【短編】恋は水色

イソシギ

恋は水色

 ペンキで塗りつけたような、どぎつい原色の水色を見ると気分が高揚するような感覚があった。それはどこか懐かしさを含んだ感情で、俺は原色の水色を見るたびにいつも同じような心持ちになるのだ。それはある種の躁状態のような、喜びが形を持って身体の内側から喉元まで駆け上がってくるみたいな気分だった。


 俺がそれを思い出したのは、シャワーを浴びに行った彼女が脱ぎ捨てた水色のシャツを目にしたときにちょうどその感覚が想起されたからだ。その根元を辿ると、俺が子供の頃に肌身離さずいつも持ち歩いていた玩具を思い出す。それはまさに彼女の着ていたシャツと同じような水色をしていて、一見ワゴン車のような見た目のミニカーだったが内部のパーツを動かすと魚みたいな造形をした怪獣のフィギュアに姿を変える代物だった。あれの名前が何だったのかは既に思い出せないし、そもそも版権のついたキャラクターだったのかもわからない。何故ワゴン車と魚をモチーフにしたのかもだ。だが物心がつく前の俺はその人形をいたく気に入っていて、トイレに行くにも旅行に行くにも常にそれを持ち歩いていた。


 勿論今の俺が心の底の方で色めき立っているのは、愛用していたその玩具を思い出してその郷愁に浸っているからではない。それは恐らく俺の中で既に微粒子の大きさまで細切れになった記憶が思い起こされているようであった。遥か昔の俺がその水色を昼夜を置かず持ち歩いていた時の高揚感が、まるでパブロフの犬が涎を垂らすのと同じように記憶の隅のところから蘇っているのだ。きっと誰にも自分自身の深奥に染み付いた原体験的な嗜好を掻撫でるような事物があって、俺の場合のそれは、この水色なのだ。


 ああそうだ、思い返せば今日の俺は自分でも不思議なくらいやけに機嫌が良かった。行きつけの居酒屋のビールはいつも通り泡が少なくて少しぬるかったし、今日初めて食事をした彼女との会話は然程盛り上がったわけでもない。それでも俺の胸中はさながら旅行前夜のように踊り狂い、そのままもう一軒、もう一軒とグラデーションをかけるように内装の暗い店へと渡り歩き気がつけば現在に至る。恥ずかしげもなく言い訳をしてみるならば俺は、普段から日夜を無責任に遊び歩くような暮らしをしているわけではない。今日だって彼女と顔を合わせるまでは人並み以上に緊張なんかもしていた筈だったが、彼女に会ったそばから俺はまさに"かかってしまった"ようだった。

 そこで俺の中に一つの疑念が湧き上がる。しかしそれについて考え始めるよりも先に廊下の奥の方からカラカラと戸を開く音がして、間もなく彼女が部屋に戻ってきた。ほとんど下着みたいな寝間着を身に纏って俺の側に身を寄せる彼女を目の当たりにしていながら、俺は存外冷静な心持ちでソファから立ち上がる。

「俺も浴びてくるよ」

 急に立ち上がる俺に不意をつかれた彼女は身を崩し、そのままソファの上に倒れ込んだ。

「ねえ」と不服そうな声を上げる彼女を背に俺はバスルームに向かう。乾いた音で戸を開いたバスルームの内側は彼女が撒いたシャワーの湯で濡れ、スチームのような生ぬるい空気が衣服を脱いだ俺の全身に纏わりついた。蛇口を捻る。シャワーヘッドから飛び出した湯はいやに熱い。背中のあたりが痒くなる感じがして、酔いが回りだした。


 熱湯を浴びながら俺は少しだけ頭がぼおっとして、空想に思考を奪われる。脳裏に浮かぶ景色は一面に広がる果てのない水面だ。その水はどこまでも不透明な水色で、近づいても手にとっても少しだって澄み渡りはしない。かつて俺が好きだった身体に悪いジュースみたいな色の水が、さらさらと、ちゃぷちゃぷと、俺の全身を揺らす。やがて空想の水は徐々に干上がりはじめて、空から温かい雨が降り出す。降り出した雨はシャワーのお湯になり、俺は現実のバスルームへと帰ってくる。そして俺は先刻に過っていた一つの疑念に対して改めて逡巡した。

 そうだ。俺は今日、確かに自らの心理によって彼女を選んだ筈だ。だが思い返せば俺は自分自身でさえまったく思い至らないところで彼女の胸元から覗く水色に心を奪われ、さながら満月の夜の狼男のように、まるで制御不能な強い意思みたいなものに突き動かされていたのではないか。今日のそれがまったくの無意識なのだとしたら、俺はこれまで自分が選んだ選択肢の一つ一つを疑ってかかることになる。俺がこれまで理性的に、人間的に選んできた筈のありとあらゆる決断は、本当に俺の意志だけによるものだったと言えるだろうか。ふと背筋が冷えるような思いがした。


