第20話

 俺には、小学三年生の頃まで、親父が居た。

 親父は、忙しい男だった。いや、忙しい男だと思っていた。いつも、帰りが遅く、入学式などの学校行事にも来たことは一度もなかった。 

 だから、親父と飾利は共働きだったけれど、飾利がほとんどの家事をこなしていた。もちろん、俺も小学生の頃から手伝っていたが。

 俺は、家族が平和であることを望んだ。それは、家族全員の幸せのためだった。だから、率先して家事もやったし、妹の面倒も見てきた。

 そんなある日のことだった。それはあくまできっかけに過ぎなかったが、いつかどこかで、必ず起こったように思う。


 俺は、職場から帰ってきた飾利と一緒に、夕食を作っていた。小学生の身では、手伝い程度でしかなかったが。

「いつもありがとね、しぃちゃん。すぐ作っちゃうからね」

「別に。まだそんなに腹、減ってないし」

 飾利は、急いで帰ってきたせいか、額に汗をかきながら、スーツ姿のままでエプロンを付けて、キッチンに立っていた。

 今日も親父は遅いだろうから、それほど料理を急ぐ必要も無いだろう。もしかしたら、帰り際にどこかで夕食を済ませてくるということもあるかもしれない。

 そんな夕食づくりの最中に、親父は帰ってきた。

 廊下から、スーツに髪型をびしっと決めた、親父が顔をのぞかせた。

「あら、おかえり」

 飾利が、料理をしながらそう言った。俺も、おかえり、と言った。 

「飯、まだ作ってる?」

「うん、ちょっと待っててね」

「あぁ、腹減った」

 そういって、親父は顔をひっこめた。おそらく、部屋着に着替えに言ったのだろう。

 結局それから夕食が出来上がったのは三十分後で、親父は疲れていたからか、イライラしていたように思う。

「結構時間かかったね」

「こんなに早く帰ってくると思わなくて。これでも頑張った方」

「普通、夕飯時には作っとくもんじゃない?」

「私も仕事があるから」

「俺だってあるよ。疲れて帰ってきてるんだからさ、ご飯ぐらいちゃんとして欲しいよ」

「そんなの私だって一緒よ。じゃあ私がご飯作るから、洗濯と掃除はあなたがやってよ」

「先に帰ってきた方がやればいいだろ」

 あまり覚えていないが、そんなやりとりをしていたと記憶している。喧嘩を聞きながら食う飯ほど、不味いものはない。その日の食卓は、豚の生姜焼きだったのだが、俺はその時、全く味を感じなかったように思う。ただ、少しでも早く喧嘩が終わらないか、さっさと夕食を食べきってこの場を去りたいと、それだけを思っていた。

 だが、俺までが感情のままに行動しては、この喧嘩に余計に火に油を注ぎかねない。二人の諍いは平行線をたどっていて、仲裁なしには解決しないだろうと思った。

 では、どちらを宥めるべきか。

 俺は、飾利を宥め、親父の肩を持つ方を選んだ。家事をしろと言われても、そもそもいない人間には難しいだろうと思ったからだ。

 そうして俺は、早く帰ってきた人間が家事をやるという親父の話にも乗っかり、俺が一番早いのだから、俺が家事をやることで請け負った。飾利は、まだ不満があるようだったが、なんとか、二人の喧嘩をその場で治めることが出来た。



 以降、俺は自分のやる家事を増やして、家族は家族として一応の平穏を保っていた。

 しかしそれは、仮初の平穏に過ぎなかった。

 親父は、会社の同僚と不倫をしていた。それも、十年にも渡って。飾利はブチ切れていた。入学式にすら来ないで、その理由がどこかの女と温泉旅行だったんだから。二度と関わりたくないと、飾利は養育費を断った。あいつは一度も、俺や紗那絵との面会に来ないし、他の女との生活が大事なんだろう。


「俺には親父と遊んだ記憶なんて碌にないが、少しでもあいつをかばってしまった自分の愚かさを呪った。幸福を願う俺の心を踏みにじったあいつを憎んだ。あいつもそうだし、あいつの相手をしていた女にだって家庭はあった。俺は、その時ようやく気付いたんだ。人間は平気な顔で他人を傷つけるし、嘘を吐くし、あまつさえ反省することも無い。それから、俺は母さんと紗那絵以外、信じられなくなった。今は、もう少し増えたがね」

 俺は、自分でも驚くほど自分の心情を明け透けに吐露してしまった。

 心なんて、誰かに付け入られるだけの隙でしかないと思っていたはずなのに、俺の心は話していくうちに不思議と軽くなっていた。

 それは、深月が自分の心を晒してくれたからだろう。

 俺は、こんな俺なんかの手助けをしたいと、役に立ちたいと心から思ってくれる少女の心を、美しいと思った。

 彼女の本当の心を目にして、それが彼女に付け入る隙だなんて、思いもしなかった。

 だから。

 俺が彼女を受け止められたように、彼女も俺を受け入れてくれる、そう思った。

 俺は彼女を、信じることが出来たのだ。

 俺が話をしている間、深月はただじっと俺の話に耳を傾けていたが、話を終えると真面目な顔をして、

「私はあまり、人の悪口は言いたくないのだけど、その男は屑ね。でも世の中は、そんな屑ばかりではないわ」

 と、ばっさりと切り捨てたものだから、俺は思わず笑ってしまった。

「世の中には良い人間がいるってことは、俺も真帆や喜兵を見て分かってるつもりだ」

 飾利や、紗那絵も勿論言うまでもない。二人は、俺が家族であるというだけで無償の愛を俺に提供している。俺が絶対に守りたいと、守らなければならないと思う存在だ。

「そこに私はカウントしてくれないの?」

「そのうちな」

 深月はむくれた様に、口をへの字に曲げていた。

「まあいいわ。そうやって少しずつでも、あなたが信じられる人が増えていくなら……私は嬉しい」

 気が付くと、日は完全に沈み、公園には街灯がともっていた。

 あまりぐずぐずしていると、夕食はまだかと紗那絵が怒りだすかもしれない。

 俺は深月を促して、今日の晩御飯の献立を彼女とあれやこれや言いあいながら、帰路についた。

 深月は、我が家の最後の晩餐にカレーライスをご所望だった。

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