第29話
肩に痛みを感じて、俺は目を覚ました。身体を丸めてうつ伏せに近い姿勢になっていたようで、身体の下にしていた方が痛んでいた。
俺は、痛みに喘ぎながら、身体を起こした。
そこは、まぎれもなく、学校の教室に違いなかった。机や椅子まで、誰一人生徒が居ないということをのぞけば、その場所は学校の教室そのものだった。
しかし、窓の外に見えるはずの町並みは、今、全てクリーム色に塗りつぶされ、何も存在していないようだった。
――ここは、深月のワンダーワールドだ。
俺は、いや、俺たちの作戦が成功したことを確信した。
「ようやくお目覚めかしら。まったく、迷惑千万ですわ」
俺は、その声の主を振り返った。日之出朝陽が、教室の後方で机の上に腰を掛けている。その席は、宵待深月の座席であり、また、いつか見た日之出朝陽の座席でもあった。
「ここは、宵待深月のワンダーワールド。まんまと引きずり込まれてしまいました。異形も、あなたに戻ってしまったようですし」
俺は、口元を歪めて笑った。
「は。ざまあみろってんだ。お前は、負けたんだよ」
「ふふ、本当にそう思っていまして?」
「何が可笑しい」
「可笑しいに決まっています。ここは宵待深月の作った世界で、この宵待深月は私がオリジナルの宵待深月 から作り上げた存在なのですから。私が、私のワンダーワールドでそうするように、すべてのものを自由に扱うことは叶いませんが、宵待深月を意のままにすることは、私にとって造作もない事ですもの。ねえ、宵待さん」
朝陽は、俺の背後の誰かに向けて、そう囁いた。俺が振り向く間もなく、宵待は俺の背後から、朝陽のもとへ歩き出した。
「おい‼深月‼」
そんなはずはない。
だってこの状況を作り出したのは、ほかならぬ深月なのだから。彼女は日之出朝陽に対抗するために、このワンダーワールドを作り出したに違いないのだから。
「あはは、無駄無駄。だって彼女は、私のものなのです」
机の上に座った朝陽は、ぷらぷらさせていた足を止めて、机から飛び降りた。そのすぐ近くへ、深月は近寄って行って。
次の瞬間に、深月は朝陽を抱きしめていた。
「……何のつもりですの?」
怪訝な顔の朝陽が、じっと深月を見つめている。
俺からは深月の後頭部しか見えず、深月がどのような表情で今そこに在るのかは、伺いようが無かった。
「このワンダーワールドを、外界から隔絶したわ。どんな存在であろうと、この世界から出ることも、また入ることも、最早かないません。そして」
「そんなもの、私の権限を持ってあなたに命令をすればいいだけの……」
「できますか?」
朝陽の表情からは見る見るうちに笑みが消えうせていった。
「なぜ⁉あなた、一体何を……」
「できないでしょうね。ここは、既に隔絶された世界。隔絶された世界では、私があなたによって作られた、という因果律は既に失われ、私は私という個に、あなたはあなたという個に到達するだけだわ。この世界ではもう、私があなたの指図を受けることは無い」
「わたしを、このワンダーワールドから出しなさい。これは命令です」
朝陽は、傍らの深月を必死の形相で睨みつけた。
ふふ、という深月の笑い声が聞こえた。
「まだ分からないの。あなたは、私と一緒にここで永遠を過ごすのよ。この何もない教室で、永久の時を」
「このっ……‼離しなさい‼」
両手で深月を引きはがそうと、朝陽は必死の形相で、滅茶苦茶に藻掻いた。
「……それほど嫌かしら。あるいは、隔絶されたこの世界では。私は自らの万能性をもって、もはやあなたを消すことすら、何も難しいことは無いのよ。もちろん、相応の犠牲はあるのだけれどね」
深月の冷たい声に抵抗する声は、どこにもなかった。
深月がそう言った時には、彼女が抱きしめていたはずの日之出朝陽は砂となり、一瞬で崩れ去ってしまっていた。
「深月……」
俺はただ、そう彼女の名前を呼んだ。
俺は喜んだらいいのか、悲しんだらいいのか、分からなかった。
それは、彼女がたった一つだけ、俺に授けた武器。
それは、あの暗闇のリビングで、彼女が俺に伝えた作戦。
暗闇のリビングに寝ころんでいた俺はあの時、その行為の意図は皆目見当がつかなかったが、音も光も無い状況が、彼女には必要だったのだ。
日之出朝陽の監視から逃れるために。
