第19話
帰り道、宵待は俺の家の私物を回収してから、新たな拠点へ向かうということで、共に学校からの帰路についていた。たかだか数日のことで、感慨などというものはないが、それでも明日からは一人と思うと、若干の寂しさを感じないでもない。
「そういえば、お礼を言ってなかったわね。今日はありがとう」
「礼を言われるようなことをやった覚えはないが」
「昼間の事。古郡さんと、向島さんと話す機会を作ってくれて」
「別に、俺がどうにかしたわけじゃないさ。二人が提案してきたんだから、感謝するなら二人にすると良い」
「でも、きっと私一人では……たぶん、二人とうまく話せなかっただろうから。やっぱり、ありがとう、だわ」
散々俺に軽口を叩いているのだから、そんなことは無いと思うが、何度も否定を繰り返すのもキリがないので、素直に受け取っておいた。
もちろん、俺は重要な忠告を忘れなかった。
「真帆は基本的には良い奴なんだが、付き合う時は気を付けた方がいい。あいつのおかげで俺は小中学校の頃に何度も死にかけた。主にその無自覚な身体的能力によって」
「ええ、肝に銘じておくわ」
宵待は小さく笑った。
「九夜くんは、古郡さんや、西極くんとは随分仲が良いわよね。羨ましい。私にはそういう友人が、いなかったから」
まるで独り言のように呟いた宵待の言葉に対し、俺は返答に窮した。
「これからできるだろうさ。真帆も、それにたぶん、向島も」
俺は、隣を歩く宵待を横目で見た。眼鏡の奥の瞳は、何を考えているのか、俺には読み取れそうになかった。
「ずっと、言おうと思ってたことがあるの」
宵待は不意にそう言うと、急に俺の前に歩み出て振り返った。
「少し寄っていきましょう」
宵待に誘われたのは、いつも登下校時に通り過ぎる公園だった。もう夕方なので、子どもたちの姿はほとんどない。
俺と宵待は、ベンチに並んで座った。
しかし、誘ってきたのは宵待だというのに、なかなか話を始めようとせず、黙ったままで公園の様子を眺めてばかりだった。
「この時間だと、静かなもんだな」
「そうね」
言いたいことがあったんじゃないのか、と問いたかったが、自分のタイミングとやらを見計らっているのだろうか、こちらから尋ねるべきか、などと考えているうちに、宵待はこちらを見た。
「九夜くんは、私の事、どう思っているの」
俺は、思わず硬直した。なんと答えるべきだろうか。適切な言葉は。
「……友人だと思ってる」
「嘘ね」
その声は決して大きな声ではなかったが、まるで公園全体の音を奪ってしまったかのように、響いて聞こえた。
「……酷いな。俺が嘘を吐いたことがあるか?」
「あなたは嘘の塊だわ。だってあなたは、私を友人とも思っていなければ、そもそも微塵も信用していないんだもの」
俺は、虚を突かれた。周囲の温度が急に数度下がったような心地がした。
呼吸の仕方を忘れてしまって、苦しくなる。
「あなたは、日之出朝陽への対策として私を受け入れたわけではないでしょう。そもそも、私を監視することを唯一の利益として、あなたは私の同行を受け入れた。あまつさえ、家のリビングにカメラまで設置してね。今のあなたは、表面的には私の境遇に同情しているけれど、本能的に、私を否定している。私があなたを嘘の塊と言ったのは、そういうことよ。あなたはあなたの心に対してすら、嘘を吐く。本心を秘匿する」
遠くで鳴いたカラスの声が、いやにはっきりと聞こえた。
俺が返す言葉は、この公園のどこにも転がっていなかった。
「口が悪いな。流石の俺でも、ちょっと気が滅入る」
俺が返すことが出来たのは、そんな浮ついた非難の言葉だけだった。さも自分が傷ついていると言わんばかりの、宵待の同情を乞う言葉だけだった。
「今もそう」
宵待の言葉が、鮮明に聞こえる。
「あなたは、さっきから一度だって、私の方を見ていないわ」
思わず俺は肩をすくめて、ゆっくりと宵待の方を見た。
宵待はこちらを見ていた。眼鏡の奥の瞳は冷たい湖面のように、冷ややかに、俺を映していた。
「いえ、先ほどの話は少し違うかしら。思うに、あなたは根本的に人間を信用していない」
「……随分知ったような口をきいてくれるじゃないか。俺のかかりつけ心療医にでもなったつもりか?」
その見透かしたような言葉に、俺は一抹の苛立ちを覚えた。
「紗那絵ちゃんから聞いたわ。お父様の事。彼女は、あなたのことを心配してる」