「いつまで入ってるの?」

 ただ身体を洗うには随分と長い間俺は浴室に閉じ籠もっていたようで、待ち侘びた彼女が擦りガラスを挟んだ向こう側まで様子を見にきた。戸を半開きにして「もう出るよ」と俺は彼女に応えようとする。脱衣所には暖房の熱が届いていないためか、冷ややかな空気が浴室に流れ込んだ。彼女もまた寒そうに身を強張らせており、寝間着の上からあの水色のシャツを羽織っていた。その姿が網膜に焼き付き、体中に血液が巡っていくのを感じながら、やっぱり俺は少しばかりおかしいのだということを思い知った。


 翌朝、といっても短針が既に下りに向かい始めたような時刻に俺は彼女と別れてひとり地下鉄に乗っていた。休日だからか乗客は多く、俺は人の隙間を縫って一つだけ残っていた空席に自らの身体を押し込んだ。腰を下ろした途端にどっと全身が重くなる。昨夜は随分と遅くまで起きていたが、昼過ぎまで眠っていたのだから睡眠時間が足りていないわけではない。それなのに俺は鉛みたいになった頭を垂れて、普段は辟易するほど固いシートに深く腰を沈み込ませていった。耳に挿したイヤホンから流れるのは親の世代の頃に流行したフォークロックバンドの曲で、それが車窓の外側の暗闇で響いている轟音と混ざり合って騒ぐ。俺はそのどちらに耳を傾けるでもなく、ただただぼうっと中吊り広告に視線を向けていた。


 そのまま十五分ほど揺られていると、電車は目的地の駅に到着した。通路を五分ばかり歩いて地上に抜ける。そこから更に十数分ほど歩いた先の駅で乗り換えれば一本で最寄り駅に着く。もっと簡単な経路も幾つかあるのだが、通勤定期を使えて安上がりなので俺はいつもそのルートを辿っている。真昼の照りつける太陽を浴びながら歩き出すとすぐに、身体はより一層気怠さを覚え、まるで水中を歩いているように足取りが重くなった。やはり昨夜は幾分か飲みすぎてしまったらしい。思えば随分と要らないことばかりを考えてしまっていたような気がする。この足取りでは家に帰ることすらままならないと思い、俺は地下鉄の駅を抜けてすぐの表通りにあるネットカフェで少しばかり休息をとることにした。


 個室に通された俺はすぐさまフラットシートの上に倒れこみ、そのまま小一時間ばかり眠った。目を覚ましてからドリンクバーで烏龍茶を汲み、それを一口でぐいと飲み干すと随分と気分が楽になる。退室時間まではまだ暫しの余裕があったので、俺はフラットシートの上で身を起こし、備え付けのデスクトップPCでブラウザを立ち上げた。動画配信サイトの新着を幾つか見漁った後、俺はクラウドに保存してある自分のフォトアルバムを開いた。昨夜これまで自身の下した種々の選択を思い返していたせいか、それらが妙に懐かしく回想され、アルバムを見返したくなっていたのだ。高校生の頃の俺が一目惚れして毎夜の如く思い焦がれた軽音楽部のあの娘や、大学二回生の頃からおよそ四年ほど交際していた彼女、大学進学に際して単身で乗り出したあの街の記憶、就職をしてから現在まで三年間居着いているこの街の景色、それらを遡るように俺は自分の半生の瞬間が並べられた画面を一心にスクロールし続けた。そして俺は気がついてしまった。


 軽音楽部のあの娘のことは今でもよく覚えている。一年生の文化祭でギターを弾いて歌う彼女の姿を初めて見たとき、俺は雷に打たれたような衝撃を受けたのだ。以来密かなファンであり続けた彼女とは三年生の時に奇しくも同じクラスになってからは多少話のできる程度の関係性を築き、最後の文化祭でライブの後にはツーショットを撮ってもらった。写真にうつる彼女は肩から水色のストラトをぶら下げていた。

 四年間交際した彼女と撮った写真は俺のライブラリの中でもかなり多くの割合を占めている。今ではただの記録にしか過ぎないが、数多の思い出が静止画の彼女の姿から蘇った。余程気に入っていたのだろうか、写真にうつる彼女が大半のシーンで身につけていたのはトルコ石を繋いだ水色のブレスレットだった。

 挙句の果てに大学の校章も会社のロゴマークも言い逃れのしようがない程に鮮やかな水色だったことに気が付くと、俺はとうとうその因果に対して恐れを抱き始める。たとえ無意識であれ俺の人生における種々の選択は、このたった一つの色によって左右されてきたという憶測はなまじ真実味を帯びてきた。