あの時、深月は俺の掌に、指で文字を描いた。
『なにもしゃべらないで』
『もし、あぶない目にあったら』
『わたしから、ちゅういをそらして』
『わたしを、みせないで』
彼女が伝えたのは、そんな内容だったと記憶している。
今、全てが終わった今になって、ようやく理解した。
俺がこの体に宿し、朝陽に乗っ取られていた異形とは『観測する』という異形だということに。
存在そのものは、存在しているという状態を観測する観測者がいるからこそ、確定される。
日之出朝陽は、俺を見ていた。それはつまり。宵町深月を見ていなかった。
宵待深月を、認識の外に追いやったのだ。
認識が消えれば、存在への命令は遂行されない。
このワンダーワールドは、そうやって朝陽の『観測』を逃れた深月が作り上げた、最後の武器だった。
俺の方を振り向いた深月は、寂しそうに笑った。
「ごめんなさい。私は、あなたを騙していた」
「……違う」
「いいえ、違わないわ。騙すという行為によって被る被害には、その原因が故意なのか、過失なのかというのは、大きな問題ではないの。無知であることは、決して免罪符にならないわ」
「断じて違う。重要なのは俺が、騙されたと思っているか、騙されたと思っていないか、ただそれだけのシンプルな話だ。そう、認識の問題でしかない」
「ふふ。あなたは、どう思っているの?」
「俺は……深月を信じている」
その瞬間、目の前の景色にノイズがかかったように、揺らぎ始めた。
「……もうすぐ、この世界は崩壊してしまうわ。日之出朝陽が消滅したことで、日之出朝陽が構築した世界と存在、つまりは私自身が、ともに消滅しようとしている。私の作ったこのワンダーワールドも同様に」
深月は、今にも泣き出しそうな顔でそう呟いた。
「……もう、どうにもならないのか」
生気のない彼女の顔を見て、俺は救いを求めるようにそう尋ねた。
彼女は小さく、首を横に振った。
「ただおそらく、あなたは消えないわ。だってあなたは、日之出朝陽に生み出された存在でもなければ、私によって生み出された存在でもない。あなたは、あなたが元居た世界に帰る。それだけよ」
「俺の中の異形は、どうなるんだ」
「見当もつかないわ。元の世界で霧散するのか、あなたに残るのか、それとも、ここに残るのか」
目の前の光景のノイズは先ほどより酷くなっていた。教室はまるで水彩絵具を混ぜ合わせたように、様々な色合いが混ざり合っていた。
時間は、あまり残されていない。
「異形については、他にも、可能性はある」
俺は、俺たちは先ほど、その可能性を目にした。
「日之出朝陽のしたように、俺から異形を引きはがすことはできないか。ただし、半分だけだ。俺とお前で、異形を半分に分ける。結局こいつが何の役に立つかは分からないが……お前にも、持っていて欲しいんだ。ほら、二人なら、悲しさ半分、喜びは二倍っていうだろ」
俺は、考えていたことを深月に告げ、無理やり笑顔を作った。
もし、日之出朝陽の言う通り、異形とやらが世界脱出の鍵なのだとしたら。一部でも深月に託すことで、彼女が生存するための役に立つかもしれない。
崩れ行く世界の中で、深月は弱弱しく笑った。
「そんな器用なこと、できるかしらね」
「駄目でもいいさ。やってみなきゃ分からないだろ。やらなきゃ可能性はゼロなんだ。ほら、時間もなさそうだ」
「……そうね、わかったわ。やってみる」
深月はそう言うと、俺に近寄ってきた。
「できれば触るのは首以外で頼む。朝陽の手を思い出しちまうからな」
「注文が多いわね。もう聞かないから。」
目の前の深月が、俺の右手を取って、彼女の両手で包み込んだ。その、か細い手に俺はぬくもりを感じた。
「なんだか、お別れみたいだ」
口を衝いて出た言葉を、俺はすぐにでも取り消したかった。そんなことを言っては、これが本当の別れに成りかねないではないか。
「それでは、こうしましょう。きっと、こう言う方が、友達っぽいと思うから」
そう言って……慣れないからであろう。ぎこちなく破顔した彼女の目尻からは、一筋の涙がこぼれた。
「またね」
それが、その世界で俺が見た、宵待深月の最期の姿だった。
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