第27話

 俺の足は、自然と生徒会室へ向かっていた。あの女は絶対にそこに居るという確信があった。例え授業中であろうと、あの女は、あの教室で俺を待っているに違いない。

 イタズラの成果を、俺がいかに精神を摩耗させているのか、この目で見るのを、楽しみに待っているに違いない。

 いつ、俺が屈服して頭を垂れるのか、指折り数えて待っているに違いないのだ。

 生徒会室の前で、俺は立ち尽くした。この扉の先に、日之出朝陽はいる。しかし、俺の隣には、深月もいなければ、喜兵もいない。頼れる存在は、いない。

 一瞬の躊躇いの後、俺は勢いよく扉を開いた。

 そこには。そこにいたのは。

「あれ、九夜くん?」

 まぎれもない、小柄の可愛らしい体躯をした人物。

 俺の信頼する人物の一人、古郡真帆だった。

 真帆が、不思議そうに首を傾けて、こちらを見ている。

 真帆のような何かが。

「猿芝居は止めろ」

「え?」

「真帆は俺を名前で呼ぶ。小学生の頃に、俺が『くやしい』と、名前をもじって虐められていたことを知っているからだ。だから真帆は、喜兵は俺のことを志渡と呼ぶんだ」

 真帆は、怯えたような顔をしてこちらを見た。そして――。

 いつかみた、加虐性愛者の、あの醜い笑い顔で、微笑んだ。

「慣れないことは、するものではありませんわね」

 それは間違いなく、真帆の声だった。しかし、俺が瞬きをしたその一瞬後には、真帆がいたその場所に、忘れるはずもない、日之出朝陽が立っていた。

 サディストの恍惚とした目と口元を、忘れるはずがない。

 朝陽は、以前そうしたように、スカートの裾を僅かに持ち上げて恭しくお辞儀をした。

「お久しぶりでございます。九夜くん。ようやく会えました。もっとも、それはあなたの固有認識からすれば、という意味でしかなく、私はいつもあなたを見ていましたよ」

「寒気がするね。ストーカーとは」

 朝陽は、口元を歪めて笑った。

「ストーカーだなんて、人聞きの悪い。私は、あなたの意思であなたと一緒に居ましたのよ」

 俺が望んで朝陽と共に居ただと。

「深月たちを、どこへやった」

「はて。その方々、存じ上げませんわね」

 朝陽は困惑したように、頬に手を添えながら、首を小さく傾けた。

「そんな言葉、信じると思うか?こんなことができるのは、俺が知る限りお前くらいしかいない」

 朝陽の白々しい言葉に、俺はそう吐き捨てた。

 俺の言葉を聞いて、朝陽は腹を抱えて笑い出した。

「あはは、声が震えていましてよ」

 俺は、その馬鹿笑いする朝陽を無言で睨みつけていた。

 ひとしきり笑い終えた朝陽は、なおも、気持ちの悪い笑みを張りつけた様に、顔に浮かべていた。

「まだ、足りないようですわ」

 朝陽は、そう小さく呟いた。

「わたくし、こういうことも得意なんですのよ」

 そう言うと朝陽は柏手を二回ほど打った。

 俺は思わず、天井や壁、後方に目をやった。また同じことを仕掛けるつもりか。

 どこからか、気持ちの悪いものを出現させて、俺を攻撃する。そんな予断をもって、俺は周囲を警戒した。

「外をご覧ください」

 俺は姿勢を低くして身構えた。逃げるわけにはいかない。何が来ようと、こいつを諦めさせるほかない。

 そうでなければ、皆を取り戻すことはできない。

「えー、右手に見えますのは」

 目の前の朝陽は、ふざけたような声色で左手の掌を上方へ向け、俺にとっての右側の窓を指し示した。

「男子生徒でございます」

 俺の頭は、一瞬、思考を停止した。

 窓の外を、何か黒いものが落ちていった。

 俺は、その言葉の意味を、必死に咀嚼しようとした。それは、まだ俺の脳の神経回路を、遅々として情報伝達していた。

「えー、左手に見えますのは」

 今度は、朝陽は右手を地面と平行になるくらいに持ち上げて、俺にとって左側の窓を。

 朝陽は、その口元を大きく歪めていた。

「やめろ」

 俺は無意識にそう呟いていた。

