2.

 博之が会社に行くと、ほっとする。

 妊娠がつらくてつらくてたまらない。

 毎日だるいし、普通のごはんがまるで食べられない。バランスのいい食事をした方がいいということは分かっている。だけど、例えば今は、スイカしか食べられなかった。他のものは食べても、気持ち悪くて基本的に吐いてしまう。食べられるものは、期間によって変わる。今日はスイカが食べられるけれど、いつまでスイカが食べられるかは、由里にも分からなかった。

 気持ち悪いしだるいから、ベッドに行き布団に潜りこむ。

 身体を動かした方がいいと、博之は言う。

 だけど、身体を起こすことさえつらいのだ。だるくてだるくてたまらない。


 それに、由里には根源的な心配もあった。

 博之は由里のお腹を愛しそうに撫でる。

 だけど、由里は博之のようにお腹の中の子を愛しいと思えなかった。

 ――わたしに、子どもを愛することが出来るのだろうか。

 誰にも言えない、その不安は、常に由里の中にあり、重く苦しく、由里を支配していた。

 病院に行っても買い物に行っても、妊婦さんはとても幸せそうだ。

 でも由里は全く幸せだと思えなかった。お腹の異物が、由里を攻撃しているような気持ちにさえなるのだ。

 みな、そのお腹の遺物に話しかけている、ごく自然に。

 由里にはそれが出来なかった、どうしても。

 ――子どもって、どうやったら愛せるのだろう?

 妊娠した今でも、由里は母親になる勇気が持てずにいた。


 由里には母親の愛情というものが、今一つ分からなかった。

 記憶の中の母はいつも不機嫌で、妹ばかりかわいがっていた。

「ねえ、お母さん。授業参観、来てくれる?」

「実花と同じ日なんだよね。小さい子優先するわね。お姉ちゃんだから我慢してね」

 授業参観の日が重なるときは、そう言っていつも妹の方を見に行っていた。由里はそれが当たり前かと思っていたけれど、大人になってあるときふと、妹とは二つしか違わないことに気づいた。

 二歳の差。

 姉であって、いいことなど、ほとんどなかった。

 服も由里は従妹のおさがりを着て、実花は「実花にはそれは似合わないから」と新しいものを買ってもらっていた。「由里はこれが似合うわよ」と言われていて、そうかもしれないと思っていたけれど、修学旅行に行く六年生のとき、そのとき流行っていたチェックのスカートが欲しくて、母に「こういうスカートが欲しいの」言った。母は「へえ、かわいいわね」と言った。

「うん! みんなね、こういうのを着ているから、由里も欲しくて」

「分かったわ」

 いつ買いに行くか楽しみにしていたら、しばらくして母が着古したスカートを手にしてきた。

「はい、これ」

「え?」

「由里、こういうのが欲しいんでしょう? もらってきてあげたわよ」

 それは、似ているけれど、でも少し古いデザインで、それに新品ではなかった。

 由里はスカートを手にして、じっと見た。

「はいてごらん?」と母が言うので、スカートをはいた。少しゆるかった。

「ゆるいけど、いいじゃない。かわいいかわいい!」

 ああ、わたしは服は買ってもらえないのだ、と理解した瞬間だった。

「何よ。せっかくもらってきたんだから、もっと喜んだら?」

 母が怖くて「ありがとう、お母さん!」と一生懸命、笑った。

 そうだ。

 折り紙一つ、買ってもらえなかった、と思い返した。

 気分がよければ買ってもらえたかもしれない。

 だけど、授業で使う以外のものは、折り紙でもノートでも、何一つ買ってもらえなかった。

 理由は分からない。

 ただでも、実花はいつでも好きなものを買ってもらっているように見えた。

 そう言えば、と由里はまた思い出した。

 小学校に入る前のころ、公園に一人で遊びに行くと、他の子はみなお母さんもいっしょに来ていた。幼稚園から帰ったあと「こうえんにいきたい」と言うと、母は「一人で行ってらっしゃい。実花がまだ小さいから」と言われたのだ。

 でも、実花にはいつも母がつきそっていた。「小さいから」と。


 由里には母の愛情というものが、いまいち分からなかった。

 そう言えば、高校生になってからは、お弁当も自分で作っていた。実花の分が必要になると、実花の分も作っていた。なんだかそれが当たり前のような気がしていた。

 小さいから。

 妹だから。


 由里は小さい子を見ても、少しもかわいいと思えなかった。

 お腹にそっと手をやる。

 この子も、小さい。大きくなっていくけれど、とても小さい。

 ――不安だった。

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