第18話

 その日の放課後、俺と宵待は文芸部室を訪れた。喜兵に事前に連絡したところ、鍵は開けておくから先に入って待っていろ、とのことだったので、勝手に入らせてもらった。

 俺と宵待は、喜兵の指定席に対面する二つの席に並んで座った。

 宵待はいつものように澄ました顔をしていたが、一言、昼のことを謝っておこうと思った。

「昼間は、急に人を増やしてすまなかったな。断りもなく」

「そんなこと、別にいいわ。元々二人で食べよう、なんて約束をしていたわけでもないし。それに……楽しかったしね。結局、今まで二人には何度かお昼を誘われたけど、あなたを尾行するために断ったり、すっぽかしたりしてたから……二人には悪いことをしたわ」

 宵待は伏し目がちに、そう答えた。

 楽しかったならば何よりだと思う傍ら、俺は余計にやるせなくなった。彼女から交友の機会を奪っているのは、ほかならぬ俺だ。

「……すまん。俺のせいで」

「気にしないでよ。これは、私の善意。誰かの役に立てるなら、立ちたいの」

「俺は……もういいんじゃないかって思ってる。結局、ここしばらく何も起こっていない。どうやら本格的に、喜兵の推測が正しいんじゃないかと、考えてる」

 俺は、ずっと考えていたことを宵待に告げた。

 脳裏に蘇るのは、宵待と、真帆と、向島の三人が楽しそうに笑う光景。あの時の宵待は一番幸せそうに見えた。

 これは俺の独断と偏見でしかないが、彼女は普通の学生生活を過ごすのが一番のはずなのだ。あれこそが、本来あるべき姿なのだ。

 それに、俺は怖れている。

 この状況が暫定的なものではなく、いつか日之出朝陽の凶刃が襲い掛かってこないとも限らない。その時に俺の剣となり盾と成り得る存在が宵待だ。

 俺は別に、宵待に好意を抱いているわけではない。だがとにかく、彼女がおぞましいものに襲われたりだとか、傷ついたりだとか、そういう目に遭っている姿が見るに堪えない。

 彼女が損なわれるのが、怖い。

 そしてそれは、彼女自身に限らない。彼女に友好的な友人たちも、紗那絵も、彼女が傷つけられたことを知れば、悲しむことになる。

 彼女の周りの人間が嘆き悲しむ姿が、怖い。

 彼女や彼女の友人たちに対する責任を、俺は負うことができない。

 俺が負えるのは、自分の命だけだ。それ以上のものは、俺には重すぎる。

「……もし、その朝陽さんが、何らかの目的をもって、あなたに手を出すのを控えているのだとしたら?」

 俺は首をゆっくりと横に振った。

「それはありえない。そうする必要が無いからだ。日之出朝陽が、俺が宵待を遠ざけることを狙っている、というその発想自体が、有り得るはずがない。なぜなら、日之出朝陽は既に一度、宵待を退けている。一度退けた人間がまた、遠ざかるのを待つ、なんてのは合理的ではない。朝陽は自分の力でどうにでもできるんだからな」

 宵待は俺の方をじっと見つめながら、話を聞いていた。その瞳は静かな水面が風で揺らいでいるようだった。

「俺は不必要に保険をかけるほど、馬鹿じゃない。だからここで終わりにする」

「それは、あなたの本心かしら」

 宵待は食い下がった。

 たしかに、彼女と共にあることは、幾らかの利益があることは否定できない。紗那絵の学力は向上していくだろうし、俺の退屈しのぎにも付き合ってもらっている。

 それでもだ。今の関係は健全ではない。俺は自らの身の安全と彼女の善意を人質にして、彼女を付き合わせている。

 誰かや何かを犠牲にして得る物に意味はない。……違う、宵待を犠牲にして、俺は何かを得たくない。

「本心だ。花の高校生活のスタートダッシュが、こんな男と一緒では出遅れるだろ。俺としても、可愛い女の子やエネルギッシュな友人たちとの交友を愉しみたいと思ってるんだ。だから……そうだな、これは提案ではなく、お願いだ」

