5.
由里がまだとても小さくて、二歳と少しのころのこと。
言葉はまださほど明瞭でなかった。単語が言えるくらい。
だけど、母親がどこかに行ったのは分かっていた。大きなお腹で。母親がいなくなった代わりに祖母が来てくれた。すごくさみしい思いをしていた。
一週間くらいして、母が戻って来た。
小さな小さな子を連れて。
「あなたの妹よ」
ふにゃふにゃの小さな小さな子を、見せてくれる。
「かわいい」
由里はそっと手をさわった。小さな小さな子は、由里の指を握った。
由里の心の中に、あたたかいものが広がる。
「かわいい」
由里は、もう一度、言う。
言葉はまだ多くない。だから「かわいい」を繰り返す。
「由里もお姉ちゃんね」母が言う。
「おねえちゃん」
「妹を、かわいがってあげてね」
「うん!」
小さな小さな子。
いもうと。
由里の指を握った、かわいらしい手。
かわいい。
「おばさん?」
女の子の声で、ふいに現実に引き戻された。
「なあに?」
「あのね、聞いて欲しいの。このスカートね、お母さんが作ってくれたのよ」
「へえ、お母さん、上手ね!」
「でしょう! それからね、運動会のときはね、おにぎりとサンドイッチの両方を作ってくれるの。優しいでしょう?」
「うん、優しいね」
「……だからね、あたしより妹のことが好きかもしれないけど、……あたしのことも、好きだよね?」
女の子はまっすぐに由里を見た。
由里は思う。
どこかで見たことのある顔。
見覚えのあるスカート。
わたしも、母にスカートを作ってもらった。そう、ちょうど、あんな。
母はときどき、布を買って来て、いろいろなものを作ってくれた。スカートのときもあったし、バッグのときもあった。そうして、由里が、母が作ったスカートをはいたりバッグを持ったりすると、嬉しそうに見てくれた。
運動会のときは、おにぎりとサンドイッチを作ってくれた。
どっちがいいか聞かれて、どっちも食べたいと言ったら、両方作ってくれて、友だちに「由里ちゃん、すごい!」と言われて誇らしい気持ちになった。
とても嬉しかった。
スカートもおにぎりも。
すっかり忘れていた。
妹が生まれて嬉しかった気持ちも。
「ねえ、おばさん。お母さん、あたしのこと、好きだよね?」
由里は女の子をぎゅっと抱き締めた。
「だいじょうぶだよ。お母さん、あなたのこと、好きだよ。だいじょうぶだよ」
「そうだよね、お母さん、スカートも作ってくれたし、おにぎりとサンドイッチ、両方作ってくれたもんね」
「そうよ」
由里は女の子をぎゅっと抱き締めて、背中を優しく撫でた。
ふだんなら、こんなこと、絶対にしない。
でも、どうしてだか、そうせずにはいられなかった。
夕暮れが公園を包み込もうとしていた。
遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえる。
子どもを呼ぶ、母親の声も聞こえる。
走っていく、足音。
夕飯のにおいがしたような気がした。
自転車のゆく音が聞こえた。
公園で、母がいなくてさみしかった五歳のわたし。
妹が生まれて、嬉しかった二歳のわたし。
母に作ってもらったスカートをはいて、公園でブランコに乗った、小学校低学年のころのわたし。
いろいろな「わたし」がいた。
記憶の中に埋没していた、「わたし」。
砂時計の中の砂の粒ような「わたし」。確かにそこにいるのに、たくさんの砂にうずもれて普段は意識しない「わたし」。そんないくつもの「わたし」に会えた気がした。
由里は「わたし」を抱き締めた。
腕の中の女の子は二歳になったり五歳になったりした。
また、違う年齢になった気もする。高校生にも、小学校高学年にも中学生にも。
この子が生まれたら。
スカートを作ってあげよう、と思った。
でも、欲しい服があったら買ってあげたい、とも思った。
運動会のときは、おにぎりとサンドイッチの両方を作ってあげよう、と思った。
高校生になっても、お弁当をちゃんと作ってあげよう。
授業参観は絶対に見に行ってあげよう。
それから、折り紙をいっしょにやろう。両面に色のついた、あの折り紙も買ってあげよう。
他に何かやりたいことがいっしょにやってあげよう。
小学校に入るまでは、公園にはいっしょに行ってあげよう。さみしくないように。
ブランコを揺らしてあげよう。高く高く、空にいくように。喜んでくれるといいな。順番のことも「どうぞ」って言うことも、ちゃんと教えてあげよう。
たくさん、いっしょに遊んであげよう。――たとえ、下の子が出来ても。
子育て出来る自信なんて、一つもなかった。
だけど、してもらって嬉しかったことをしてあげること。
して欲しかったことをしてあげることは、出来るような気がしてきた。
「由里!」
名前を呼ばれて、顔を上げると、博之がいた。
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