、大変なの?」

 由里はこっくりと頷いた。

「ああ、ごめん! 悪阻はもう終わっている時期だと思っていたんだ。それに僕、何かで妊婦さんは身体を動かした方がいいって読んだんだ。だから、由里もそうした方がいいかと思って。家事は体力使うって言うし。……由里? 由里、どうして泣いているの?」

 由里は知らず泣いていた。涙が、あとからあとから、出て来た。

「由里、ごめんね。ずっとつらかったんだね。――今日は早く帰って来たんだ、僕がごはんを作ろうと思って」

「……ほんとう?」

「うん。何が食べたい?」

「……分からない」

「え?」

「食べられるものが、ほとんどないの。……スイカ、食べたい」

「分かった。じゃあ、家に着いて、荷物置いたらスイカ買ってくるから。由里は寝ているといいよ」

「……うん」

 博之は、あいている方の手で、由里の手をしっかりと握った。

「もしかして、歩くの、早い?」

「……うん。もう少し、ゆっくり」

「分かった。ゆっくり、歩こう。家まで」

 ゆっくりゆっくり歩く。

 ゆっくりでいいんだ、と由里は思った。

 ゆっくりと、親になって行けばいい。

 家はもうすぐだ。

 夕暮れの陽が、あたたかく優しく、家へ帰ろうとしている人たちを包み込んでいた。斜めに射す、橙色のひかりが家々を暖色に染め上げていた。

 つないだ手から、博之の体温が伝わって来て、由里は、つきあい始めのころ、こうしてよく手をつないだな、と思った。少しごつごつした手の感触に、初め驚いたことを思い出した。


 ひりひりと痛んだ肌から、やわらかい棘が抜けていく――抜けていくのではなくて、溶けていく。

 ――初めから、それは棘じゃなかったのだ、たぶん。

 棘は溶けて、由里の全身を包み込んだ。

 やわらかい羽毛のように。

 由里はふわふわした気持ちになって、家へと向かった。

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