 こいつは、何をしている。

 いや、俺の頭は。

 この女がしていることを、理解している。

 理解したくもないのに、理解してしまっている。

「小さな女子生徒でございます」

 その直後、また黒いものが、上から下へ、一瞬の間に通り過ぎて行った。

 すぐあとになって、車のドアを閉めたような、ばん、という乾いた音が聞こえてきた。

「最後にご覧いただきますのが」

 朝陽は両腕を掲げた。

「生徒諸君でございます」

「やめろ‼」

 俺が放った言葉は、窓の外を絨毯のように通り過ぎて行った黒い塊に、掻き消されてしまった。

 何かがぶつかり合う音がしばらく聞こえて、それはようやく止まった。

「お前は……なにがしたいんだ」

 俺の耳には、次々と何かが弾けるような乾いた音が、残響のように残った。

 俺は、気付くと膝をついていた。

 俯いた顔にむず痒い感覚があり、地面に落とした手を伝った雫で、俺は自分が泣いていることに気が付いた。

「ふむ。これでも、駄目ですわね」

 朝陽は考え込むよう絞った声で言った。

「はあ」

 そうして、朝陽が心底失望したように大きくため息をついたのを、俺の耳は聞いた。俺は、四つん這いの姿勢で、朝陽の方を向いた。

「もう、終わりにしましょう。ねえ、宵待さん。一緒に九夜くんに教えてさしあげましょう」

 俺は朝陽が声をかけた方、俺の後方を、振り返った。

 そこには、覇気のない顔をした深月が、まるで吊り下げられているように力なく立っていた。

 その言葉に操られるように、深月はこちらを見て口を開いた。いや、深月だけではない。朝陽と深月の口の動きは、ぴったり同じだった。

「宵待深月は日之出朝陽。そして、日之出朝陽は、宵待深月ですわ。正確に言えば、宵待深月は日之出朝陽のサブアカウントのようなものかしら」

 うふふ、と朝陽は嬉々として笑った。

 俺は、声も出せずただ、その様子を眺めていた。

「あはは、驚いて声も出ませんか」

「……なぜ、深月を使ったんだ」

 俺は、うわごとの様に呟いた。

「言ったでしょう?あなたを丁寧に、虐めてあげると。愛とは、すなわち絶望ですわ。宵待深月、西極喜兵、古郡真帆、他人に心を許し、依存したあなたを、一気に奈落の底まで突き落とす。これほど、あなたを虐めるに効果的な作戦がありますか?私という仮想敵がいたから、あなた達は一層の団結を成し得たのではありませんか?」

 その朝陽の顔は、どんな獣より醜悪に歪んでいた。

 ただ、俺を絶望させるために。

 そんなことのためだけに、宵待と俺を仲良くさせたのか。

「この世界では、あなただけは、私の思い通りにできませんの。だって、あなたは私の世界の住人ではないもの。私の世界に迷い込んだ異分子。それがあなた」

 俺は、朝陽の語る言葉など、何一つ信じるつもりはなかった。そんなことはあり得ない。ここが朝陽の作った世界などと。

 だとすれば、俺の周りを取り巻いている人たちは、九夜飾利は、九夜紗那絵は、古郡真帆は、西極喜兵は、一体なんなんだ。みな、俺の記憶に寸分たがわぬ――。

「ふふ、わかっているんでしょう」

 俺は、朝陽の不敵な笑みに、言葉を失った。

 ひとつ、疑問だったことがあった。

 俺の良く知る西極喜兵は、徹底的懐疑主義者だった。

 俺が、日之出朝陽と邂逅し、そして宵待深月と再会したその日。

 日之出朝陽の目的はなんだろうか、と喜兵に相談したあの時だ。

 喜兵は、日之出朝陽は目的を終えている、と言った。言い切っていた。それ以外の選択肢はないのだ、と。

 あの喜兵が何故、出目を限定したような論理を構築していたのか。喜兵であれば、日之出朝陽の不在を『何らかの理由で不在』として、皆目、検討から外すような真似はしない。喜兵ならば、日之出朝陽の不在を『戦略的に不在』とも、考えたに違いないのだ。目的を完遂したのではなく、目的を完遂するために、『宵待深月を再生した』と、考えたに違いないのだ。 

