第23話

 俺たちは、学校から歩いて十分ほどのところにある、最寄り駅に着いた。ここは田舎と言いながらも、ちゃんと駅員さんが駐在している有人駅で、有人改札ということに目を瞑れば、そこそこ立派な駅だと思っている。

 隣町までの切符を券売機で購入した俺たちは、深月の新しい仮住まいの話だとか、しばらく他愛もない話をしながら、駅のホームで時間を潰した。

 まもなくすると、電車が駅のホームに入ってきた。二両編成のワンマン電車である。

 乗車してみると、車内にほとんど乗客はいなかった。俺と深月は空いている対面式の四人掛けボックスシートを見つけ、向かい合うようにして座った。

「空いててよかったな」

 言い切ろうとした時に、深月は突然、俺の顔を両手で挟んだ。

 自由を失った俺の顔に、深月の顔が近づく。

「いい?絶対に私から目を離さないで」

 おいおい。意外と積極的なんだな。

「目は……瞑った方が?」

 俺は成されるがまま、恋する乙女のように、深月に問うた。

「絶対に瞑らないで。まばたきは、片目ずつにして頂戴。瞑ったら無理にでもこじ開けるから」

 いくらなんでもこれほどの至近距離でまじまじと見られていては恥ずかしすぎる。見た目によらず経験豊富なのか。

 深月は、じっと俺の顔を見つめる。穴が開きそうなほどに。

 目を離すなと言われたので、俺も深月の顔を見ていた。色が白く、くすみのない綺麗な肌をしている。ぱっちりとした瞼に、焦げ茶色をした瞳、まつげは長い。唇は。

「目を見て」

 はい。すいません。

 どれくらいそうしていただろうか、五分か、十分か。

 はた目から見たら、イチャイチャ中のにらめっこカップルに見えるんだろうな。実際は仏頂面の女子を真顔で見つめているだけの男子高校生なんだが。

 いや……何かがおかしくないか。

「……二十分たったわね」

「もうお遊びは終わりでいいか?いい加減疲れた」

 最初の一分程度がたった頃には、これがいつぞや深月と繰り広げた非常識極まりないにらめっこ合戦の再来だと、俺は理解していた。

「……この電車はいったい、どこに向かっていると思う?」

「さあね。知りたくもない」

「答えを教えてあげましょう。この電車は、どこにも向かっていない。私が見ているものをあなたに教えてあげる。私から見えるこの世界は、全てが静止しているわ」

「は?」

 よくわからん。俺はどうしたらいいんだ。

「降りましょう。私から目を離さないでね」

 そう言うと、深月は俺の顔を固定していた両手を離して、ボックス席の横にある、持ち上げ式の窓をグイっと開けた。

 そして、窓のあった場所に右手の指を突き出した深月は、軽く目を瞑った。

「おい、深月」

「行くわよ」

 何言ってんだ、と俺が抵抗を示す間もないほどの早業で、深月は俺の腕をむんずと掴む。窓枠に足をかけると、窓の外に思い切り飛び降りた。深月に引っ張られるがままに、俺も窓の外へ転げ落ち――。

