第30話
国語教師が黒板に文字を書き、教室はチョークが黒板にぶつかり合うカッ、カッという音と、三十人近い初々しい生徒たちのシャープペンをノートに走らせる音ばかり。
俺は、ちらりと教室の後方を見た。
みな、顔を上げたり、下げたりしながら、一心に板書の内容をノートに書き込んでいる。
宵待深月もまた、その大勢のクラスメイトのうちの一人にすぎなかった。
俺は、胸が締め付けられるような思に襲われて、それ以上彼女を見つめることが出来ず、すぐに黒板の方へ向き直った。
結局、向こうの世界で一か月近くの間、俺はこのクラスに居たというのに、碌にクラスメイトの名前と顔が一致しなかった。だがもちろん、彼女のことはしっかりと覚えている。
頭の後ろで一つに束ねた滑らかな黒髪、降り積もったばかりの新雪のように白い肌、眼鏡の奥の理知的な丸い茶色の瞳。
散々、共に時間を過ごした彼女は、この世界でも彼女のままそこに在った。難しそうな顔をしている以外、外見は寸分たがわぬ、彼女に違いなかった。
しかし、彼女は間違いなく、俺の知る彼女ではなかった。
いつだったか、あれは深月の席の横を通り過ぎようとした時だった。
彼女は何やら机で書き物をしていて、消しゴムを落とし、座ったままそれを拾おうと手を伸ばしたところだった。
ころころと無作為に飛び跳ねて俺の足元に転がった消しゴムを、思わず拾い上げて深月に寄越したことがある。
深月の表情に僅かばかりの緊張が見て取れたが、その目が俺を認識した時には、深月は恥ずかしそうに、強張ったほほえみを浮かべて、
『ありがとう』
と頭を軽く下げた。
あの時の俺は、あぁ、と曖昧な返事をすることしかできなかった。
その時、俺は確信した。
この宵待深月は、あの宵待深月ではない。
そう思えば思うほど、俺は苦しくなって、意図せず嗚咽を漏らしてしまいそうだった。
あの奇妙な世界で、たったの一か月。
俺と彼女の築き上げた友人関係は、僅かそれだけの期間でしかない。
それでも、全てを消し去って新しく始めるには、その一か月の思い出は、俺にとって。
俺にとって、あまりにも巨大すぎるほどに存在感を増して、かけがえのないものになっている。
俺はまた、彼女と友人になれるだろうか。
一緒に飯を食い、笑い、馬鹿にしあえるような友人になれるだろうか。
俺たちは、お互いを信じることが出来るだろうか。
そう考えたとき、ふと、いつの日か彼女が言った言葉が脳裏に蘇ってきた。
『そうやって少しずつでも、あなたが信じられる人が増えていくなら……私は嬉しい』
――そう、きっと彼女も、それを望んでいるに違いない。
昼休み。高校生活も一週間経てば、それとなくグループが形成される。自然と隣同士で机を寄せあったりとか、教室の一角に固まって弁当を広げたり、一方でまだまだクラスに馴染めない生徒は自席で一人、黙々と弁当を摘む。
宵待深月もまた、クラスに馴染めない生徒の一人だった。
俺は弁当と本を掴んで、颯爽と立ち上がる。
勇気なんていらない。いつもそうしていたように、一声かけるだけなのだから。
「あの」
「「「お弁当、一緒に食べない?」」」
その声は、まるでステレオのように三重になった。
俺たちは、驚いたように顔を見合わせて、それから奇妙な偶然に笑ってしまった。
お前の言う通り、世の中は屑ばかりじゃない。
良い人間もいるんだよな、深月。
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