 宵待はじっと、俺の本心の奥底まで見透かさんと言わんばかりにじっと見つめて、それから溜息を吐いた。

「わかったわ。あなたの言うことは理解できる。脅威は去ったか、元々なかったのだとね。今日からあなたのお母様もお帰りになるだろうし、あまりお世話になっては流石にご迷惑だと思っていたところよ。今日にでも、私はあなたの家を出て行く」

「念のため、誤解の無きように言っておくが、俺は家から宵待を追い出したいわけじゃないんだ。まだ自宅に帰れないようであれば、居たいと思うなら俺は居てもらっても構わないし、今までの借りもあるから、母さんや紗那絵に頼み込んだっていい。そこは宵待に委ねる」

 俺がそう言うと、宵待は口角を上げてと微かに微笑んだ。

「以前とは随分違う待遇ね。九夜くんの厚意には感謝するけれど。やっぱり、出させていただくわ」

「わかった」

 俺は、それ以上何も言うことなく、彼女の意思を尊重した。

「俺たちはこれから、普通のクラスメイト、ということだ」

「なんだかよそよそしい。もう少し先を行っても良いんじゃない?つまりは、私とあなたは、友人よ」

「まあ、俺としては特に異論はない」

「……あなたは、嘘つきね」

 ふふ、と宵待は小さく笑った。

 俺に向けられたその笑顔には、俺を見透かしたような何らかの感情を含んでいるように感じられた。

 なんだかんだと理屈をこねておいて、俺はただ。

 宵待と普通の友人になりたかったのかもしれない。

 その時、こんこん、と扉をノックする音が狭い部室に響き、入室を促すより早く、鞄を背負った喜兵が入ってきた。

「すまん、遅くなった」

「いや、問題ないぜ。ちょうどこっちでも、話が付いたところだったから」

 喜兵はこちらを一瞥してから、鞄を部屋の隅の定位置に置くと、俺と宵待の対面にある喜兵の指定席に座った。

「それで」

「保険は今日で終わりだ。結局、日之出朝陽からの接触はなかったし、喜兵の言う通り、理由は分らんが奴は諦めたんだろうな」

「そうか。保険をかけたのは、元々志渡の納得と安心のためだったからな。それで、志渡も宵待女史も納得しているならば、俺が異議を挟む道理はない。宵待氏の方も、納得ずくなんだな?」

「ええ。私の方は……そうね。九夜くんの思いもそうだけれど、これ以上の害がなさそうだという点に納得して、今後の継続は不要と判断したわ」

「ならば、俺は何も言うまい」

 一も二もなく、喜兵は同意した。あっさりしすぎて拍子抜けだ。もっとも、何もする必要が無い、と最初に言ったのは喜兵だったので、当然と言えば当然かもしれないが。

「用はそれだけか」

「いろいろと世話になったから、ちゃんと報告ぐらいしようと思って。忙しいところ悪かった」

「かまわん。張りのある人生を送るために一定のストレスが必要なように、俺にも時にはこうした頭の体操が必要だ。学校の授業では退屈極まりない」

「喜兵の脳細胞の肥やしにでもなってたら幸いだよ」

 喜兵は、口元を歪めて笑った。

「肥やしにならんものなどないさ。ああは言ったが、退屈でさえ、刺激を刺激と感じるための大切な肥やしだと俺は考える。そうだな……日之出朝陽という存在との間に一旦の区切りをつけるために、一つ、彼女の存在と、その目的について考えてみようじゃないか。二人は、ハイデガーは知っているか?」

「どこかで聞いたことが有る気がする」

 どこだったかは忘れた。いつぞや、喜兵がそんな本を読んでいたような気がする。

「ドイツの哲学者ね。マルティン・ハイデガー」

 宵待がさらりと答えた。これが読書量の差か。宵待なら、喜兵といい勝負になりそうだ。

「そう、そのハイデガーだ。ハイデガーは存在するとはなにか、を考えた哲学者だ。簡単に言えば、存在するということは、そこに在る、ということに他ならない。ただし、そこに在る物そのものと、そこに在る、という状態は別だと、彼は考えている。これはどういうことかというと、そこに在る物そのものの『存在』とは、もの自体のもつ形質であるが、そこに在る、という状態は、状態を認識する存在ありき、ということだ」