「おわっ!」

 俺は上半身からホームになだれ落ちた。顔を保護するように、なんとか両手を地面に突くことができたが、じんじんとした痛みが骨を伝って脳髄まで襲い掛かってきた。

「いってえ……」

 したたかに打ち付けた手をさすりながら、周囲を見回す。深月は何とも無さそうに、直立して俺を見下げていた。無事に着地したようだ。

 嫌に静かだった。

 振り返ると、そこには先ほどまで乗っていたはずの電車はどこにもなく、青々しい田園の風景が広がっているばかりだった。

 線路の延長線上にもその存在を感じさせるような音は、どこにもなかった。

 それどころか、鳥や、遠くの農業用機械が駆動する音、虫たちの羽音といった、およそ環境が生み出す音は何一つ聞こえず、また、風が吹き抜ける風切り音すらなかった。

「急にごめんなさい。大丈夫?」

「どうなってんだ、これは……?電車は、どこへ行った」

 俺はまだ痛みの残る両腕を手で揉みながら、深月に引きずられた苛立ちすらどこかへ消失させて、うわごとの様に呟いた。

「大丈夫そうね。よかったわ」

「よくはない。危うく地球に頭突きしかけた」

「反抗期かしら。優しく受け止めた母なる大地には感謝すべきね」

「謝ってる人間が言うセリフじゃないだろ……」

 やると決めたら手段を選ばない宵待深月。せめて俺の迷惑にならない範囲で行動してくれないだろうか。そのうち、命を失いかねない予感が本気でしている。

「いえ、本当にごめんなさい。元気そうに見えたから……ふざけてしまって。とりあえず、少し落ち着きましょう」

 深月はそう言うと、人の居なくなったホームで、空いているベンチに腰掛けた。深月の暴走の理由を聞かねば腹の虫が治まらんので、俺も深月の隣に、おとなしく腰かけた。

「それで、これは一体どういうことだ」

「よく分からないわ。分かってたら、もっと無難に対処できたでしょう。私が感じたのは、電車に乗ったときに感じた異形の感覚。あとは、あの空間から逃れるために力を使った、というだけ」

「異形だと?俺は何も感じなかったが」

「そうでしょうね。例のふわふわも、触れば五感によって九夜くんでも感知できたでしょうけど、異形の存在そのものは五感で感知できるようなものではないの。こう……夏の暑い日に、アスファルトからぼんやりと、輻射熱が伝わってくるような、あんな感じ」

「……あのまま電車に乗ってたら、俺たちはどうなってたんだ?」

 深月は、ゆっくりと首を横に振った。

「分からないけれど……分からない物に身を任せるほど、愚かなことは無いわ。例え、何も起こらなくとも、それは結果論でしかない。絶対安全な方策をとった結果が、この世界ね」

 それには俺も同意する。行き先が分からない、得体のしれない電車に連れていかれた先が、狂喜乱舞する猿にいたぶられる電車でない保証は、どこにもない。

 ふと、俺は深月の言葉に引っかかった。

「……この世界?」

 すると深月は、口を結び、顔を強張らせて俯いた。彼女の言葉を待っていると、ようやく、少しずつ、彼女は話し始めた。

「この世界は、あなたの元居た世界ではないわ。ここは隣人の世界。私の世界。私は、ワンダーワールド、と呼んでいるわ」

「ワンダーワールド……?」

 俺は、馬鹿みたいに深月の言葉を繰り返すことしかできなかった。はた目から見れば、口も開きっぱなしでアホ面を晒していたに違いない。

「そう。時間が無かったから、窓の外に見えたホームをそのまま再構成したわ。この世界なら絶対安全だから、緊急避難的に逃れたわけだけど」

 へえ、そうなんだ。と適当な相槌を打てればよかったのだが、あいにくと俺の頭はそれほど良く働いてくれず、俺の頭は数十年前のダイヤルアップ接続みたいな音を出しかねないくらい、混線していた。

 俺は、こめかみを抑えながら、頭を働かせた。

「整理させてくれ。とりあえず、深月は電車に異形の存在を感知して、この……ワンダーワールドに避難をした。それは、感謝すべきなんだろうな。ありがとう。ところで、これは緊急避難だと言ったな。であれば、俺たちは正しく避難した方がいいのか?」

「そうよ。出来るだけ早く」

 深月は、相変わらず緊張のせいか顔を強張らせて、浮足立った声で言った。

「わかった。今は理由も聞かない、俺はお前を信じる。だから、ここを出よう」

「……出る前に、先に謝っておくわ。ごめんなさい。もしかしたら、あなたは怒るかもしれないから」

 それだけ言うと、深月は立ち上がって、俺の手を取った。その手は、小さく震えていた。

 電車の中でそうしたように、深月は虚空に指先を突き出して、なぞるようにした。俺には、その指先の指す空間の変化が明確に分からなかったが、その空間は蜃気楼のように、僅かににじんだように見えた。

