第26話
《六章》
俺は余りの眩しさで目が眩んで、覚醒した。
カーテンの隙間から指し込む光が、顔に当たっていた。
思わず飛び起きた俺は、壁掛けの時計を確認する。既に一〇時を回っていた。大遅刻だ。
そう思うと同時に、理不尽な怒りも湧いてきた。確かに起きなかったのは俺の責任だが、どうして誰も起こしてくれなかったのか、と。
深月が眠っていたソファを見ると、底はもぬけの殻のただのソファになっていた。荷物もない。先に学校へ行ったのか。
紗那絵も紗那絵だ。リビングで俺が寝ているのを見かけたのなら、起こすぐらいの手間はかけてもバチは当たらないだろうに。おそらく、二人して遅刻する俺を妄想し、寝るがままにしておいたのだろう。余りに意地が悪い。
俺は当然朝食など取っている暇もなく、ましてや弁当など作っている暇は全くなくて、怒りと焦りをごちゃまぜにして、すぐさま準備をして家を飛び出した。
学校に向かっている間も、夜更かしした自分が悪かった、とか、何か理由があったのでは、とか、もしや飾利に何かあって俺を起こす暇もなく急いで家を出たのでは、など様々な思考に苛まれていた。
かといって携帯電話にはそのように緊急性の高い連絡は来ておらず、結局俺は子供の言い訳のように、起こしてくれなかった深月と紗那絵を心の中で責め続けた。
学校に就いた俺は一応、担任に遅刻を報告してから、授業の途中からでいいから教室に行くよう言われ、こっそり自分の教室へ向かった。
一年四組の教室の前で、俺は立ち止った。
教室の俺の席は、窓側前方であるため、いくらこっそりと入ろうとしたところで無駄である。とはいえ目立たないに越したことは無い。
俺は、出来る限りの隠密術を駆使して気配を消し、教室の後方から入室すると、ゆっくりと自席に向かった。
しかし、気配を消した甲斐も無く、早々に教師によって見つかってしまった。当然である。教師は教室全体を見渡せるのだから。
「宮越、遅刻か」
「はい、すいません」
そのやりとりで、クラス全員がこちらを見た。
俺は焦りと恥ずかしさで、急いで席に座ろうと――。
――宮越?
それは誰だ。
クラスにそんな苗字の人間がいれば、俺は間違いなく覚えている。
だってそれは――。
それは、俺が。
俺たち家族が、捨てたものだ。
俺は、俺に目線を集中している顔の主たちを見た。
いない。
深月がいない。
真帆がいない。
向島がいない。
いや、誰一人。
俺はこの人たちの顔を、知らない。
「みやこし?だいじょうぶか?」
それは、もはや脳が理解を拒否したように、ただ意味もなく羅列された雑音でしかなかった。
心臓は激しく脈打ち、臓腑はまるで液体の鉛を飲み下したように、重く、冷たい。
――厭だ。
俺は教室を飛び出した。改めて教室の看板を眺める。そこには明らかに、一年四組、とある。見間違いなどではない。
俺が間違えているのでなければ、皆が間違えているのだ。
馬鹿か。そんなことが有り得るか。
思考は錯綜し、こみ上げてきたものを堪え切れずに、俺はトイレへ駆け込んだ。
吐き出したのは、黄色い液体だった。食物と呼べるようなものはなく、俺は便器の中へ胃液を吐き出した。
泣きたくもないのに、涙が出る。鼻水も出る。俺はトイレットペーパーを巻き取って、顔を拭った。
嫌な予感は続いている。耳の奥がじんじんと痛い。
俺は、頼みの綱を求めて、トイレを出た。
……あいつなら、何とかしてくれるはずだ。
俺は、一年二組とかかれた教室の前につくと、ゆっくりと、教室後方の扉を開けた。
授業中の生徒たちはみな、俺の存在に気付くことなく、黒板や教師を注視している。全ての席が埋まっている。
俺の身体は、血液を失った。
後姿を見れば、分かるのだ。
俺は何年もあいつの後姿を見てきた。
あんな特徴的な奴は、すぐに見つかる。
それでも。
どこにもいない。
なにやら教師が、俺を指さして喋っている。
何を喋っているのか、まったくわからない。日本語で話してくれ。
生徒達も、教師の指さす先を、俺の方を振り向いた。
その顔を見ても、やっぱりどこにもいないのだ。
誰を見ても、俺の知った顔ではないのだ。
あの、細い目つきの、端正な顔立ち。
西極喜兵もまた、存在しない。
俺は教室の全員に背を向けて、教室を出て扉を閉めた。後ろの方では、何やらざわざわと声が聞こえた気がしたがそんなことはどうでもいい。
俺は立っているのも億劫に感じられて、教室の扉の前にそのままへたり込んだ。
息が苦しい。肺が上手く動いてくれない。
鼓動の音が、煩いほど聞こえている。
俺は呼吸できているのか。
俺は、生きているのか。
ここは、そもそも俺が生きていた世界なのか。
――絶対に違う。
ここは、これまでの世界ではない。
何かに、引きずり込まれてしまった。
それは睡魔なんてものよりもっと恐ろしい。
ただ俺を、俺の精神を蝕み、全てを奪い去ろうとしている。
誰一人。
俺が親しい人間が、ここにはいない。
全てが奪われている。
そして、その簒奪者の名前には、唯一の心当たりがあった。
日之出朝陽。あの女しかいない。
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