 おかしい。日本語なのにさっぱりわからん。

「つまりは、今この部屋に机そのものが在るわけだが、それが在るという状態を定義しているのは、この机を観測している我々に他ならないというわけだ」

 そういう話か。それなら理解できる。

 でも、観測こそが重要というなら、気になることが有る。

「じゃあ、例えばこの部屋全体が真っ暗になって、机を観測できる人間がいなくなったら、どうなるんだ?」

「そのときにも、机は存在しているし、存在しているという状態もまた継続される。何故なら、我々は、感覚器官を有しているからだ。聴覚や触覚でも、存在している状態を認識できる」

 確かにそうだ。では、触覚も嗅覚も聴覚も視覚も味覚も無くなったとしたら。俺は机を机と認識できない。

 喜兵は、なおも愉快そうに話を続けた。

「一方、日之出朝陽はどうか。彼女の存在は、志渡と相見まえた過去の時点において、日之出朝陽そのものが在り、また存在している状態にあった。志渡が日之出朝陽を観測していたからな。今はどうか。日之出朝陽という存在は在るのかもしれないが、少なくとも、観測されていない限り、彼女は存在している状態にないと言える」

 奴の存在がどこかにあるのか、どこにもないのか、というのは判断しようがないな。なんだか言葉遊びに聞こえてきた。

「ここで再び、ハイデガーの思想を持ち出そう。ハイデガーの思想に、『世界内存在』という言葉がある。これは『存在そのもの』は相互に関係しあって世界に存るという考え方だ。人間も『存在そのもの』である限り、何かと関わらずに在ることは避けられない。一方、ハイデガーが言うには、人間は死に向かって生きているという。この二つを捉えると、日之出朝陽の魂胆が推測できやしないだろうか。以上を踏まえると、人間が死を避けるにはどうするか?」

 俺には、喜兵の言いたいことがぼんやりではあるが、分かってきた。ただ言語化が難しい。

「人間でない存在になる、ということかしら?」

 宵待は考え込むようにして言った。

「……近い。何ものとも、どのような存在とも相互関係を絶ち、ハイデガーの言葉を借りるなら、『世界外存在』とでも言うべきものになることだ。『存在そのもの』であることの否定、そして、『存在しているという状態』の否定。日之出朝陽はこの二つの否定によって、自らに永遠性を付加しようとしたのではないか、と」

 俺は黙ってその言葉の意味を噛み締めていた。

 永遠性の追求。そもそも日之出朝陽が、いったい何なのか、分からないが……いずれにせよ何故、彼女はそんなものに囚われているのか。

「俺には、実に人間らしいと思うがね。つまるところ人間の人間的活動は、生命延長のための活動であるし、人間は身体機能を科学技術を用いて補完・拡張することで、より良く、長く生きることを追及している。これは日之出朝陽の野望に至極似通っていて、アプローチは違えど、まさに宵待女史の考えたような、人間性の否定による死からの隠遁ではないかね」

 分からなくもない。分からなくもないが、何かが引っかかる。

「だとすれば何故、日之出朝陽は、一度俺の前なんかに姿を現したんだ。存在を否定したいのであれば、真逆のことを実行したことになるじゃないか」

「ふむ、その点に応えられていないことは確かだ。概ね、志渡が簡単に屈服しなさそうであるから、初期作戦を変更したのだろう」

 そういう可能性も否定はできないが。不都合に目を瞑っているようにも思える。

「とまあ、頭の体操はこんなところだ。いずれにせよ、目下の脅威は去ったようだし、元の生活に戻るといいだろう」

 喜兵はそして、暇があればまたいつでも来るといい、と俺と宵待に言った。喜兵には悪いが、俺たちが二人で来るような機会は、今後無さそうだ。

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