 ネットカフェを出ると既に陽はこの街の裏側を照らしに行き、あたりは仄かに青みがかった暗闇に包まれていた。その青黒い世界の景色は疑懼の念で曇った俺の心をより一層冷たくさせるが、だがその冷えるような景色と吹き付ける外気のお陰か、俺は少しばかり冷静にもなっていた。俺は今一度自身の性癖に向き合ってみる。俺の記憶の最奥にある最古にして著大な水色の記憶はあの玩具である。後天的に俺の嗜好に影響を与えているものがあるとすれば間違いなくそれだが、では”それ自体”はどうして俺の琴線に触れたのだろうか。それをどういう経緯で買い与えて貰ったのかは、既に俺の記憶の中からは抜け落ちている。それはたまたま目についたからなのか、あるいは幼い俺がそれをひどく欲しがったからなのか。もしも俺の深層に多大な影響を与えたと思われるその玩具自体が、これまで俺が選び取った進路や思慕の情を抱いた人々と同じように『水色だったから』というふざけた理由によって選ばれたものであるならば、俺のその先天性の性癖はどこまで行っても切り離せない呪いのようでさえあると思った。だが既に当時の古い記憶を忘れてしまった俺にとって、その序次を辿ることは卵と鶏のどちらが先かを考証するのと同じことだ。


 例えば今日の間中ずっとイヤホンから俺の耳に流れ込んでいた古いフォークロックバンドの曲だってそうだ。もともとこれは両親の趣味で、物心のつく前からリビングやドライブする車の中で彼らの音楽を聞かされ続けた結果、物心のついてから現在に至るまでもこの耳に馴染み果てた曲の数々を未だこよなく愛している。それ故か自分の現在の音楽的嗜好もまた、彼らの歌うようなフォーキーなものに偏ってしまっているが、ではこの俺の好みは後天性のものと言えるのか? それはなんだか違うような気もするし、正しいような気もする。自らが能動的に店のレコード棚を漁り始めるよりもずっと前から刷り込まれた音とメロディーによって形成されたこの嗜好に俺の意思が関与する余地はなかった筈だが、それでもその刷り込みがなければ俺の嗜好は今とは全く異なるものになっていたかもしれない。

 とどのつまり、嗜好であれ思想であれ、きっとどこかで無意識の源流に辿り着くことがある。それはきっと誰しも当たり前のことであり、きっとその源流に回避性はない。俺はそんな当たり前のことを今更噛みしめた。


 空を見上げると先刻まで青みがかっていたのがすっかり漆黒に染まり、半分より少し膨らんだ月の黄色が目障りな程映えて光る。もし俺があの淡い黄色を愛してやまない性質を持っていたならば、俺の人生は今とは悉く変わっていたのかもしれないとふと思ったが、その『もしも』を考えることにだって大した意味はない。俺は首を上に傾けたまま、ゆっくりと歩き出した。月の灯りは歩道の対岸に据える銭湯から突き出た煙突から昇る煙によって薄く覆われて束の間だけ見えなくなる。そしてその煙が晴れたとき、空には目を疑うような光景が広がっていた。空中に浮かぶ黄色が、二つに増えていたのだ。

 そのうちの一つが徐々に肥大化し、俺の立つ夜の歩道まで迫り詰める。その光は俺の眼前にて静止し、ごおと風を切る轟音がイヤホン越しに耳をつんざいた。近くで見るとそれは寺院の梵鐘のような細長い半円形をして、手で触れずともその硬質さがわかる。やがてそれは金切り声のような甲高い音を放ち、その側面がシャッターのように捲れ上がった。それと同時に俺の頭の中に音とも声ともつかない何か(信号とでも呼ぶのが適切だろうか)が聞こえる。『聞こえる』という表現もいささか不適切で、例えるなら聴きこんだ音楽が頭の中で何度もリフレインしている時みたいに、聴覚を介さず脳内に直接鳴り続けるような感覚だ。それは言語でないにも関わらず、その信号の意味する内容が俺には自然と理解できた。空から降り立つ物体を目にした時点でまさかとは思っていたが、この信号の主は、異星人だ。


 その信号によると彼らは地球人との対話を目的にこの地球に降り立ったようであり、何故その対象として一市民に過ぎない俺が選ばれたのか、はたまたそれは単なる偶然であるのかは皆目見当もつかなかったが、黄色い梵鐘の側面から姿を現した彼の姿を目にすると俺はこれまでの全てが腑に落ちたような、そんな気がした。現れたそれは所謂”人型”といえるような形状からは程遠くかけ離れていて、俺がこれまで見てきたあらゆる生物や物質のどれにも喩えられず、持ち合わせの語彙では端的に形容することができない輪郭をしていた。それでもただ一つ彼の風貌には大きな特徴があり、実際のところ、俺はその姿を見た瞬間に彼の信号が語る内容や先刻までの考え事がすべて吹き飛んでしまう程に、完全に心を奪われてしまっていたのだ。彼の体表はペンキで塗りつけたような、どぎつい水色をしていた。

 彼の差し伸べる先端に触れ、俺はそのまま手を引かれるようにして彼の搭乗する半円形の飛行船の中に吸い込まれる。そして俺を乗せた飛行船は、そのまま雲を抜けて天の遥か高くまで昇っていった。

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【短編】恋は水色 イソシギ @kaoru522

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