悪阻

西しまこ

1.

 悪阻がこんなにつらいとは誰も教えてくれなかった。

 由里は布団の中でスマホを見た。

 もうすぐ、博之が帰ってくる。

 由里はのろのろと布団から出た。

 掃除はなんとなくしている。でも、まだ食事の支度をしていない。夕ごはんの支度をしなくてはいけない。なぜなら、由里はただの専業主婦だから。家事をしていないと、存在意義がないような気がしていた。

 身体が重い。

 ずっと気持ちが悪い。

 すっきりした日なんて、妊娠してからただの一日もなかった。

「ごはんは適当でいいよ」と博之は言う。

「ごはんとお味噌汁と、あと肉を焼くくらいで」と。

 ごはんの炊けるあのにおいもつらい。立っているのもしんどい。お味噌汁の出汁はにぼしと昆布。お味噌汁を作るのは非常にめんどくさかった。肉を触るのも気持ち悪い。何もかも、全てが気持ち悪かった。食事の支度はこんなにつらいものだったのだろうか。

 のろのろと食事の支度をする。

 ゆっくりゆっくりとしか、進めることが出来ない。

 自分がこんなにも家事が出来ない人間だったのかと思い知らされる。

 一日中だるいので、ベッドの中にいる。だから、掃除もなかなか出来ない。洗い物も洗濯もなかなか出来ない。

 博之は優しい。

「今度で出来るから、掃除しておいてね。出来るときでいいから」

 と言う。怒ったりはしない。

 だけど、「出来るとき」なんて、ほぼないのが実情だった。

 洗い物がたまっていても、博之は怒らない。だけど、ずっとそのままだと、食事が出来ない。洗うしかないのだ。博之は怒らないけど、お皿一つ洗わない。

「家事は、由里の仕事だからね」と博之は言う。

「洗濯も毎日してね。朝でも夜でもいいから」と博之は言う。

 

 由里は思う。

 博之の言葉は、やわらかい棘のよう。

 わたしの肌にちくりちくりと刺さる。

 やわらかすぎて、抜くことも出来ない。

 そして、ひりひりと肌を焼く。

 

 がちゃりと玄関が開く音がして、由里はびくりとする。

 なるべく急いで、玄関に行く。

「おかえりなさい」

 玄関が開いて、博之が笑顔で「ただいま」と言う。由里は、自分は笑顔でいられたかどうか、自信が持てずにいた。

「ごはんは?」

「ごめんなさい、もう少し」

「いいよ。妊娠中だものね。――着替えてくるよ」

「うん」

 博之は着替えて戻り、そして由里のお腹をそっと触った。

「ここに僕たちの娘がいるんだね」

「うん」

「嬉しいなあ」

 博之は愛おしそうに由里のお腹を撫で、「早く会いたいなあ」と言い、それから、由里の顔を見て、「待ち遠しいね。……どんな子かなあ、楽しみだね」と言った。

「……うん。あ、ごはんの続き、作っちゃうね」

 由里は曖昧に微笑むと、そう言ってキッチンに行った。

「よろしく!」

 博之はソファに座って、テレビのチャンネルを点けた。

 由里は急いで料理を仕上げる。

 食卓にお皿を並べ、お箸を並べる。お茶碗にごはんを盛り付け、お味噌汁を入れる。

「博之さん、出来たわよ」

「ありがとう」

「由里は料理がうまいね」

「……そんなこと、ないよ」

「由里、いつもありがとう」

 由里はごはんを少しずつ食べる。でも、食べれば食べるほど、気持ちが悪くなってしまって、箸が進まない。

「なかなか食が進まないね?」

「あ、うん」

「ずっと家にいるからかな? ちゃんと身体を動かした方がいいよ。それに、お腹の中の子のためにもちゃんと、食べてね」

「……うん」

「そう言えば、トイレが汚れていたから、あとで掃除しておいてくれる?」

「……うん、ごめんなさい」

「怒っているんじゃないよ」


 博之は優しい、と由里は思う。

 だけど、やはりやわらかい棘なのだ。

 ちくちくと肌にささり、ひりひりと肌を焼く。

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