俺の自律神経は大量の血液を頭に、顔に送るよう、心臓に命令したらしかった。頭が、ずきずきと痛む。
それは俺が、絶対に誰にも知られないように、隠してきたことだ。俺の心の中だけに、仕舞いこんでいたことだ。
「紗那絵に随分気に入られたようで結構だがな。……こういうことを言うんだろうな。人の心に土足で踏み入る、ってのは」
怒鳴りたくなる感情を、俺は何とか押さえつけた。
宵待は墓荒らしのように俺の神聖な領域を侵し、暴き、そして泥を塗りたくっている。
「あなたは、そう思ってくれてはいないのでしょうけど。私は、あなたの友人として……あなたを心配している」
「俺は同情してくれと頼んだ覚えはない」
「頼まれなくてもお節介を焼くものよ。友人というのは」
「勝手に、友人面をするな」
俺は、俺が最も恐れている言葉を、一言一言嚙み締めるように、宵待に向けて放っていた。
宵待はそれでも、少しも怯むことなく、俺を見据えていた。
「話してくれるかしら。あなたの言葉で」
「嫌だね」
「……あなたは臆病者よ。誰かに裏切られたくないから、誰も信じない。それでは、あなたは孤独になるだけだわ」
「俺は、俺の行動の責任を一意に持つ。俺の行動の結果が孤独なら、俺はそれを受け入れるだけだ」
「……私は、破滅に進むあなたを止めたい」
宵待は、俯きがちに言った。
「破滅?破滅だと。俺は合理的な判断を下しているだけだ。リスクは、発生確率と被害規模の掛け算なんだ。自分が耐えられない被害を被るおそれがあるなら、発生確率をゼロにするために努力することは、何かおかしいことか?」
「おかしいに決まってる。だから、だからこそ私は……あなたが心配なの」
その声には先ほどまでの気丈さは無く、支えを失ったように、酷く震えていた。
彼女の白い頬を伝った大粒の涙が、点々と地面に跡を作った。
「……前に少しだけ、話したわよね。私、転校してばかりだったから、全然友達なんてできなくて。いつしか、友達なんていらないって。私は一人でも強く生きていけるんだって、そう思うようになったわ」
零れ落ちる涙を拭うことも無く、言葉につかえながら話す宵待を、俺は何も言えずに見ていた。
「最初は、あなたのことを、異形を纏う怪しい人間だと思っていた。観察するうちに、あなたは私と同じ人間なんだと分かった。孤独を生きる人間同士、仲良くなれるんじゃないか。そう思って私は、あなたに近づいて……仲良くなろうとした。誰にも話したことの無い、異形の話まで持ち出して」
俺は、あのベランダでの宵待との会話を、思い出していた。異形について話す彼女はたどたどしく、そして時に、嬉しそうだったことを。
「あなたや、紗那絵ちゃん、古郡さん、向島さんと話して、分かったわ。孤独は……一人は、楽よ。大きな悲しみは無い。でも、その代わり大きな喜びもの可能性もまた、存在しない。それは他ならぬ、私がよく分かっている」
宵待は眼鏡を外し、目尻の涙を拭った。
再び眼鏡をかけた彼女の瞳には、春の心地のようなぬくもりが宿っていた。
「だからね。私は、私にとっての最初の友人に、幸せになってもらうために努力したいの。押しつけがましくても。たとえ、嫌われてしまうのだとしても」
彼女の頬を伝った涙の跡が、夕陽を反射して煌めく。
それは俺が今まで見た中で、一番綺麗な、一番純粋な、心に違いなかった。
「……馬鹿だよ、お前は」
俺は、やっとのことでその言葉をひねり出した。その声は、自分でも随分滑稽に聞こえた。目の前の少女に伝わったかどうかわからないから、俺はもう一度言った。
「お前は、馬鹿だ」
自分の声が、自分の声ではないような気がした。酷く震えている。
「お前って言わないでって、言った」
「……宵待」
「名前でもいいんだから」
「馬鹿深月。自分から嫌われてもいいなんて言う人間は、大馬鹿だ」
「馬鹿馬鹿言い過ぎ。罰として、全部喋りなさい。私はこれだけ恥ずかしいことを喋ったんだから」
そう言って、深月は柔らかい笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、俺は、家族にすら話したことの無かった想いを、話す気になってしまった。
俺たち家族の、親父のことを。忘れ得ぬ、背信の記憶を。
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