「全部……?」

「ええ。彼ら彼女らを、私の都合のいいように、操作させていただいた。古郡さんには、過度にあなたや宵待さんと関わらないように。西極さんには、その論理構築において私の意図を決して気取られないように。もっとも、宵待さんだけは、あなたの監視役として何ら不自然さのないよう、命令を下しませんでしたが。彼女には、彼女としてあなたと仲良くなっていただく必要がありましたから」

 頭が痛い。じくじくとした痛みが側頭部を襲っている。

 全部がこの女の思い通りだったというのか。俺は、俺と宵待はこいつの作った盤上で、こいつの思い通りに踊らされていた――。

 「私は、いつもあなたを見ていました。あなたと初めて会ったその日から、あなたは私にとって、最重要人物でした」

「……ぞっとする話だ」

 適当に相槌を打つ。

 俺は必死で、こいつが何を目的に今、こんなことを喋っているのか頭を馬車馬のように働かせて思考していた。

 なんとか、奴の計画に一矢報いることはできないのか、と。

「あら。こんな美少女に見初められて、嬉しくありません?この姿、結構お気に入りなんですのよ」

 朝陽はそう言うと、滑らかな髪を手で掬い上げるようにして、なびかせ、スカートの裾を両手で軽く摘んで、くるくるとその場で回ってみせた。

「……吐き気がする」

「女の子を相手に、酷いですわね。でも、思い切った決断をするのは、いい気分です。私がここを後にしたら、お別れの餞別にお宵待さんとでも二人だけの世界を作って差し上げましょう。神のいない世界で好きに愛し合ってくださいな。アダムとイブのように」

 朝陽が喋り終えたあと、それはあっという間の出来事だった。俺はまるで十字架に磔にされるように、両手と両足が見えない何かに拘束されて、ピクリとも動かせなくなった。

「あなたは、本当に興味深い存在でしたわ。私の命令を聞かない、あなたそのものには全く干渉できない。記憶に干渉できれば、私はあなたの仲のいいご友人として、宵待さんではなく私があなたの隣に居ることもできたんでしょうけれど」

 そんなもの、絶対にお断りだ。俺には、被虐性癖は無い。

 朝陽はそうして、喋り続ける。

「あなたを殺そうと思えば、いつでもできたんですのよ。生徒会室で身をもってご存じでしょう。それでも、あなたを生かしたのは、あなたの生活を眺めていたのは、あなたこそが私の希望だったからですわ」

 うっとりとした目つきで、朝陽は俺を見た。

 朝陽の頬には朱がさして、想い人を前にした女性のような顔つきをしている。

「すべては、あなたに異界との接点があると思ったから。私は、あなたの中の異形がどう動くか。あなたを何かが助けるのか。あなたや、あなたの周りの危機に、何かが働くのか。ずっと観察していましたの。今だってそう。だから、できるだけあなたを害しないようにと気を遣っていたんですけれど、結局あなたは最後まで、ただの人間でしたわ」

「……できれば、二度と目の前に現れてほしくなかったんだが、今からでも気を遣ってくれないかね」

 朝陽は、咲いたばかりの花のような笑みをして言った。

「お断りですわ。もう飽き飽き。だからこうして、私がじきじきに会って差し上げていますの。考えていたのだけれど、あなたの中にある異界的要素を、私の中に引き込んでしまえば、そもそもあなたなんて必要ないのでありませんか」

 そう言うと、身体の自由を奪われた俺にゆっくりと近づいた朝陽は、俺の目の前に立った。

「だから、これは実験ですのよ。あなたの最大の危機に、あなたを何かが救うのか。あるいは救わないのであれば、私は異形を得ることが出来ますから、どちらに転んでも、私は利益を得る。これ以上の作戦がありまして?」

 不気味な笑みを浮かべた朝陽は、俺の頬にそっと手を触れた。酷く冷たいその指先に、俺は本能的に嫌悪感を抱いて、顔を背けた。

「さっさと頂いてしまいましょう。あなたの異形を」

 口元を醜く歪めた朝陽は、俺の首を右手で掴んだ。

 そこで、俺の意識は途絶えた。

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