 深月は、その蜃気楼に飛び込んだ。

 突然、眩いフラッシュライトに照らされたように、俺は目を瞑った。再び目を開けて目の前に広がった光景に、俺は記憶の糸を手繰った。あたりを見回すと、そこは駅舎の入り口だった。駅舎の入り口に立ち尽くしている俺たちを、制服を着た女子生徒が怪訝な目で一瞥し、駅舎の中へと入っていった。

「無事に戻れたようね」

 俺は、隣から聞こえた深月の声に振り返った。深月は、疲れたような顔で口角を僅かに上げて微笑んでいた。

「……大丈夫か?」

「そうね……申し訳ないけど、また少し、休みたいわ」

 俺たちは、駅舎の入り口のすぐ近くにあったベンチに腰を下ろした。

 駅舎の中に自動販売機があったことを思い出して、俺は深月をベンチに休ませて、ペットボトルの水を買いに行った。戻ってくると、深月は目を軽く瞑って、深呼吸をするように軽く口を開き、まるで眠っているように見えた。これほど消耗したような彼女の様子は、初めて見た。

「深月、水だ」

 俺が声をかけると、彼女は大変な労力を要するように、ゆっくりと瞼を開いて手を伸ばした。俺からペットボトルを受け取った深月は、軽く一口ほどの水を飲んで、それからすぐに蓋をした。

「ありがとう。楽になったわ」

 その言葉と裏腹に、深月は随分と具合が悪そうだった。それほど暑いわけでもないのに、顔が火照っているように見える。

「もう少し、ここで休んで行こう」

「……そうしようかしら」

 色々と聞きたいことが有った。しかし、喋ることすら、彼女にとって辛そうな行為に思え、俺はただ、駅を利用する人を眺めたり、徐々に陰りつつある夕陽を眺めたりしながら、彼女の様子に目を配っていた。

 駅舎の前は車が数台ほど止められるロータリーのようになっており、家族の送迎であろうか、駅舎から出てきた人を車に乗せて去っていく様子や、反対に、車から降りた人が駅舎に入っていく様子を、俺はぼうっと眺めていた。

 俺の隣では、静かな呼吸音がしている。あまり、彼女に気を使っても、彼女が余計に申し訳なく思ってしまうのではないかと思って、出来るだけ彼女の休息を妨げないようにした。

 駅前の街灯が点き始めたころ、規則的だった呼吸が不意に様子を変えて、彼女のふぅ、と息を吐く声が聞こえた。

「付き合わせて、ごめんなさい」

 彼女の様子は、先ほどよりも随分良くなったようだ。

「別にいいよ。気分はどうだ」

「調子が戻ってきたわ。まだ本調子ではないけど。帰るぐらいは問題なさそう」

 俺は、今まで彼女を弱い、と思ったことは無かった。彼女は時たま精神的な弱さを見せることはあっても、これほど消耗して、精神的にも肉体的にも疲労した姿を見せることは無かった。

 だから、俺は彼女の様子に、例えようのない不安を感じた。このまま帰してしまうのは躊躇われた。

「俺の家が近い。一人ぐらい増えようが晩飯に問題はないし、休みがてら飯でも食って行けよ。紗那絵も喜ぶ」

「……悪いわ」

「実を言うと、週末の安売りで食品を大量買いしたせいで、沢山余ってるんだ。冷凍庫もパンパンだから、料理をして少しでも減らしたい。協力してくれ」

 俺がそう言うと、彼女は目を細めて、かすれるように笑った。

「……ふふ。じゃあ、お邪魔しようかしら」

 ゆっくりと立ち上がった深月を連れて、俺たちは家へ帰った。

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